薫風南来 3
目を覚ました瑶月の肩を支え、劉晟はそっと瑶月の上半身を起こした。
瑶月は寝台に背中を預ける。
まだ身体に力は入らない。
それでも――
確かに、自分の力で起き上がっている。
その姿は。
ここ数日、劉晟が何度も夢に見ていた姿だった。
目を開けてほしい。
もう一度、声を聞きたい。
そう願い続けていた。
だから。
気づけば、劉晟は一歩前へ進んでいた。
そして、そのまま瑶月を抱きしめようと腕を伸ばす。
――けれど。
その寸前で、劉晟の腕が止まった。
「……」
脳裏に浮かんだのは、あの日の瑶月だった。
血にまみれた身体。
腫れ上がった顔。
傷だらけの細い身体。
あまりにも弱々しく、今にも壊れてしまいそうだった。
もし、今この身体を抱きしめたら。
少しでも力を入れたら。
傷つけてしまうのではないか。
そう思った。
怖かった。
こんな感情は、劉晟にとって初めてだった。
戦場で、死ぬことが怖いと思ったことはない。
どれほどの敵を前にしても、退くことなどなかった。
けれど――
今は。
目の前の瑶月に触れることが、怖い。
どう向き合えばいいのか。
自分でも分からなかった。
劉晟は、ゆっくりと腕を下ろした。
その動きを、瑶月は見ていた。
自分へ伸ばされた腕が。
触れる寸前で、下がっていく。
瑶月の胸の奥が、ひどく冷たくなった。
――そうよね。
自分は天牢にいた。
あの場所に長くいたのだ。
兵士に何かされたと思われても、仕方がない。
そう、瑶月は冷静に自分へ言い聞かせた。
仕方がない。
当然だ。
劉晟が、自分を遠ざけるのも。
そう思おうとした。
けれど――
感情は、思い通りにはならなかった。
ぽろり。
一粒の涙が、頬を伝った。
続いて。
また一粒。
堪えようとするほど、次々と溢れてくる。
「……」
劉晟は戸惑った。
「瑶月……?」
なぜ泣いているのか、分からない。
瑶月は唇を震わせた。
必死に声を絞り出す。
「……私」
声が震える。
「私、汚されてないわ」
「……」
「本当に……何もされてない」
瑶月の目から、また涙が落ちる。
「だから……」
声が途切れた。
それでも。
「嫌わないで……」
劉晟の表情が凍った。
「……違う」
掠れた声だった。
「違うんだ」
瑶月が顔を上げる。
次の瞬間。
劉晟は、今度こそ瑶月を抱きしめた。
優しく、傷つけないように。
何度も夢に見たその姿を、確かめるように。
「……」
瑶月の頬が、劉晟の胸元に触れる。
劉晟は目を閉じた。
胸の奥に、激しい罪悪感が込み上げる。
違う。
そんなことを考えたわけではない。
瑶月が汚れていると思ったことなど、一度もない。
ただ。
怖かった。
傷つけてしまうことが。
今度こそ、失ってしまうことが。
劉晟は瑶月を抱いたまま、掠れた声で呟いた。
「……瑶月」
一度、言葉を止める。
「待っていた」
それだけだった。
けれど、その声は震えていた。
劉晟の目に、涙が浮かぶ。
一滴。
頬を伝おうとしたところで、劉晟はすぐに親指で拭った。
そして何も言わず。
ただ、瑶月を抱きしめていた。
瑶月は、劉晟の胸の中で泣いた。
声を押し殺すことができず、まるで幼子のように。
ただ、泣いた。
「……痛かった」
途切れ途切れの声が、劉晟の胸元に落ちる。
「……怖かった」
その言葉を聞くたび、劉晟の腕が僅かに震えた。
けれど、何も言わない。
ただ、瑶月を抱きしめている。
瑶月は、劉晟の衣を弱々しく掴んだ。
「でも……」
涙で濡れた声が震える。
「あなたに……生きてほしかった」
「……」
「だから……」
胸の奥に押し込めていた感情が、次々と溢れてくる。
悲しみ。
恐怖。
安堵。
そして――
自分でも名前をつけられないほどの、深い想い。
瑶月は、それらすべてを涙に変えるように泣き続けた。
劉晟は何も言わなかった。
ただ、その小さな身体を抱いていた。
もう二度と、離さないように。
やがて。
瑶月の泣き声が、少しずつ小さくなっていく。
それでも劉晟の腕は緩まなかった。
窓の外では、初夏の風が静かに木々を揺らしている。
――今。
瑶月は、生きている。




