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雅恋堂 1

瑶月は、乱暴に牢から引きずり出された。

「ちゃんと歩け」

 男が、瑶月の背中を押す。

「……」

瑶月は何も言わず、歩き出した。目の前に続いているのは――暗く、狭い通路だった。壁は湿っており、足音だけが不気味に響いている。

 やがて――前方に、一枚の扉が見えてきた。

男が扉を開く。

 その瞬間。

「……」

 

瑶月の目が、僅かに見開かれた。先ほどまでの暗く狭い通路が嘘のようだった。

扉の向こうには――

無数の灯籠に照らされた、煌びやかな空間が広がっていた。梁からは色鮮やかな布が幾重にも垂れ下がり、人が通るたびにゆらゆらと揺れている。手すりには細かな金細工が施され、床にも高価そうな絨毯が敷かれていた。そこを行き交う客たちは、皆、身なりが良い。上質な衣を纏い、酒を片手に談笑している。

 そして――

その中には、笑顔を振りまきながら客の相手をしている妓女たちもいた。

 けれど。瑶月の視線が、ふと止まる。顔に傷を残したまま、華やかな衣に身を包んでいる女。その笑顔だけが、どこか不自然だった。


「……」

 瑶月は、何も言わなかった。ただ胸の奥に、冷たいものが落ちていく。

ここは。ただの妓楼ではない。

 

男に促され、瑶月はさらに奥へ進んでいく。雅恋堂は、どうやら地下三階まで続いているらしい。中央には、大きな円形の階段があった。男は瑶月を連れて、その階段を下りていく。

 一階。

 二階。

 そして――最下層へ。

階段を下りるほど、人の気配が減っていく。代わりに、空気が重くなっていくようだった。途中、何人もの男が瑶月へ声をかけてきた。

「いくらだ?」

「今日はもう決まってるのか?」

「こっちへ来いよ」

 中には、聞くに堪えない下劣な言葉を投げかけてくる者もいた。瑶月は一切反応せず、その男たちの間を黙って進んでいく。やがて一つの扉の前で、男が足を止めた。牢から瑶月を連れてきた男が、扉を開ける。

「入れ」

背中を押され、瑶月は部屋へ入った。

「待っとけ」

 男はそれだけ言うと、外へ出ていく。

そして、扉が閉じられた。

「……」

 瑶月はすぐに扉へ近づいた。取っ手へ手をかける。

 ――開かない。

もう一度、力を込める。やはり、びくともしなかった。

「……」

 瑶月は静かに手を離す。そして、部屋の中を見渡した。そこもまた、煌びやかな部屋だった。壁には細かな装飾が施され、灯籠の柔らかな光が室内を照らしている。奥には大きな寝台。その上には、天井から吊るされた鏡があった。寝台の手前には薄布が垂らされ、カーテンのように空間を仕切っている。

「……」

 瑶月は部屋の中をゆっくりと見回した。何か身を守るために使えるものはないか。花瓶。燭台。装飾品。視線を動かしながら、使えそうなものを探していく。

その時だった。

 カチャリ。背後で、扉の開く音がした。

「……!」

 瑶月が振り返る。

開いた扉の向こうから一人の中年の男が、ゆっくりと部屋へ入ってきた。彼は、瑶月を見るなり

「いやぁ〜、上物だな」

口元を下品に歪めた。男は、そのまま瑶月へ近づいてくる。そして、手を伸ばした。男の手が、瑶月の頬へ触れようとした瞬間。瑶月は、すっと顔を逸らした。

「……」

男の口元が、ますます歪む。

「強気なのは、嫌いじゃないよ」

一呼吸。

「夜は長いからね」

 

 瑶月は、男を見つめた。怖くないわけではない。

 けれど――

今は、恐怖に任せて動く時ではない。

瑶月は裾の中へ、そっと手を入れた。指先に触れたのは、小さな小瓶。いつでも取り出せる。

 けれど、まだ使わない。これは、最後の手段。

それならば。

まずは、この男の興味を別のところへ向け、時間を稼ぐ。瑶月は、小瓶からゆっくりと指を離した。そして、何事もなかったように顔を上げる。

「なんと、お呼びしたらよろしいでしょうか?」

「……?」

男は、僅かに目を細めた。まさか、こんなところで名を尋ねられるとは思わなかったのだろう。

「五爺《ウーイェー》と呼べ」

「五爺……」

 瑶月は、その名を一度口にする。そして、丁寧に一礼した。

「かしこまりました。五爺。私、瑶月と申します」

「瑶月……」

五爺は、その名を確かめるように呟いた。

「良い名だな」

「ありがとうございます」

瑶月は微笑んだ。相手の機嫌を損ねない。けれど、決して媚びすぎない。その絶妙な距離を保ちながら、次の一手を考える。五爺が、再び瑶月へ手を伸ばした。瑶月は一歩だけ身体を引く。そして、そのまま卓へ歩いた。

「まあ……」

卓の前で足を止める。

「せっかくですから、お茶でもいかがですか?」

「茶?」

「はい」

瑶月は茶器を手に取った。

「長い夜になるのでしょう?」

穏やかな笑み。

「でしたら、まずはゆっくりお話をしませんか?」

「……」

五爺は瑶月を見つめ、向かいへ腰を下ろした。瑶月は、心の中で静かに息を吐いた。一つ。時間を稼げた。茶を注ぎながら、瑶月は何気なく尋ねる。

「五爺は、こちらへよくいらっしゃるのですか?」

「まあな」

「そうですか」

瑶月は頷く。

「では、雅恋堂のこともよくご存じなのですね」

「ああ。ここは悪くない」

五爺が笑う。瑶月は、その言葉を聞きながら、周囲へさりげなく視線を巡らせた。部屋の造り。扉。梁からかけられてる飾り布。外から聞こえる音。そして、この男がどの程度、この場所に出入りしているのか。一つずつ、頭の中へ刻んでいく。けれど、五爺に気づかせることはない。

 

 五爺が落ち着きが無くなった頃…

「……そういえば」

瑶月が、ふと思い出したように顔を上げる。

「私、琴の演奏ができますの」

「琴?」

「ええ」

瑶月は、部屋の隅へ目を向けた。そこには、一張の琴が置かれている。

「こちらに琴があるということは……演奏を聞かれる方も多いのでしょうか?」

「まあな」

「でしたら――」

瑶月は、五爺を見る。

「よろしければ、一曲披露しても?」

五爺は、一瞬だけ黙った。

けれど――

「いいだろう」

「ありがとうございます」

瑶月は立ち上がった。そして、琴の前へ向かいその前へ座る。指先を弦へ添える。ゆっくりと、琴を奏で始めた。美しい音色が、静かな部屋へ広がっていく。五爺は、いつの間にか身を乗り出していた。瑶月は琴を奏でながら、静かに考えていた。できるだけ引き伸ばす、何か突破口を見つけるまで。助けが来るまで。

 それまで、この男の興味を繋ぎ止めていればいい。

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