無明
軍営に来て、三ヶ月が経った。
お嬢様は、朝も夜も働いている。
半年前までなら、誰かに起こされなければ昼まで眠っていたのに。
今では、私が起こすより先に起きている。
麻布の衣。
粗末な面紗。
身につけているものだけを見れば、もうかつてのお嬢様の面影などない。
それでも――
お嬢様は、目を見張るほど美しかった。
その美しさは、残酷なほどに三ヶ月前と変わらない。
身分も、家も、家族も、故郷も。
すべてを失ったというのに――
その美しさだけは、何一つ失われていなかった。
だが
お嬢様は、以前の彼女ではなかった。
軍営に来たばかりの頃は、血を見るたびに吐いていた。
患者の傷口を見るだけで、顔が青ざめる。
夜になれば眠れず、蝋燭を何本も灯していた。
炎をじっと見つめながら、朝まで起きていることもあった。
何度か、魘されているところも見た。
「お嬢様……」
声をかけると、はっと目を覚ます。
「……小雪?」
「はい。ここにおりますよ」
そう言うと、お嬢様は少しだけ笑う。
「ありがとう」
それ以上は何も言わない。
私も、それ以上は聞けなかった。
聞いてはいけない気がした。
あの日のことを。
沈家のことを。
旦那様のことを。
奥様のことを。
三人の若様のことを。
口にすれば、お嬢様がまたあの日に戻ってしまいそうだったから。
それでも不思議なことに、患者が運ばれてくると、お嬢様は変わる。
「こちらへ」
「傷を見せてください」
「止血を」
「その薬を持ってきて」
迷いのない手。
落ち着いた声。
患者が苦しんでいれば、夜も昼も関係なく治療する。
まるで、治療している間だけは何もかも忘れられるかのように。
患者がいなくなると、またぼんやりと蝋燭を見つめる。
そんなお嬢様を見ていると、胸が苦しくなる。
もっと眠ってほしい。
もっと休んでほしい。
そう思っていた時だった。
ふと、昔のことを思い出した。
江夫人がお休みになる前に、私がお出ししていた薬。
安神湯。
眠りにつきやすくするための薬だ。
あれなら、お嬢様も少しは眠れるかもしれない。
そう思った。
けれど、すぐに現実を思い出す。
安神湯に使う薬材は高価だ。
今の私たちには、とても手の届かないものもある。
以前なら、何の迷いもなく用意できた。
沈家の財であれば、簡単に揃えられた。
けれど今は違う。
お嬢様は、沈家の娘ではない。
私も、ただの下女だ。
それでも。
諦めたくなかった。
お嬢様には、少しでも眠ってほしい。
せめて夢の中だけでも――
あの頃のように、眠ってほしい。
そう願いながら、私は安神湯に必要な薬材を頭の中で一つずつ思い浮かべていた。
天幕の外から声がした。
「王太子殿下がお見えです」
顔を上げると、間もなく天幕の幕が上がった。
そこには長淵様が立っていた。
「変わりはないか?」
穏やかな声だった。
「はい」
お嬢様の返事は、いつも通り短い。
お嬢様と共に軍営の天幕で暮らすようになってから、長淵様は時折ここを訪れるようになった。
周囲の者たちは、元婚約者候補であったお嬢様への哀れみだろう、と噂している。
けれど、私にはそうは思えなかった。
長淵様の目には、いつもお嬢様を案じる色があった。
「これは頂き物だが、よかったら飲んでくれ」
そう言って、長淵様は上質な茶葉を置いた。
貴族が好んで飲むものだ。
「ありがとうございます」
お嬢様は小さく頭を下げた。
「では」
長淵様はそれだけ言って、天幕を出ていった。
私は置かれた茶葉を見つめた。
その瞬間、ふと思った。
――もしかしたら。
安神湯を用意していただけるかもしれない。
今の私たちでは手に入らない薬材も、王太子殿下ならば。
「……殿下!」
気づけば、私は天幕を飛び出していた。
少し先を歩く長淵様の背中を追いかける。
「あの、王太子殿下!」
長淵様が足を止め、振り返った。
「どうした?」
私は一度息を整え、それから深く頭を下げた。
「お願いがございます」
「お嬢様に……」
声が震えた。
「お嬢様に、安神湯をご用意していただけないでしょうか?」
長淵は一瞬だけ、その目を細められる。
「……眠れていないのか?」
「はい。この頃、ずっとです」
長淵様はしばらく何も言わなかった。
けれど、それ以上は何も尋ねなかった。
「そうか……」
短く呟く。
そして、私をまっすぐ見た。
「夜までに届けさせる」
「……ありがとうございます!」
深く頭を下げた。
顔を上げた時には、長淵様はもう歩き出していた。
その背中を見送りながら、私は胸の前で手を握った。
これで少しでも、お嬢様が眠れますように。
安神湯は、長淵が側近にいくつか用意させ、瑶月の元へ届けさせた。
「これほどまでに世話を焼かれる必要がございますか?」
側近にそう問われた時、長淵はただ一瞥した。
側近はそれ以上、何も言わなかった。
瑶月が軍営に入ってからというもの、長淵は何かと彼女のために動いていた。
夜に不安にならないよう、瑶月の天幕には他より多めに蝋燭を届けさせた。
周囲の兵士たちが「毒使い」などと瑶月を悪く言えば、それとなく止めさせた。
本人には知らせていない。
知らせるつもりもなかった。
――自分でも、なぜここまでしているのか分からない。
「兄様!」
「……ん?」
声をかけられ、長淵ははっと我に返った。
目の前では、妹の明珠が頬を膨らませている。
「ねえ、ちゃんと聞いていらした?」
「……すまない。もう一度言ってくれ」
「もう!」
明珠は呆れたように息を吐いた。
「だーかーらー、兄様の婚約者候補が庶民になったおかげで、思い人を諦めなくてもよくなったのですわ」
明珠は嬉しそうに笑った。
「喜ばしいことですわね!」
長淵は、しばらく妹の顔を見つめた。
なんの悪意もない。
ただ、兄の幸せを喜んでいるだけだ。
だからこそ――
胸の奥が、ひどく痛んだ。
あぁ。
なんという皮肉だ。
その「思い人」が、まさか自分が今も気にかけ続けている、あの庶民だとは。
そんなことを、口が裂けても妹には言えない。
「……そうだな」
長淵は、いつもと変わらぬ顔で軽く笑った。
けれど、その笑みの奥には誰にも言えない想いがあった。
夜。
天幕の幕が上がった。
小雪の手には、一つのお椀があった。
そこから、どこか懐かしい香りが漂ってくる。
その香りに導かれるように、瑶月の記憶の底に沈んでいたものが、ゆっくりと浮かび上がった。
母の記憶。
瑶月の表情が、わずかに揺れる。
「お嬢様、安神湯でございます」
「……安神湯?」
その名を聞いた瞬間、それが入眠を助ける薬だと思い出した。
「ええ……」
小雪は少しだけ迷うようにしてから、静かに続けた。
「江夫人が、よくお休みになる前に飲まれていたものです」
「……そう」
瑶月はお椀を見つめた。
小雪が自分のために持ってきてくれたもの。
そして――
母が、かつて飲んでいたもの。
しばらく眺めていたが、やがて両手でお椀を包み込んだ。
ゆっくりと口をつける。
懐かしい香りが、身体の中へ染み込んでいく。
その夜。
瑶月は久しぶりに、深い眠りについた。
まるで――
かつて母に包まれていた頃のように。




