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プロローグ

永平十六年。


 罪人を運ぶための檻の中に、一人の少女が座っていた。


 粗末な布が敷かれただけの床に、少女は力なく身を縮めている。


 衣は泥と血にまみれ、長い髪は乱れていた。


 細い腕には無数の傷が走り、頬には泥と血が混ざった跡がこびりついている。


 近づけば、血と汗、それに長く水を浴びていない身体から漂う悪臭が鼻を刺した。


 その少女を乗せた馬車が、ゆっくりと城門へ向かって進んでいく。


 しかし、檻の周囲には大勢の民が群がっていた。


「守ってくださり、ありがとうございました!」


「どうか、絶対に生きてください!」


瑶月(ようげつ)さま、どうか……!」


 口々に投げかけられる感謝と祈り。


 けれど、その言葉は今の少女にはあまりにも似つかわしくなかった。


 少女は何も答えない。


 ただ俯き、檻の中に座っている。


 その様子を、城壁の上から一人の青年が見つめていた。


 朔国王太子―蕭長淵(しょうちょうえん)


 長淵(ちょうえん)は、城門へ向かう馬車をぼんやりと眺めていた。


 沈家の末娘が、山賊の襲撃、屠城から生き延び、そして罪人として堕ちた。


 その娘の名が、沈瑶月(しんようげつ)であることも知っている。


 沈家の名。


 父、沈皓然(しんこうぜん)の功績。


 兄たちの名。


 そして、王太子である自分の妃候補の一人として、その名前を知らされていた。


 だから、沈瑶月という名前そのものは、ずっと前から知っていた。


 ただ――


 顔を知らなかった。


 会ったこともなかった。


 だから、その少女が自分にとってどんな意味を持つ人間なのかなど、考えたこともなかった。


 そのはずだった。


 馬車が近づく。


 檻の中の少女が、ゆっくりと顔を上げた。


 その顔が、長淵の視界に入った。


 瞬間。


 長淵の瞳が揺れた。


 五年前。


 自分の十二歳の誕生日。


 満月の下


 水に濡れた髪が月明かりを受けて輝いていた少女。


 あの瞬間だけ、世界から音が消えたように感じた。


 名前も知らない。


 どこの誰かも知らない。


 ただ、その少女から目を離せなかった。


 ――一目惚れ。


 それが何なのかさえ、幼い長淵には分からなかった。


 けれど、あの日から五年。


 少女の姿だけは、一度も記憶から消えなかった。


 長淵は、檻の中の少女を見つめた。


 泥に汚れた頬。


 乱れた髪。


 傷だらけの細い身体。


 五年前の少女とは、あまりにも違う。


 それでも。


 目だけは、間違えようがなかった。


「……まさか」


 長淵の声が漏れた。


 その時、隣にいた兵が口を開く。


「沈家の末娘だそうです」


 長淵は、ゆっくりと兵の方を向いた。


「沈瑶月です」


 その名を聞いた瞬間。


 胸の奥で、何かが大きく揺れた。


 沈瑶月。


 自分の妃候補として、何度も聞いた名前。


 けれど今、初めてその名前と、五年前の少女の顔が一つになった。


 長淵は再び檻を見る。


 少女は、誰にも助けを求めることなく、ただ静かに座っていた。


「……あぁ」


 長淵の声が、僅かに震えた。


「この子が……沈瑶月なのか」


 五年前、満月の下で一目惚れした少女。


 名前すら知らなかった少女。


 それが、ずっと自分の妃候補として存在していた沈家の末娘だった。


 そして今。


 その少女は、罪人の檻の中にいた。

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