薫風南来 2
窓から差し込む柔らかな陽が、静かな部屋を照らし、いつもと変わらない朝だった。劉晟は、今日も瑶月の傍らに座っていた。温かな湯に浸した手拭いを絞り、瑶月の指を一本ずつ、丁寧に拭いていく。
指先。
指の間。
手の甲。傷に触れないよう、細心の注意を払いながら。
何度も。何度も。
同じことを繰り返していた。
その時――
瑶月の瞼が、ゆっくりと開いた。まだ意識ははっきりしない。ぼんやりとした視界の中で、最初に見えたのは見慣れない天井だった。
ここは、どこだろう。そう思った。身体を動かそうとするが、力が入らない。瑶月は仕方がなく、目だけを動かした。
すると――
すぐ傍に、劉晟がいた。
俯いたまま。自分の手を取っている。
そして。
その指を、ひどく丁寧に拭いていた。瑶月は、しばらく何も言わずに彼を見つめた。
何度も見たことのある横顔。戦場では、誰よりも強い男。敵軍の前では、一歩も退かない男。
けれど今は――
ただ黙って、自分の指を拭いている。一度拭いて、手拭いを湯へ戻し、また拭いて。まるで、それ以外にできることがないかのように。
瑶月は、ぼんやりとその様子を眺めていた。
やがて、ほんの少しだけ、唇が動いた。
「……劉晟」
声は掠れていた。けれど、劉晟には届かなかった。
彼はまだ、瑶月の指を見つめている。瑶月はもう一度、声を出した。
「……劉晟」
今度は、ほんの少しだけ声が出た。それでも劉晟は気づかない。瑶月は小さく息を吐いた。
そして――
「……拭きすぎよ」
ぽつり。
その声に、劉晟の手が止まった。
「……」
時間が止まったようだった。劉晟は、ゆっくりと顔を上げる。
そこに――
目を開けて。自分を見ている、瑶月がいた。
「…………」
劉晟の唇が震えたが、名前を呼ぼうとする。
「瑶……」
けれど。声が出なかった。
喉が詰まる。
もう一度、呼ぼうとする。
「……」
それでも、声にならない。
ただ、瑶月の手を包んでいる、その手が震え始めた。
瑶月は、じっと劉晟を見つめていた。彼のその瞳に、僅かに涙が浮かんでいる。
劉晟も瑶月から目が離せないでいた。
まるで目を離したら、また消えてしまうかのように。
瑶月はそんな劉晟をただ見つめていた。
戦場で一騎当千と謳われる男。その武名は、隣国にまで轟いている。誰もが恐れる将軍。
そんな男が――
今は、ひどく弱く見えた。瑶月は、ほんの少しだけ笑い
「……そんな顔、しないで」
その声に。
劉晟の喉が、僅かに震えた。目の奥には、今にも溢れそうな涙が浮かんでいる。
けれど――
落とさない。必死に堪えている。唇を固く結び、ただ瑶月を見つめている。瑶月は、そんな劉晟を静かに見つめ返した。
そして。
自分の手を包んでいる大きな手へ、ほんの少しだけ指を絡めた。
その瞬間。
劉晟の指が、強く瑶月の手を握り返した。




