路地裏の兄妹 2
月に数回、家へ帰る。
そのたびに、小萌が温かい飯を用意して待っていてくれた。
「おかえり」
笑顔で迎えてくれる。
それだけが、俺の救いだった。
だから――
小萌だけは、この闇から遠ざけなければならない。
できることなら、北河からも離したかった。
玉都あたりへ嫁がせることができれば――
きっと、ここよりは幸せになれる。
そのためにも。
もっと金を貯めなければならない。
そう思い続けていた。
ある日。
いつものように、檻の中にいる女たちを見張っていた。
ふと――
俺は気づいた。
「……」
女たちの中に、一人だけ小さな子供がいる。
十歳ほどだろうか。
まだ――
子供だった。
「……」
激しい動揺が、胸の奥を突き抜けた。
脳裏に浮かんだのは――
これまで自分が埋めてきた女たちの姿だった。
城外の暗い土の中。
灯籠の明かり。
そして、身体に残された無数の傷。
――この子も。
近いうちに、俺がこの手で埋めることになるのか?
思わず、自分の両手を見る。
「……」
檻の中では、女たちが必死にその子を庇っていた。
少ない飯を、自分の分から分け与える。
男に連れていかれそうになれば、自分が代わりに行く。
必死だった。
だが――
そんなことをしたところで、救えるはずがない。
この子も、いつかはあいつらの餌食になる。
そう思っていた。
その日も、いつものように檻から女を一人、出そうとした。
扉を開ける。
その瞬間だった。
「――っ!」
一人の女が、俺へ思いきり身体をぶつけてきた。
「なっ……!」
反動で、扉が大きく開く。
そして――
「燕燕、逃げて!」
女の声が響いた。
「……!」
子供が走り出す。
小さな身体が、暗い通路へと消えていく。
止めようと思えば、止められた。
追いかけようと思えば、追いかけられた。
それなのに――
俺は、動けなかった。
「……」
ただ、逃げていく小さな背中を見つめていた。
そして。
気づけば、口から言葉が漏れていた。
「……振り向くな」
聞こえるはずもないほど、小さな声だった。
俺の前には――
先ほど、身体をぶつけてきた女が、床に座り込んでいた。
「……」
俺は、考えるより先に手を伸ばした。
女の腕を掴み、身体を引き上げる。
「お前も行け」
「……!」
女は、驚いたように瞳を見開いた。
すぐに、その意味を理解したのだろう。
傷だらけの足で、必死に立ち上がる。
そして――
通路へ向かって走り出していった。
「……」
俺は、その背中を見送った。
自分でも分からなかった。
なぜ、こんなことをしたのか。
もし、これが知られたら――
俺の命はないだろう。
それくらいのことは、分かっていた。
それなのに。
この時だけは、何も考えていなかった。
けれど、すぐに捕まった。
捕まえたのは――
兄貴だった。
兄貴は何も言わず、女を連れ戻した。
そして、再び檻の中へ入れる。
「……」
そのまま兄貴は、俺を一瞥した。
「二度とやるな」
それだけ言うと――
何事もなかったかのように、その場を去っていった。
「……」
俺は、しばらく動けなかった。
ふと、檻の中を見る。
女と目が合った。
彼女は――
ほんの少しだけ、笑ったように見えた。
「……私は、いいのよ」
女が、小さな声で言う。
「燕燕が逃げる時間稼ぎができれば、それで」
「……」
俺は、何も言えなかった。
目の前にいる女に――
かける言葉が、何一つ見つからなかった。
※
それから、数日後。
未明のことだった。
あの女が――
血だらけになって、戻ってきた。
意識はない。
身体には、また新しい傷が増えていた。
「……」
俺は女の鼻先へ、そっと指を当てる。
僅かだった。
けれど――
息は、あった。
「死んでます。台車を用意しますね」
俺は、何事もなかったように言った。
そして、いつも通りに他の遺体と一緒に女を台車へ乗せる。
城外へ埋めるため、城門へ向かった。
誰にも怪しまれないように。
いつも通りに。
けれど――
城門へ辿り着く前。
人目のない路地裏へ入った。
俺は、台車から女を降ろす。
そして――
その身体を、路地裏の片隅へそっと横たえた。
「……」
あの呼吸では――
生きられるかどうかも分からない。
それでも。
ここなら、誰かに見つけてもらえるかもしれない。
助かるかもしれない。
ほんの僅かでも。
その可能性に――
賭けてみた。
それは、俺にできる――
たった一つの希望だった。
翌日の昼過ぎ。
建物の中が、にわかに騒がしくなった。
「ここが見つかったらしいぞ」
「趙王が来るぞ」
「上からは、口封じとのことだ」
あちらこちらから、そんな声が聞こえてくる。
「……」
俺は、すぐに察した。
昨晩。
俺が路地裏へ置いてきた、あの女。
あれがきっかけで――
ここが見つかったのだ。
「……」
恐怖が込み上げてくる。
見つかった。
ここが、終わる。
そう思うと、怖かった。
けれど――
それ以上に。
ようやく、ここから解放される。
そう思うと、胸の奥に僅かな安堵が広がった。
これで終わる。
もう、女たちを見なくていい。
もう、死体を埋めなくていい。
もう――
そんなことを考えていた、その時だった。
「おい」
同じく女たちの番をしていた男が、俺のもとへ歩いてきた。
そして――
一本の剣を、俺へ押し付けた。
「……?」
「全員、殺せ」
「……」
意味が分からなかった。
殺せ?
誰を?
ここにいる女たちを?
だが――
もう、ここが見つかったのではないのか。
趙王が来る。
それなら、なぜ?
「……どういうことだ?」
俺が呟くと、男が苛立ったように怒鳴った。
「全員殺せって言ってんだろうが!」
「……」
「家族を殺されたいのか!?」
「……!」
その言葉に――
身体が、凍りついた。
小萌。
兄貴。
頭の中に、二人の顔が浮かんだ。
「……」
何も考えられなくなった。
そして。
気づいた時には――
両手が、血に染まっていた。
「……」
静かだった。
あれほど騒がしかった建物の中が、嘘のように静まり返っている。
鼻を刺す血の匂い。
床に残る赤。
転がった身体。
けれど――
俺の頭の中には、何も浮かばなかった。
「……」
怖い。
そう思うはずだった。
吐き気がするはずだった。
泣くことだってできたはずなのに。
何もなかった。
胸の奥が、空っぽだった。
自分が何をしたのか。
分かっている。
分かっているはずなのに――
実感だけが、どこにもなかった。
ただ、手だけが覚えている。
剣を握った感触。
肉を断った感触。
それなのに。
そのどれもが、自分のものではないように思えた。
ふと、足元を見る。
そこに、自分の影がある。
「……」
俺は、その影をぼんやりと見つめた。
まるで――
自分が一人、ここから抜け落ちてしまったようだった。
何か大切なものが、身体の中からごっそり失われている。
けれど、それが何なのかすら分からない。
ただ――
空っぽだった。
あの路地裏で腹を空かせていた頃も。
小萌が笑ってくれた日も。
兄貴が帰ってきてくれた日も。
子供を逃がした時も。
全部、まだ自分の中にあったはずなのに。
今は、何も感じなかった。
「……」
俺は、血に濡れた手をゆっくりと握った。
その瞬間。
ようやく、一つだけ分かった。
――俺は、もう前の自分には戻れない。




