幸せな日々 1
――三ヶ月前。
朔国東部 東州
そこには、代々武名を馳せてきた名家、沈家の屋敷があった。
「お嬢様、起きてください。今日は旦那様方がお帰りになる日ですよ」
柔らかな声が、静かな部屋に響いた。
「……ん……」
布団の中でもぞもぞと身じろぎしていた少女が、ぱちりと目を開ける。
「あ、そうだった!」
沈瑶月は勢いよく身を起こした。
美しく装飾された部屋。
淡い色の帳が揺れ、窓から差し込む朝の光が、室内に置かれた調度品を照らしている。
幼い頃から瑶月の身の回りを世話してきた下女の小雪は、そんな彼女を見て、思わず微笑んだ。
「お嬢様、慌てなくても旦那様方は逃げませんよ」
「だって、久しぶりに帰ってくるんだもの!」
瑶月は急いで身支度を整えると、そのまま母のいる部屋へ駆けていった。
「母上ー!」
「あら、瑶月。そんなに慌ててどうしたの?」
「今日、お父様たちが帰ってくるでしょう?」
「ええ」
「じゃあ、今日も髪の毛編んで!」
瑶月は母の前に座り込む。
「お父様たちが帰ってくるから、いつもより可愛くしてね」
「はいはい。こっちへいらっしゃい」
母――江氏は、いつものように穏やかな笑みを浮かべ、瑶月を自分の前へ座らせた。
長い髪を指で梳く。
瑶月の髪は、生まれつき光を含んだように美しかった。
江氏は慣れた手つきで髪を分け、ゆっくりと編み始める。
「ねえ、母上」
「なあに?」
「城下では今、髪の毛を半分だけ下ろして、髪飾りをつけるのが流行ってるみたい」
「そうなの?」
「うん。私もそれがいいな」
瑶月が鏡を覗き込みながら言う。
江氏は小さく笑った。
「瑶月の髪は美しすぎるもの。綺麗に編んだほうが、上品でよく似合うわ」
「なにそれ」
「ふふ」
二人の笑い声が、穏やかな部屋に響く。
母の指が髪を編むたび、瑶月の髪は少しずつ美しい形へ整えられていった。
やがて、最後の一房が結ばれる。
江氏は瑶月の肩に手を置き、鏡越しに娘の顔を見つめた。
「綺麗よ、瑶月」
「本当?」
「ええ」
江氏は優しく微笑んだ。
「瑶月。あなたが大好きよ」
瑶月も鏡越しに母を見る。
「私もよ、母上」
母娘は顔を見合わせて笑った。
それから江氏は、いつものように娘の髪をそっと撫でる。
「瑶月」
「なあに?」
「大切なものや、好きなものは――」
二人の声が重なる。
「相手に悟られないように」
「母上、もう何度も聞いてるわ」
瑶月は少し呆れたように笑った。
「ちゃんと分かってるわよ」
江氏は何も言わず、ただにっこりと笑った。
その笑顔を見て、瑶月も笑う。
その日の沈家には、久しぶりに家族が揃う。
母から毎日のようにかけられる言葉がある。
――大切なものや、好きなものは、相手に悟られないように。
幼い頃から何度も聞かされてきたその言葉の意味を、瑶月はなんとなく理解していた。
自分は名家に生まれた一人娘。
沈家は朔国東部で名を知られた武家であり、父も兄たちも国のために戦う武人だ。
そんな家に生まれた自分が、普通の娘として一生を終えることなどない。
十中八九、将来は政略結婚。
そして、嫁ぐ先によっては、自分自身も政の中心に置かれることになる。
だから母は、何事も簡単に人へ悟られてはいけないのだと教えているのだろう。
感情も。
欲しいものも。
大切なものも。
それらを知られることが、自分だけではなく一族、または民を危険に晒すことになる。
屋敷の使用人たちも、皆そう思っている。
――お嬢様はいずれ、王太子殿下のもとへ嫁がれる。
誰も口には出さない。
けれど、そうなるのだろうと考えていることくらい、瑶月にも分かっていた。
幼い頃から受けてきた教育も、普通の娘が受けるものではなかった。
礼儀作法、歴史、政治、地理、詩歌、書、音楽。
将来、王太子の妃となっても困らないように。
そう言われたことはない。
けれど、これが妃教育なのだということくらい、いつしか瑶月にも分かるようになっていた。
そんな勉強の合間に、瑶月が自ら望んで学んだものもある。
医術だった。
戦場へ赴く父や兄たちの役に立ちたかった。
少しでも怪我をした彼らの助けになりたかった。
九歳の頃には、屋敷に滞在していた西洋の医師から、異国の医術を学ぶ機会にも恵まれた。
薬の扱い。
傷の縫い方。
身体の構造。
それまで朔国ではあまり知られていなかった考え方を教わったことは、瑶月にとって大きな財産になった。
今では、簡単な怪我なら一人でも処置できる。
まだまだ父や兄たちの役に立つには足りないけれど、それでも少しずつ形になってきていた。
それでも――
瑶月は、まだ十三歳だった。
結婚するとしても、すぐというわけではない。
笄礼を迎えてからになるだろう。
そう考えれば。
あと二年。
少なくとも二年は、自分の好きなことをしていられる。
あと二年は。
父が帰ってくるのを待って。
兄たちが帰ってくるのを待って。
母と一緒に食事をして。
屋敷の庭を歩いて。
医術を学んで。
家族と笑っていられる。
「……あと二年」
鏡の中の自分を見ながら、瑶月は小さく呟いた。
そして、ほんの少しだけ頬を緩める。
「まだ二年もあるんだ」
その言葉には、安堵があった。
寂しさもあった。
けれど何より――
家族と一緒にいられる時間が、まだ残されていることへの喜びがあった。
このときの瑶月は、知らなかった。
自分が「あと二年」と数えたその時間を待つことなく、
家族との日々が終わることを。
そして――
二年どころか、そのわずか三ヶ月後に。
自分の人生そのものが、大きく変わることを。




