雅恋堂 2
琴の音が、静かな部屋に流れていた。瑶月は目を伏せたまま、一定の調子で弦を弾き続けている。
その時だった。
「なぁ、おまえさんよ」
五爺が、瑶月へ声をかけた。瑶月は顔を上げない。ただ、指を止めることなく琴を奏で続ける。
「良いところのお嬢さんだろ」
「……」
瑶月は、ゆっくりと顔を向けた。五爺は、瑶月を品定めするように眺めている。
「その美貌、作法、教育……」
そして――
「それに、北幻族だ」
「……」
「皇后様の親戚か?」
瑶月は答えなかった。
――皇后の親戚。
そう偽れば、恐れをなして手を引くのだろうか。瑶月は、五爺の様子を窺う。
そして――
「五爺は、どう思います?」
「俺が?」
「ええ」
五爺は少し考えるように顎へ手を当てた。やがて――口元が、にたりと歪む。
「もし、皇后様の親戚なら――」
五爺は笑った。
「安い買い物をしたと思うだろうな」
「……」
「おまえさん、自分がいくらで買われたか知ってるか?」
五爺の目が、ぎらりと光る。
「百金貨だ」
「……!」
瑶月の指が、ほんの僅かに止まりかけた。
百金貨。
一人の女の一晩に支払う額としては――高い、という言葉では到底足りない。
五爺は豪快に笑った。
「はははは!」
そして――
「もし皇后様の親戚だったなら、その倍でも惜しくねぇな」
「……」
瑶月は、静かに目を伏せた。
分かった。この男には――自分を逃がすという選択肢など、最初から存在していない。
身分を偽ったところで意味はない。むしろ、高値がつけばつくほど――逃げられなくなる。
瑶月は再び琴へ視線を落とした。
その時だった。
「……」
弦を弾いていた指に、突然力が入らなくなった。
ぽろん――
音が、妙に間の抜けた形で途切れる。
「……?」
瑶月は、自分の指を見つめた。
おかしい。
身体に力が入らない。立ち上がろうとすると――視界が、ふわりと揺れた。
「……っ」
瑶月は卓へ手をつく。身体の内側が、徐々に熱を帯びていく。
頭がぼんやりする。息が、少しだけ苦しい。
「……これは……」
五爺は、そんな瑶月を見つめながら――にやにやと笑っていた。
「やっと効いてきたか」
「……?」
瑶月が顔を向ける。
「何の……こと……?」
五爺は、楽しそうに答えた。
「春歓薬だ」
「……!」
瑶月の瞳が揺れる。
「……お茶には、入っていないはずよ」
「ああ。茶じゃない」
五爺は、部屋の燭台へ目を向けた。
「ここの蝋燭に混ぜてあるんだよ」
「……蝋燭に……?」
「蝋燭が溶けるだろ?」
五爺は薄く笑う。
「そのたびに、薬が空気へ混ざっていく」
「……」
瑶月は息を呑んだ。
薬が――すでに身体へ入っている。
五爺が、ゆっくりと近づいてくる。
「もう、無理に強がらなくてもいいだろ」
「……」
瑶月の胸に、恐怖が走った。
その瞬間。なぜか――脳裏に、劉晟の顔が浮かんだ。
いつもの無表情。自分を守るように差し出される腕。何も言わず、自分の隣に立つ姿。
――こんな男に。
自分を触れさせるわけにはいかない。
五爺の手が、瑶月の衣へ伸びる。
その瞬間――瑶月の手が、袖の中へ滑り込んだ。
小瓶を掴む。蓋を開ける。
そして――
「――っ!」
中身を、五爺の顔へ向けて撒いた。
「うわぁあああっ!!」
五爺が顔を押さえ、悲鳴を上げる。
瑶月が用意していたのは――目潰しのための薬粉。
主な成分は、唐辛子や花椒など。強い刺激を持つものばかりだった。
「目が……! 目がぁっ!」
五爺がよろめく。
瑶月は、その隙を逃さなかった。部屋の隅へ走り、垂れ下がっていた飾り布を掴む。
そして――五爺の腕を取った。
「くっ……!」
薬の影響で身体は思うように動かない。それでも、瑶月は必死に布を巻きつける。
腕を。身体を。
動きを封じるように、何重にも。
「おのれ……!」
五爺が怒鳴る。
「何をしているか分かってるのか!?」
「……」
瑶月は何も答えない。ただ、黙々と布を結び続ける。
やがて――五爺の身体を完全に縛り上げた。
最後に残った布を手に取る。
そして――五爺が再び何かを叫ぼうとした瞬間。
瑶月は、その布を口へ詰め込んだ。
「――んぐっ!」
五爺の声が途切れる。
「……」
瑶月は、荒い息を吐いた。
けれど――身体から力が戻ることはなかった。むしろ、時間が経つほど全身から力が抜けていく。
「……っ」
瑶月は、ふらつきながら立ち上がった。
まだ、やることがある。
瑶月の視線が、部屋の燭台へ向く。
そこに使われている蝋燭。
――春歓薬が混ぜられている。
このまま火を灯しておけば、薬を吸い続けることになる。
「……これを……」
瑶月は、残された最後の力を振り絞って燭台へ手を伸ばした。
指先に、ほとんど力が入らない。
それでも――ぐっと力を込める。
ガタンッ。
燭台が倒れた。
火が消える。
同時に――部屋が、真っ暗になった。
「……」
これで、これ以上薬を吸い込まずに済む。けれど、すでに身体へ入ってしまった薬の効果までは消えない。
全身が、ひどく熱い。身体の内側から、じわじわと熱が広がっていくようだった。
こんな感覚は――瑶月にとって、初めてだった。
「……何、なの……」
呼吸を整えようとしても、思うようにいかない。頭も、徐々にぼんやりとしてくる。
視界が霞み、周囲の輪郭さえ曖昧になっていく。
「……っ」
瑶月は壁へ手をついた。
このまま立っているのは、もう無理だった。
瑶月はふらつく足を動かし、ゆっくりと寝台へ向かう。
そして――力の抜けた身体を、そっと寝台へ預けた。
「……」
荒い息を吐きながら、瑶月は目を閉じる。
薬の効果は、いずれ切れる。
ならば――今は、耐えるしかない。
瑶月は寝台へ横たわり、ただ静かに、薬の効果が切れるのを待つことにした。




