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残された者 2

 長淵は、激しく動揺していた。


 傍から見れば、いつもと変わらないだろう。


 王太子として鍛えられた表情は崩れていない。


 けれど、自分自身には分かる。


 心臓が、これまでにないほど速く脈打っている。


 ――あの少女が。


 長年、探し続けていた少女が。


 沈瑶月だった。


 あの満月の下で出会った少女が。


 今、罪人として檻に入れられ、都へ連れてこられている。


 長淵は何度も深く息を吸った。


 落ち着け。


 今、自分が取り乱しても何も変わらない。


 それよりも――


 どうすれば、彼女を生かせる。


 頭の中で、考えが巡り続ける。


 沈家は東州を守護する名門武家。


 その一族が、民を守れなかった。


 それだけではない。


 彼女自身も、敵兵を毒で殺したと聞いている。


 罪状だけを見れば、軽い処罰では済まない。


 それでも。


 なんとかして、彼女を生かしたい。


 そう考えながらも長淵の足は止まらなかった。


 その足が向かっていたのは王家が管理する牢獄だった。


 ――彼女の終着点。


 陰湿な地下牢。


 冷たい石壁。


 薄暗い灯り。


 そして。


 その奥に、少女がいた。


 五年ぶりの再会だった。


 けれど、二人の間には冷たい鉄格子がある。


 長淵は、無意識に手を握りしめた。


 目の前にいる。


 ずっと探していた少女が。


 なのに、こんな場所にいる。


「……そなたが、沈家の末娘、瑶月か?」


 少女が顔を上げる。


 泥と血に汚れていた。


 髪も乱れている。


 かつて満月の下で見た姿とは、あまりにも違う。


 それでも。


 長淵には分かった。


 間違えるはずがない。


「はい。沈瑶月です」


 その声を聞いた瞬間、胸の奥が締め付けられた。


 やはり、この子だ。


 長淵は努めて平静を装った。


「怪我はしていないか?」


「……?」


 瑶月は少し不思議そうな顔をした。


「していません」


「そうか」


 短い返事。


 それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。


 五年間、密かに探し続けていた。


 ただもう一度会いたいと。


 ようやく見つけた。


 なのに――


 こんな形で再会するとは、思っていなかった。


 長淵は一度だけ息を吐いた。


「明日、王との謁見がある」


「……はい」


「そこで、そなたの罪が決まるだろう」


「承知しております」


 淡々と答える瑶月。


 まるで、自分の死罪さえ他人事のようだった。


 長淵の胸に、再び焦りが込み上げる。


 けれど、それを表に出すことはできない。


「……そうか」


 それだけ言うと、長淵は踵を返した。


 地下牢を出る。


 重い扉が閉じる。


 その瞬間。


 長淵の表情から、王太子としての平静が消えた。


「……どうすればいい」


 誰もいない廊下で、初めて呟いた。


「どうすれば……彼女を生かせる」



 長淵は自室へ戻ると、使用人たちをすべて下がらせる。


 扉が閉まった。


 誰もいない。


 その瞬間だった。


「……はは」


 口元が歪んだ。


「ははは……」


 自分でも何がおかしいのか分からない。


 笑いが止まらない。


「ははははは……!」


 まるで、自分自身を嘲笑うように。


 五年間。


 探し続けた。


 いつかもう一度会えると、どこかで信じていた。


 それなのに。


 ようやく見つけた少女は、まさかあの沈家の生き残り…沈瑶月だったとは。


 皮肉だ。


 自分は王太子だ。


 何でもできると思っていた。


 少なくとも、そう思われている。


 なのに。


 たった一人の少女を前にして、何もできなかった。


「……っ」


 笑い声が震える。


 気づけば、その目には涙が浮かんでいた。


「はは……」


 もう一度笑おうとした、その時。


「長淵様」


 扉の向こうから側近の声がした。


 笑い声が、ぴたりと止まる。


 長淵は目元を拭った。


「……なんだ?」


 何事もなかったかのような声だった。


「取り急ぎ、ご報告したいことがございます」


「入れ」


 扉が開く。


 側近が一礼して入ってきた。


「先ほど東州からの民について報告が入りました」


「民?」


「はい」


 側近は慎重に言葉を選ぶ。


「瑶月様の輸送に同行して都へ入った東州の民たちが、街中で声を上げております」


「……何と?」


「『ようげつ様を殺さないでほしい』と」


 長淵の目が僅かに動いた。


「一人や二人ではございません」


「……」


「次第に人が集まり、今ではかなりの騒ぎになっているようです」


 長淵は黙って考えた。


 東州の民。


 沈家に守られてきた民。


 そして今、その民が沈家の最後の一人を守ろうとしている。


 やがて、長淵の目から迷いが消えた。


「……これは」


 小さく呟く。


「使えるな」


「はい?」


「いや」


 長淵は立ち上がった。


「国王陛下のところへ行く」


 側近が驚いたように目を見開く。


「今からですか?」


「ああ」


 長淵は扉へ向かう。


 その表情には、先ほどまでの涙の痕など微塵も残っていなかった。


 王太子として。


 そして――


 五年間、あの少女を探し続けた男として。


 長淵は国王のもとへ向かった。




「父上、ご報告したいことがございます」


 そう言いながら、長淵は朔国国王――蕭玄江(しょうげんこう)のもとへ向かった。


 一国の王が政務を執る書斎は広い。


 幼い頃から何度も足を運んだ場所だ。


 それなのに。


 今日は、入り口から父の座る机までが、ひどく遠く感じる。


 長淵は足を止めず、いつも通りゆっくりと歩いていく。


「東州から輸送されてきた、沈家の娘についてですが……」


 長淵が切り出す。


 玄江は手元の書物から目を上げない。


「ああ」


 それだけだった。


「現在、都では彼女の命を救ってほしいと訴える民が溢れております」


 玄江の視線は、未だ書物に落ちたままだ。


「このまま彼女を処刑するのは、民意にそぐわないかと」


「それで?」


 短い問い。


 しかし、鋭い。


「お前は、どう考える?」


 長淵は一呼吸置いた。


 ここから先は、ただの願いではない。


 王太子として、父に進言しなければならない。


「……沈家は、東州の民から厚い信頼を得ておりました」


 玄江は黙っている。


「今回、東州を襲った者たちから民を守るため、沈家の者たちは最後まで戦ったと聞いております」


「そうだな」


「そして、生き残った民が今、沈家最後の娘を守ろうとしている」


 長淵は言葉を選びながら続けた。


「その娘をここで処刑すれば、民にはどう映るでしょうか」


 玄江の指が、書物の上で止まった。


「……続けろ」


「沈家は民を守れなかった。だから責任をとって沈家の娘を処刑する」


 長淵は静かに言った。


「そのように受け取る者もいるでしょう」


「だが、それ以上に――」


 一瞬、言葉が詰まる。


 地下牢で見た少女の姿が脳裏に浮かんだ。


 泥と血に汚れた顔。


 それでも静かに「承知しました」と答えた声。


 長淵は拳を握り込んだ。


「沈家の娘を、王家が殺した」


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥が痛んだ。


「そう民に受け取られることは、今後の東州統治においても決して得策ではありません」


 玄江はようやく書物から目を上げた。


 鋭い視線が、長淵を捉える。


「では?」


 長淵は父の目を真っ直ぐに見返した。


「処刑以外の道を与えるべきです」


「例えば?」


 長淵は答える。


「王家の監視下に置き、沈家の娘としてではなく――」


 そこで一度、言葉を切った。


「別の身分を与えるのです」


 玄江は黙って長淵を見つめた。


 その沈黙が、やけに長く感じられた。


 やがて、静かに口を開く。


「お前の考えは分かった」


 長淵は黙っている。


「……それだけか?」


 その一言に、長淵の指先が僅かに動いた。


 地下牢で見た少女の姿が、脳裏をよぎる。


 泥と血に汚れた顔。


 静かに自分の罪を受け入れていた瞳。


 ――本当は。


 言いたいことなら、いくらでもあった。


 どうか殺さないでほしい。


 あの少女だけは、生かしてほしい。


 五年間、探し続けた少女なのだと。


 けれど、それを口にすることはできなかった。


「……はい」


 長淵は短く答えた。


 玄江は、それ以上何も聞かなかった。


「なら、もう下がれ」


「……失礼いたします」


 長淵は一礼し、踵を返す。


 背を向けた息子を、玄江は黙って見送った。


 扉が閉まる。


 静寂が戻った書斎で、玄江は再び手元の書物へ視線を落とした。


 けれど――


 しばらくの間、一文字も頭に入ってこなかった。



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