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北河の闇 1

騒ぎを聞きつけ――


 趙侯拓、趙凌、そして劉晟が、急ぎ役所へ駆けつけた。


 北幻族。


 もし、あの遺体が慕容の保護している北幻族の一人だとすれば――


 事は、ただの殺人では済まない。


 北幻族を殺したという事実だけでも重大だ。


 ましてや、慕容が保護している一族の者であれば――


 役所へ入ると、すでに瑶月と趙姉妹がいた。


 劉晟は、二人を見つけるなり真っ先に瑶月のもとへ駆け寄った。


「大丈夫か?」


「私は大丈夫よ」


 瑶月は、穏やかに答える。


 劉晟は瑶月の顔をしばらく見つめ、それからようやく周囲へ目を向けた。


 一方、趙侯拓も娘たちの姿を確認する。


「万華、千葉。怪我はないか?」


「大丈夫です、父上」


 万華が答える。


 千葉も小さく頷いた。


 趙凌は、険しい表情で瑶月たちへ近づいた。


「……北幻族というのは、本当か?」


 低い声だった。


 千葉が答える。


「えぇ……」


 少し震える声で続けた。


「あの女性の額に、雪の紋がありました」


「……」


 その言葉を聞いた瞬間――


 趙侯拓の眉間に、深い皺が寄った。


 役所の中に、重い沈黙が落ちる。



 趙侯拓は、改めて目の前の遺体へ目を向けた。


 女性の身体に残された、無数の傷。


 衰弱しきった身体。


 そして――


 額に刻まれた、雪の紋。


 趙侯拓の顔が険しくなる。


 ――間違いない。


 北幻族の女だ。


 そう思っていた時だった。


 隣にいた瑶月が、静かに口を開いた。


「この方は、長期間にわたって虐待を受けていたと思います」


「……」


 瑶月は女性の身体へ視線を落とす。


「そして……」


 瑶月はそっと、女性の手を取った。


 細い指先。


 その爪を、じっと見つめる。


「生前、恐らく春歓薬《しゅんかんやく》を常用していました」


「……春歓薬?」


 趙凌が聞き返す。


「えぇ」


 瑶月は頷いた。


「一部の貴族や妓女などが使う、強い媚薬です」


 瑶月は女性の爪を示す。


「常用すると、爪が紫色へ変わっていきます」


「……」


「その色を隠すために、妓女が爪へ色を施すこともあります」


 趙侯拓は、黙って遺体を見つめた。


 北幻族。


 女。


 長期間にわたる虐待。


 そして――


 春歓薬。


「……」


 いくつもの手がかりが、目の前で重なっていく。


 趙侯拓の表情から、先ほどまでの穏やかさが完全に消えた。



 趙侯拓は、再び女性の遺体へ目を向けた。


 頬に残された、古い切り傷。


 それを見つめながら、低く呟く。


「……北幻族の者は、その美貌ゆえに……戦時には酷い扱いを受ける者が多くいた」


 誰も口を挟まない。


「そのため、自ら顔に傷をつける者も少なくなかったそうだ」


 趙侯拓の視線が、女性の頬へ落ちる。


「恐らく……この傷も、そういうことなのだろう」


「……」


 瑶月は黙って女性の顔を見つめていた。


 美しかったであろう顔に残された、古い傷。


 それが何を意味するのか。


 考えるほど、胸が重くなる。


 趙侯拓は、しばらく黙り込んだ。


 そして――


「……考えたくはないが」


 低い声が落ちる。


「ここ北河で、北幻族の女を違法に使う商売をしている輩がいるのかもしれん」


「……!」


 趙凌の表情が変わる。


「父上……」


「まだ推測に過ぎん」


 趙侯拓はそう言いながらも、険しい顔をしていた。


 北幻族。


 女。


 虐待。


 春歓薬。


 そして――


 自ら刻んだかもしれない、顔の傷。


 すべてが、一つの可能性を示している。


 もし本当にそんな商売が北河で行われているのだとすれば――


 趙侯拓自身が、この街を治める者として見過ごすわけにはいかなかった。


「お姉さん!!!」


 重苦しい空気に包まれていた役所に、幼い少女の声が響いた。


 その場にいた誰もが、一斉に少女へ目を向ける。


 少女は、ゆっくりと遺体へ近づいていく。


 そして、その傍らにしゃがみ込んだ。


「おねぇさぁん……」


 少女の目から、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。


「待ってたのに……」


 震える声。


「どうして……」


 次から次へと涙が溢れ、少女の頬を濡らしていく。


「……」


 瑶月は、そんな少女の背中を見つめていた。


 その小さな背中が――


 いつかの自分と重なった。


 待っていた。


 帰ってくると、信じていた。


 けれど、帰ってこなかった。


「……」


 瑶月は何も言わず、少女の隣へ歩み寄る。


 そして、そっとしゃがみ込んだ。


 小さな背中へ手を添える。


 ゆっくりと、優しく撫でる。


 少女は泣き続けていた。


 瑶月も、何も言わなかった。


 ただ――


 泣き止むまで、静かにその背中を撫で続けていた。


 やがて、少女はぽつりぽつりと話し始めた。


「燕燕ね……北河から遠い村で生まれたの」


「うん」


 瑶月は相槌を打ちながら、少女の背中をゆっくりと撫でている。


「お父さんとお母さんと一緒に、街へ来たの。お仕事をするために……」


 燕燕の声が小さくなる。


「でもね……人攫いに遭ったの」


 気がついた時には、暗い部屋にいた。


 天井近くに、小さな窓が一つ。


 そこには燕燕のほかにも、六人ほどの女たちがいた。


 その中に――雨禾がいた。


「毎晩、怖い男の人たちが来たの」


 女たちは一人ずつ連れていかれ、夜明け前になると戻される。


 戻ってきた女たちは、皆傷だらけだった。


「……」


 役所の中に、静かな沈黙が落ちる。


「でも……みんな、燕燕のことを庇ってくれたの」


 燕燕は、涙を堪えるように唇を噛んだ。


「雨禾ねぇは、特に優しかった」


 自分が連れていかれる代わりに、何度も燕燕を守ってくれた。


 そして――


「ある日ね……」


 燕燕が顔を上げる。


「雨禾ねぇが、男の人の隙を見て、燕燕を逃がしてくれたの」


 必死に走った。


 後ろを振り返ることもできなかった。


 その背中へ、雨禾の声が届いた。


『待ってて。すぐいくから』


「……」


 瑶月の瞳が、僅かに揺れる。


 燕燕は、そのまま走り続けた。


 気がつけば、街へ出ていた。


 けれど、そこに両親の姿はなかった。


「追いかけてきた男の人から逃げて……ここ数日は、城外の廃寺に隠れてたの」


 燕燕は、雨禾の遺体へ目を向ける。


「雨禾ねぇ……来なかった」


 声が震えた。


「ずっと待ってたのに……」


 瑶月は何も言わなかった。


 ただ――


 燕燕の小さな背中を、静かに撫で続けていた。



少女の口から語られる、雨禾との日々。


 瑶月は、改めて目の前の遺体へ目を向けた。


 憔悴し、傷つけられ、辱められても――


 雨禾は、最後まで燕燕を守り抜いた。


 そして今、目の前で泣いているこの少女こそが――


 雨禾にとっての、希望だったのだろう。


 けれど。


 瑶月の胸に、別の思いが浮かぶ。


 ――まだ、女性たちが残されている。


 その時、趙侯拓が燕燕へ声をかけた。


「燕燕。どこから逃げてきたか、覚えているかい?」


「……」


 燕燕は俯いた。


 あれほどの状況に置かれていたのだ。


 恐怖と疲労で、記憶も曖昧になっているのだろう。


 趙侯拓は、急かすことなく待った。


 やがて、燕燕が小さな声で答える。


「逃げてすぐ、北の門があったから……そこから城外に出たよ」


「北門……」


 瑶月は静かに考える。


 子供の足で移動できる距離には限りがある。


 ましてや、あれほど衰弱した状態なら、そう遠くまで逃げられるはずがない。


 廃寺に身を潜めていたということも考えれば――


 おおよその範囲は、絞り込めるかもしれない。


 その時。


 劉晟が燕燕の隣へしゃがみ込んだ。


 少女と目線を合わせ、穏やかな声で尋ねる。


「他に覚えていることはないか?」


「……」


 燕燕は俯いた。


 しばらく考えてから――


「窓からね……」


 ぽつりと呟く。


「すごく明るいお星様が見えたよ」


「……星?」


 瑶月が聞き返す。


 燕燕は小さく頷いた。


「うん。すごく明るかったの」


すると、燕燕がふと思い出したように口を開いた。


「雨禾ねぇがね……ほくらくしもんだって」


「……ほくらくしもん?」


 瑶月は、聞き返す。


 少し考えて――


「北落師門のことね」


「……?」


 燕燕は不思議そうに瑶月を見上げた。


 瑶月は、もう一度尋ねる。


「燕燕。窓から差し込む光は、お昼過ぎからだった?」


「そうだよ!」


 燕燕は頷く。


「お昼を過ぎてから、お日様が見えたの」


「……」


 劉晟が、静かに口を開く。


「南だな……」


 瑶月も頷いた。


「そうね。南側に小さな窓がある建物」


 瑶月は、趙侯拓へ視線を向ける。


 目が合った。


 それだけで、意図は伝わった。


 趙侯拓はすぐに配下へ命じる。


「北門の近くにある建物を探せ」


 一拍置いて続けた。


「南側に小さな窓がある建物だ」


「はっ!」


 配下たちが一斉に動き出す。


 瑶月は、その背中を見つめた。


 ――まだ、間に合うかもしれない。


 そう思った。


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