北河の闇 2
「よく頑張ったね」
瑶月はそう言って、燕燕の背中をゆっくりと撫で続けていた。
その姿を、劉晟は静かに見つめていた。
ふと、考える。
瑶月が家族を失った、あの日。
泣いている彼女を慰めてくれる人は、いたのだろうか。
その小さな背中を、こうして撫でてくれる人は――
いたのだろうか。
「……」
その時、万華が燕燕へ声をかける。
「燕燕、いったん私のお家に来ない?」
千葉も続ける。
「温かいご飯を食べましょう」
けれど――
燕燕は、雨禾の手を握ったまま動こうとしなかった。
「……」
瑶月は、そんな燕燕を見つめる。
そして、そっとその小さな手を取った。
「辛いね」
燕燕が瑶月を見る。
「けれど……雨禾さんのためにも、ご飯を食べなきゃ」
「……」
「大丈夫」
瑶月は優しく微笑む。
「大丈夫だから」
そう言って――
瑶月は燕燕をそっと抱きしめた。
「うっ……うぅ……」
燕燕の顔が瑶月の胸元へ埋まる。
次の瞬間――
「うわぁぁぁん!」
堪えていたものが、すべて溢れ出したように、燕燕が大声で泣き始めた。
瑶月は何も言わず、その小さな身体を抱きしめる。
そして、泣き疲れるまで、優しく背中を撫で続けた。
やがて――
燕燕は万華と千葉に連れられ、趙家の屋敷へ戻ることになった。
瑶月も、その後ろ姿を静かに見送った。
隣では、劉晟が何も言わず立っている。
「劉晟……」
瑶月が、静かに呼びかける。
「なんだ?」
「春歓薬は、そう簡単に手に入らない薬のはずよ」
「あぁ」
劉晟は頷く。
「その手の薬は、大体闇市場にある」
「……」
瑶月は考えた。
雨禾の遺体が発見された以上、役所が捜査に乗り出すのは間違いない。
だが――
もし女性たちが監禁されている場所を見つけたとしても、そこはすでにもぬけの殻かもしれない。
犯人が、すでに逃げている可能性もある。
それなら――
「……」
瑶月が考え込んでいると、劉晟が口を開いた。
「万が一のため、薬の線から犯人を追った方がいいな」
「……そうね」
瑶月は頷いた。
けれど、ふと迷う。
「でも……」
劉晟を見る。
「北玄の人ではない私たちが、動いてもいいのかしら?」
「……」
劉晟も考え込む。
確かに、これは北河で起きた事件だ。
自分たちは北玄国の客人に過ぎない。
勝手に捜査へ介入すれば、余計な問題を招く可能性もある。
「……まずは、慕容陛下に話を通すか」
「ええ」
二人は頷き合った。
そうして――
瑶月と劉晟は、趙家の屋敷へ戻ることにした。
※
趙家の屋敷へ戻ると庭先の東屋に、慕容の姿が見えた。
そして、その前には趙侯拓が片膝をついている。
瑶月と劉晟は顔を見合わせると、静かに一礼し、東屋へ入った。
「確認したところ、被害者は北幻族の女に間違いありません」
趙侯拓が報告する。
慕容は、口元に運んでいた茶杯をゆっくりと下ろした。
「……そうですか」
そして、静かな声で問う。
「犯人は見つかったのかい?」
「瑶月さんの協力もあり、監禁場所はすぐに割り出せたのですが……」
趙侯拓の声が、そこで止まる。
言いづらそうに俯いた。
瑶月は、その様子を見て察した。
――恐らく、犯人は逃げた。
そう思った。
けれど。
「駆けつけた頃には……」
趙侯拓が、ゆっくりと顔を上げる。
「監禁されていた女たちは、口封じのため……皆、殺されていました」
「……」
瑶月の眉間に、皺が寄った。
誰一人として――
助けられなかった。
あれほど必死に手がかりを追ったのに。
燕燕を救った雨禾も。
まだ生きていたかもしれない、他の女たちも。
誰一人として。
「……」
その時だった。
――ぱきり。
小さな音が響いた。
慕容が手にしていた茶杯が、握り潰されていた。
「……!」
趙侯拓の身体が、僅かに強張る。
慕容は、自分の手に顔を向けた。
白い磁器の破片が、指の間からぽろりと落ちる。
「すまない」
慕容は、いつもの穏やかな口調で言った。
「少々、強く握り過ぎたようですね」
「……」
その表情は、いつも通りだった。
瑶月は、慕容へ向かって一礼した。
「陛下」
顔を上げ、まっすぐに慕容を見つめる。
「私に、一案がございます」
「ほう?」
慕容が茶杯を置いた。
「言ってみよ」
瑶月は頷く。
「被害者の女性たちに使われていた春歓薬という媚薬ですが、通常では出回っていない代物になります」
「……」
「恐らく、闇市などで春歓薬そのもの、あるいは調合に必要な薬材を入手していたのではないかと」
「続けよ」
慕容は静かに促した。
「多数の女性を監禁し、さらに春歓薬を常用させていた」
瑶月は一度、言葉を切る。
「春歓薬は、出回っていない薬だからこそ高価です」
そして、声を僅かに落とした。
「これだけの人数を長期間にわたって維持できる経済力となると……」
瑶月の瞳が鋭くなる。
「裏には、貴族や商人など、資金を出している者が関わっているはずです」
「……」
「そして――」
瑶月は、静かに続けた。
「いわゆる『客』も、有力者である可能性が高いかと」
東屋に、静かな沈黙が落ちる。
「ですから……」
瑶月は慕容を見つめた。
「薬の出どころを突き止め、そこから大元を叩くべきかと思います」
慕容は何も言わず、瑶月の言葉を聞いていた。
その白綾の向こうにある瞳が、何を見ているのか。
瑶月には分からない。
けれど――
瑶月は静かに頭を下げた。
「陛下。私は薬の知識がございます」
「春歓薬の調査を、私に任せていただけないでしょうか」
慕容は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに口を開く。
「瑶月。其方の言い分は分かります」
けれど――
「だが、客人に危険な目を合わせるわけにはいかないのです」
その声には、責めるような響きはなかった。
「まだ若い女の子に、そんな調査などさせられませんよ」
優しい声だった。
瑶月は、しばらく黙っていた。
そして――
「陛下」
静かに顔を上げる。
「今回の事件には、北玄の有力者が関わっている可能性が高いと思います」
「……」
「そうであれば、陛下や趙侯拓様など、北玄側の方々よりも……私の方が、しがらみなく調査できるかと」
瑶月は、静かに続ける。
「調査の結果によっては、今後の関係に影響が出る可能性もございます」
「ですが、北玄のものでは無い私なら……その影響も少なく済むのではないでしょうか」
慕容は何も言わず、瑶月の言葉を聞いている。
瑶月は、ほんの僅かに視線を落とした。
「それに……」
その瞳に、雨禾の姿が浮かぶ。
そして――
雨禾を待ち続けていた、燕燕の姿。
「私は、目の前の不条理な死が許せないのです」
瑶月は、ゆっくりと顔を上げた。
「世の中は残酷で、理不尽なことばかりです」
声は静かだった。
「それらを少しでも減らしたい」
一呼吸。
「そのために、私は生かされたのだと思うのです」
瑶月は、深く頭を下げた。
「それが、私の罪滅ぼしなのです」
東屋が、静まり返った。
その時――
「陛下」
劉晟が、淡々と口を開いた。
「瑶月に調査させてみてはいかがでしょうか」
慕容が、劉晟へ顔を向ける。
「彼女の薬材への知識は、今回の事件には必要かと」
一歩。
劉晟が、前へ出る。
「彼女の安全なら――」
静かな声が響いた。
「私が、直接お守りしましょう」




