陳家の命運
その頃――陳家。
屋敷の周囲は、すでに北玄国皇帝・慕容直轄の軍によって完全に包囲されていた。逃げ道はない。屋敷の門にも、塀の外にも、武装した兵士たちが立ち並んでいる。
広間には、慕容と劉晟が立っていた。その前には、陳家の者たちと趙侯拓が跪いている。先ほどまでの宴の賑やかさなど、どこにも残っていなかった。
劉晟が一歩前へ出る。手には、血痕の残った一粒の真珠。
「陛下。庭園に落ちていたそうです」
そう言って、劉晟は真珠を慕容へ差し出した。慕容はそれを受け取る。
「少量の血痕がついています」
劉晟は淡々と続けた。
「調べによると、庭園には大きな血痕は残っていないとのことです」
「……」
「そのため、瑶月は怪我をしているものの――命に別状はないかと」
その言葉に、陳居菲の目が僅かに細くなった。劉晟は、それを見逃さなかった。慕容もまた、手の中の真珠へ視線を落とす。
しばらくの沈黙。やがて、慕容が静かに呟いた。
「……そうですか」
その声には、いつもの柔らかさがなかった。顔を上げる。白綾の奥にある瞳が、陳家の者たちを射抜く。
「今すぐ探せ」
「……!」
広間の空気が凍りつく。慕容は、ゆっくりと言葉を続けた。
「陳家を取り潰してでも――」
その場にいる誰もが、息を呑んだ。
「探しなさい」
静かな声だった。けれど、それは命令だった。
それを横目に、劉晟はゆっくりと居菲の側へ歩み寄り、その前で足を止める。
「……例の闇商売に関わっている者は、煙草の匂いがしたらしい」
「……!」
突然声をかけられ、居菲は戸惑ったように顔を上げた。劉晟は、ただ静かに居菲を見下ろしている。
「居菲殿も――」
一呼吸。
「煙草の香りがするが……」
居菲の身体が僅かに強張った。
「普段から、好んでいるのか?」
居菲は答えられなかった。その声は、恐ろしいほど冷たかった。そこには、先ほどの宴で瑶月の隣に座っていた男の面影など、どこにもない。ただ、静かな殺気だけが滲んでいる。膝の上で握り締めていた拳に、さらに力が入る。
「陛下!」
広間へ、一人の兵士が駆け込んできた。
「庭園の奥に、隠し通路が見つかりました!」
「……案内しなさい」
慕容が立ち上がる。劉晟もすぐに続いた。二人は急いで庭園の奥へ向かう。
やがて、兵士が足を止めた。
「こちらです」
庭園の壁には、一見すると何の変哲もない鉄の飾りが取り付けられていた。兵士がそれを軽く引っ張る。
カチッ。
小さな音と共に、壁の一部がゆっくりと開いた。
現れたのは、月光に照らされた細い隠し通路だった。人が一人通れるほどの幅しかない。慕容と劉晟は、その中へ入っていく。薄暗い通路には、これといった痕跡は見当たらない。
――何もない。
そう思った、その時だった。劉晟の足が止まる。月明かりに照らされ、壁際に何かが落ちていた。一本の長い髪。微かな月光を受け、その髪はうっすらと輝いている。
劉晟はしゃがみ込み、そっと拾い上げた。指先に絡む長い髪。間違えるはずがない。瑶月の髪だった。これがあれば、瑶月がこの通路を通って連れ去られたことを証明できる。
だが、劉晟の表情が僅かに曇った。これを証拠として提出すれば、瑶月の秘密まで露呈することになる。
劉晟は髪を見つめたまま、しばらく動かなかった。そして、髪を袖の奥へしまう。そのまま通路の先へ進んでいく。
やがて出口が見えた。そこから先は屋敷の外。北側へ続く細い通路へ繋がっている。劉晟は出口の先を見つめた。おそらく、瑶月はこの通路を使って屋敷の外へ連れ出されたのだろう。その事実を確信すると、劉晟は来た道を戻った。
屋敷の中へ戻る途中、ふと、懐に入れていたものの存在に気づく。手を入れると、指先に触れたのは歩揺だった。
趙家の屋敷を出る前、瑶月が、
『今日はつけられないから、預かってて』
そう言って、自分へ渡したものだった。
劉晟は歩揺を手の中で見つめる。そして、先ほど拾った髪を思い出した。僅かな沈黙。やがて、劉晟は一つの決断を下す。
髪を袖の奥へしまったまま、歩揺を手にして慕容のもとへ向かった。
「陛下」
慕容が振り返る。劉晟は歩揺を差し出した。
「この通路から、瑶月が身につけていた簪が出てきました」
「……」
慕容は歩揺を受け取り、指で撫でる。劉晟は何も言わない。
真実を証明する髪の代わりに、瑶月の歩揺を渡した。皇帝を欺くことは、大罪だ。それが分からないほど、劉晟も愚かではない。けれど、今ここで瑶月の秘密を露呈させるよりは、こちらを選ぶ。
劉晟は、ただ静かに決断をした。




