探幽索隠 2
しばらくすると――
先ほどまで真っ暗だった空間の先に、淡い橙色の光が見えてきた。
そして。
遠くから、人々の話し声が聞こえてくる。
「……?」
瑶月が顔を上げる。
船は、ゆっくりとその光へ近づいていった。
やがて――
闇の向こうから、一つの町が姿を現した。
「……!」
瑶月は、思わず息を呑んだ。
そこに広がっていたのは――
小川の上に造られた、小さな町だった。
地面は小川より高く造られ、木の板を組み合わせた高床式の造りになっている。
街の至るところには灯籠が吊るされ、橙色の明かりが水面へ揺らめいていた。
細い通路の両側には、露店が所狭しと並んでーおおいる。
店先では盛んに声が飛び交い、活気に満ちていた。
けれど――
瑶月が最も目を引かれたのは、そこにいる人々だった。
北河で見かける人々とは、明らかに異なる姿の者たちがいる。
肌の色も。
髪の色も。
身に纏う衣も。
さまざまな国から来たと思われる人々が、何の隔たりもなく、この小さな町に入り混じっていた。
「……随分と、賑やかなのね」
瑶月が呟く。
隣で劉晟は、黙って周囲を見回していた。
明るい灯籠。
賑やかな声。
水面に揺れる無数の光。
一見すれば――
ただの小さな町にしか見えなかった。
瑶月と劉晟は、船から降りた。
小さな町に、これほどの人が集まっている。
細い通路は人で溢れ返り、少しでも気を抜けば、すぐに互いの姿を見失ってしまいそうだった。
瑶月は劉晟のすぐそばを歩く。
劉晟もまた、常に瑶月の姿を目で捉えていた。
二人はそのまま、街の奥へと進んでいく。
行き交う人々の姿は様々だった。
見慣れない衣を纏った者。
異国の言葉を話す者。
顔を布で覆い、素顔を隠している者も多い。
中には――
顔に酷い傷を負い、その傷跡を隠すことなく歩いている者までいた。
「……」
瑶月は、周囲を静かに見回す。
露店には、様々な品が並んでいた。
異国の美術品。
見たことのない煙草。
中身が何なのか分からない小瓶。
武器。
装飾品。
そして――
「……?」
瑶月の足が、ふと止まった。
一軒の露店に並べられていたもの。
それは――
人の顔にそっくりな仮面だった。
けれど、普通の仮面とは明らかに違う。
薄く、柔らかい。
まるで、人の皮膚そのもののようだった。
瑶月は思わず身を屈め、その仮面を覗き込む。
すると、店主が声をかけてきた。
「お嬢さん、人面皮にご興味が?」
「人面皮……?」
瑶月が顔を上げる。
「これは、なんですの?」
店主は、にやりと笑った。
「朔国の秘術で作られたものですよ」
そして、仮面を指先で持ち上げる。
「被れば、その顔の持ち主になりきれる仮面です」
「……」
瑶月は、仮面を見つめた。
「そんなものが、あるのですね」
「ええ。表では、まずお目にかかれませんがね」
瑶月は黙って仮面を見つめる。
自分は朔国で生まれ、育った。
それでも――
こんなものが存在するなんて、知らなかった。
おそらく、普通の人間が知ることのない秘術なのだろう。
そして。
こうしたものが堂々と並んでいることこそが、この場所の異様さを物語っていた。
「瑶月」
その時、隣から劉晟の声がした。
「……あの奥に、薬屋があるぞ」
「薬屋?」
瑶月は顔を上げる。
劉晟が視線を向けている先。
人混みの奥に、小さな看板を掲げた店が見えた。
瑶月は、その店へ目を向けた。
――春歓薬について、何か分かるかもしれない。
そう思いながら。
二人は、人波の奥へと進んでいった。
※
瑶月と劉晟は、その薬屋へ入っていった。
店内には、所狭しと薬が並べられている。
けれど――
どれも、表の店ではまず見かけないようなものばかりだった。
強い中毒性のある鎮痛剤。
神経を麻痺させる薬。
肌を白くするための錠剤。
効能すら書かれていない、小さな薬瓶。
瑶月は、並べられた薬を一つずつ眺めていく。
「……」
中には、薬と呼ぶことすら躊躇われるような代物もあった。
けれど――
全てが偽物というわけでもない。
実際に効果がありそうな薬も混じっている。
瑶月は思わず足を止め、興味深そうに薬瓶を見つめた。
しばらく店内を見ていたが、やがて店の奥へ目を向ける。
そこには、妙齢の女が一人、椅子に腰掛けていた。
瑶月は、その女へ近づく。
「店先に置いてある薬で、全てですか?」
女は瑶月を一瞥した。
「お嬢さんは、何をお探しで?」
瑶月は、ほんの僅かに間を置いた。
そして――
「媚薬です」
「……」
女の目だけが、再び瑶月へ向けられる。
「店先には置いてない」
ぶっきらぼうな声だった。
「店長なら、出してくれる」
「そう」
瑶月は頷いた。
「それなら、店長を呼んでもらえるかしら?」
「呼ぶには、ちょっとな……」
女の口元に、薄ら笑いが浮かぶ。
瑶月は何も言わなかった。
すると――
隣にいた劉晟が、懐から金貨を一枚取り出した。
それを女の前へ置く。
「これなら、呼んでもらえるか?」
「……」
女は金貨を手に取った。
表裏を確認し、指先で軽く弾く。
確かに本物だと分かると――
「……ちょっと待ってな」
女は立ち上がり金貨を懐へしまうと、店の奥へと姿を消していった。
しばらくすると――
店の奥から、先ほどの女が戻ってきた。
その後ろに、一人の男の子を連れている。
「……?」
瑶月は、思わず目を瞬かせた。
どう見ても、十歳ほどの幼子にしか見えない。
女はそんな瑶月の反応を気にする様子もなく、その子供を指差した。
「うちの店長だ」
「……この子供が?」
劉晟が聞き返す。
すると、幼い顔をした男の子が、淡々と答えた。
「こう見えて、今年で二十五だ」
「……!」
瑶月は、驚きを隠せなかった。
けれど、すぐに表情を整える。
「そうなのですね」
「俺は『少薬師』と呼ばれている」
「少薬師……」
瑶月は、その名を口にしてから尋ねた。
「少薬師。ここに媚薬は置いていますか?」
少薬師は、瑶月をじっと見る。
「どんなものだ?」
「媚薬と言っても、種類は多いぞ」
瑶月が答えるより先に、劉晟が口を開いた。
「歓春薬だ」
「……」
その瞬間。
少薬師の瞳が、僅かに揺れた。
そして――
劉晟から視線を外した。
「……そんな毒薬のようなものは、置いておらん」
声は平静を装っている。
けれど。
劉晟は、その僅かな動揺を見逃さなかった。
一歩、前へ出る。
「俺たちは、ただ仕入れている者を知りたいだけだ」
「……」
「お前に迷惑はかからないと約束しよう」
少薬師は黙っていた。
劉晟も、それ以上は急かさない。
ただ――
懐から金貨を取り出した。
そして、一枚。
少薬師の前へ置く。
さらに一枚。
その隣へ、静かに重ねる。
もう一枚。
さらに一枚。
金貨が、ゆっくりと積み上げられていく。
四枚。
五枚。
「……」
少薬師の視線が、金貨へ落ちた。
やがて――
「……ここでは、歓春薬そのものは置いていない」
少薬師が、重い口を開いた。
「だが」
一度、言葉を切る。
「定期的に、それの材料を仕入れる者はいる」
「誰なの?」
瑶月が尋ねる。
「……」
少薬師は固く唇を結んだ。
その様子を見て、劉晟は金貨へ手を伸ばす。
一枚ずつ、懐へ戻そうとした。
「――待て!」
少薬師が、慌てて金貨を掴む。
そして、それを自分の手元へ引き寄せた。
劉晟は、何も言わない。
ただ、少薬師を見つめる。
少薬師はしばらく黙っていたが――
やがて、観念したように口を開いた。
「……趙王の縁戚にあたる、陳家のやつらだと思う」
「……陳家?」
瑶月は聞き返す。
「……だと思う?」
劉晟は、少薬師の不確かな口調に疑問を向けた。
少薬師は、しばらく黙っていた。
そして――
店の奥へ戻っていく。
やがて、一枚の金貨を手にして戻ってきた。
それを、瑶月と劉晟の前へ差し出す。
「これは、前回の取引の際に支払われたものだ」
そう言って、少薬師は金貨を裏返した。
「……!」
そこには、文字が刻まれていた。
――『陳華再開』
瑶月は、刻印をじっと見つめる。
有力な貴族の家では、金貨に自らの家名や、それを示す印を刻むことがある。
それは、家の財力と権威を示すものでもあった。
「これまでも、この金貨でやり取りされていたのか?」
劉晟が尋ねる。
「……いや」
少薬師は首を横に振った。
「この一枚だけだ」
「……」
劉晟は、金貨を見つめた。
たった一枚。
けれど――
そこに刻まれた名は、決して軽いものではなかった。




