間話 満月の下
五年前。
俺は、まだ十二歳になったばかりの弱勢の王太子だった。
幼い頃から、何度も命を狙われた。
毒を盛られたこともある。
寝所に刺客が忍び込んだことも、一度や二度ではない。
だから、いつの頃からか――生きることに疲れていた。
王太子という座にも。
この先に待っている未来にも。
その頃の俺は、王宮の湖畔に建つ書楼に籠ることが好きだった。
ここにある書物を、すべて読み終えたら死のう。
そう決めていた。
その日も、自分の誕生日を祝う宴が開かれているにもかかわらず、俺は書楼に籠っていた。
ふと窓の外を見る。
今晩は満月か。
月明かりが湖面に揺れている。
手元の書物を見る。
これが最後の一冊だった。
これを読み終えたら――
その時だった。
書楼の下から、焦げ臭い匂いが漂ってきた。
火事だ。
また誰かが俺を殺そうとしているらしい。
俺は鼻で小さく笑った。
今日は、その誰かの願いを聞き届けてやろう。
そう思い、再び手元の書物へ目を落とした。
「火事よ!」
突然、目の前に見慣れない幼い少女が現れた。
顔は帷帽で隠されている。
「逃げないと!」
少女はそう言って、俺の腕を掴んだ。
「……放せ」
俺は少女を一瞥した。
「もう、この書楼の書物は全部読み終わったんだ」
「だから?」
「だから、死んでもいい」
少女は軽く首を傾げた。
「外に、もっとたくさんの書楼があるわよ」
「……え?」
あまりにも当たり前のように言われて、言葉を失った。
「だから、こんなところで死んだらもったいないわ」
少女はそう言って、俺の腕を引っ張った。
わけが分からなかった。
けれど。
気がつけば、俺はその少女と一緒に走っていた。
燃え広がる書架を抜け、階段を駆け下りる。
しかし、火の勢いはすでに逃げ道を塞いでいた。
「こっち!」
少女が叫ぶ。
「え?」
次の瞬間。
俺たちは手を繋いだまま、三階から湖へ飛び込んだ。
冷たい水が全身を包む。
必死に水面へ顔を出した。
「……っ!」
俺はすぐに少女を探した。
だが、どこにもいない。
遠くに、帷帽だけが水面を漂っている。
まさか――
胸が大きく跳ねた。
「おい!」
その時。
「ぷはっ!」
湖面から少女が顔を出した。
俺は思わず息を呑んだ。
帷帽が外れたことで、長い髪が水面に広がっている。
解けた髪は、ゆるい波のように少女の肩へかかっていた。
月明かりに照らされたその姿は――
まるで、この世のものではなかった。
髪も、瞳も。
満月の下では深海よりも青く、宙よりも深い紫色に見えた。
その姿は、神々しいほど美しかった。
「……君、名は?」
思わず尋ねた。
少女は俺を見つめた。
そして、右手の人差し指を唇に当てる。
「し――」
いたずらっぽく微笑んだ。
そのまま何も答えず、向こう岸へ泳いでいく。
俺はただ、その背中を見つめていた。
名前すら知らない。
どこの誰なのかも知らない。
それなのに。
なぜか、胸の奥だけが騒がしかった。
――その夜。
死ぬつもりだった俺は、初めて明日が来るのを待った。




