三白州の夏 2
祭りの通りは、人で溢れ返っていた。
色鮮やかな衣を纏った人々が行き交い、あちらこちらから笑い声や呼び声が聞こえてくる。
瑶月が人の流れに押されないよう、劉晟は常に彼女のすぐ隣を歩いていた。
人とぶつかりそうになれば自然と瑶月の前に腕を差し出し、混雑した場所では自ら人の波を受ける。
「こんなに賑やかなお祭りは初めてかもしれないわ」
「ああ」
瑶月は通りに並ぶ店や、川面を彩る飾りを眺めながら歩いていく。
やがて、一つの石橋へ差しかかった。
「……あら」
瑶月の視線が、ふと前方へ向く。
石橋の中央には、一つの団扇が吊るされていた。
白地の団扇には、月下美人の花が細やかな刺繍で施されている。
その周囲には小さな真珠が飾られ、陽の光を受けるたび、淡く輝いていた。
「綺麗……」
瑶月は思わず足を止めた。
すると、橋のたもとから歓声が上がった。
「おおっ、今度こそ取るぞ!」
「落ちるなよ!」
「行け、行け!」
瑶月が川を覗き込む。
団扇を取るための祭りの催しが始まっていた。
川面には細い竹が何本も浮かべられている。
参加者はその竹へ飛び乗り、揺れる足場を渡りながら川を進み、最後に跳躍して吊るされた団扇を取るのだ。
最初の男が竹へ飛び乗った。
「おおっ!」
歓声が上がる。
だが――
「うわっ!」
竹が大きく揺れ、男の身体が傾いた。
次の瞬間。
どぼん!
盛大な水音と共に、川へ落ちた。
「あはははは!」
周囲から笑い声が起こる。
「次、俺だ!」
別の男が勢いよく飛び乗る。
今度は順調に二本、三本と渡った。
だが、最後の竹へ移ろうとした瞬間――
「うわぁっ!」
またしても水面へ落下する。
「惜しい!」
「あと少しだったぞ!」
次から次へと挑戦者が現れては、竹の上で足を滑らせ、川へ落ちていく。
中には団扇へ手を伸ばすところまで辿り着く者もいた。
だが、あと少しというところで水へ落ちる。
「……」
瑶月はしばらくその様子を眺めていた。
そして、吊るされた団扇へ目を向ける。
月下美人。
その白い花に添えられた真珠が、陽の光を受けてきらきらと輝いている。
綺麗だと思う。
けれど――
……私には無理ね
瑶月は小さく笑い、団扇から視線を外した。
その時だった。
「瑶月」
「なに?」
「少し、日傘を持ってくれないか」
「ええ」
瑶月は何の疑いもなく、劉晟から日傘を受け取った。
――次の瞬間。
「……え?」
隣にいたはずの劉晟の姿がない。
橋の下から、ひときわ大きな歓声が上がった。
「おおおっ!」
「誰だ、あれ!」
瑶月が慌てて川を覗き込む。
そこには――
竹の上を駆ける劉晟の姿があった。
先ほどまで何人もの男たちが落ちていた細い竹の上を、まるで平地を走るように駆け抜けていく。
一歩。
二歩。
次の竹へ軽々と飛び移る。
竹が揺れても、足元が沈んでも、劉晟は一切動じない。
「……」
瑶月は目を丸くした。
そして最後の一本を蹴った瞬間――
劉晟の身体が高く宙へ舞う。
伸ばした手が、吊るされていた団扇を掴んだ。
「おおおおおおっ!」
地鳴りのような歓声が、三白州の街に響き渡った。
劉晟はそのまま川岸へ降り立つ。
衣の裾についた水滴を軽く払うと、何事もなかったかのように橋の上へ戻ってきた。
「……」
瑶月は呆然と彼を見つめる。
劉晟は手にした団扇を、瑶月へ差し出した。
「これ」
「……私に?」
「ああ」
瑶月は団扇を受け取る。
月下美人の刺繍。
その周囲に飾られた真珠。
先ほどまで遠くから眺めていたものが、今は自分の手の中にある。
「……綺麗」
瑶月は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、劉晟」
「ああ」
劉晟は短く答える。
その表情はいつもと変わらない。
けれど――
瑶月が団扇を大切そうに眺めているのを見て、ほんの僅かに目元が和らいでいた。
少し離れた場所で見ていた朱雀が、呆れたように呟く。
「……お嬢、欲しいって言ってました?」
「言ってない」
玄武が即答した。
「ですよね」
朱雀は劉晟を見る。
「……あの一瞬で分かったのですかね?」
「さあな」
玄武は肩を竦めた。
その横で、小雪は瑶月の手にある月下美人の団扇を見つめる。
そして、小さく笑った。
祭りの人々から、一斉に注目を浴びた劉晟。
その時だった。
「……さっきの、劉滄燼さまじゃないかい?」
観光客の一人が、そう口にした。
「え?」
「劉滄燼って……あの?」
「まさか……」
ざわり、と周囲が騒めく。
先ほどまで団扇を手にした劉晟を見ていた人々が、今度は別の意味で一斉に視線を向け始めた。
「……っ」
瑶月は慌てて、先ほど劉晟から渡された団扇を持ち上げる。
そして――
ぱっ、と劉晟の顔を隠した。
「…………」
劉晟は何も言わない。
瑶月は団扇の陰から周囲を窺いながら、必死に考える。
どうしよう。
もし、本当に劉滄燼だと知られてしまったら――。
その瞬間。
ふわり、と身体が浮いた。
「……え?」
気づけば、瑶月は劉晟の腕の中にいた。
「劉晟……?」
問いかける間もなく。
劉晟は瑶月を抱き上げたまま、人混みの中を走り出した。
「え、ちょ、ちょっと……!」
瑶月は慌てて団扇を握りしめる。
その団扇だけが、しっかりと劉晟の顔を隠したまま――。
二人は祭りの人波の中へと消えていく。
その後ろから。
「護衛する意味はどこにあるのです〜」
朱雀の声だけが、虚しく響いた。




