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月下の背中

 部屋の中から、瑶月の泣き声が聞こえた。


小雪は、はっと顔を上げる。


お嬢様が目を覚ました。


そう思うと、身体が勝手に動いていた。


一歩、部屋へ向かって足を踏み出す。


けれど、小雪はふと足を止めた。


そして静かに踵を返し、厨房へ向かう。


「入らないのですか?」


後ろから朱雀の声がした。


小雪は振り返り、穏やかな笑みを浮かべる。


「しばらくは、お二人にして差し上げましょう」


そう言って、小雪は厨房へ向かう。


最初は、劉晟が憎かった。


お嬢様は、こんな男を助けるために、あのような姿になった。


小雪には、それがどうしても理解できなかった。


あの夜のことを、今でも鮮明に覚えている。


劉晟を逃した夜。


瑶月は小雪に言った。


『小雪も一緒に行きなさい。これは命令よ』


嫌だった。


お嬢様を置いていくことなど、できるはずがなかった。


一緒に残りたかった。


たとえ、それが死を意味するとしても。


それでも瑶月は続けた。


『私の代わりに、東州を見届けて?』


その言葉には、逆らうことができなかった。


だから小雪は、お嬢様を置いていった。


あの夜から、劉晟が憎かった。


けれど――


小雪は見ていた。


雨の中、腕の中で少しずつ消えていく瑶月の灯火を、最後まで諦めなかった男を。


絶望し、目の焦点さえ定まらず、手を震わせていた男を。


感情を一切見せなかった男が、皆の前で初めて感情を露わにした姿を。


そして、三白州の屋敷へ来てからも。


目を覚まさない瑶月に対して、劉晟は献身的に世話を続けていた。


最初の頃は、手が震えて、手拭いをまともに絞ることさえできなかった。


それでも何度もやり直し、瑶月のそばに居続けた。


夜になると、劉晟はひとりで庭へ出て


誰もいない場所で、遠い月を眺めていた。


時折、俯くその顔は、自分自身を責めているようだった。


小雪は、そんな姿を幾度となく見てきた。


いつからだっただろう。


気づけば――


劉晟への恨みは、もうなくなっていた。


許したわけではない。


忘れたわけでもない。


ただ、小雪には分かってしまったのだ。


この男もまた、あの夜からずっと――


瑶月を失うことを恐れていたのだと。


厨房で用意した重湯を椀によそい、小雪はそれを手に部屋へ向かう。


扉を開ける。


そこには、涙で頬を濡らした瑶月がいた。


けれど、その表情は穏やかだった。


劉晟の腕の中で、静かに眠っている。


小雪はそっと重湯を卓へ置く。


そして劉晟へ向かって、微笑んだ。


「……あとは、お任せしますね」


劉晟は小さく頷いた。


小雪はそれ以上何も言わず、静かに部屋を後にした。


廊下へ出ると、胸の奥にほんの少しだけ寂しさが込み上げる。


ずっと、お嬢様のそばにいたい。


目覚めたその瞬間は、自分が一番に抱きしめてあげたかった。


けれど――


小雪は足を止め、空を見上げた。


どこまでも澄み渡った空だった。


雲ひとつない、清々しい空。


小雪は、ふっと笑った。


これでいい。


お嬢様が穏やかに眠れるのなら。


それだけで、十分だった。

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