薫風南来 1
屋敷の庭では、青々と茂った木々の葉が風に揺れ、日に日に強くなる陽の光が、庭の草花を照らし、春の名残を留めながら、季節は確かに夏へ向かっている。
そんな穏やかな朝。屋敷の一室だけは、静まり返っていた。
劉晟は、寝台の傍らに座っている。その視線の先には、まだ目を覚まさない瑶月がいた。あの雨の日から、十日ほどが経つ。
あの日。
瑶月の顔は、目を開けることすらできないほど腫れていた。今は、その腫れもようやく引いてきているが、まだ薄紫色の内出血の跡は残っている。身体にも、無数の鞭傷が彼女が経験した事を生々しく語っていた。それでも、目に見える傷は、少しずつ癒えてきた。
けれど――
瑶月は、まだ目を覚まさない。北玄国の医官は言っていた。あまりにも重い傷だったと。数日にわたって受けた痛み、それによる身体への負担も大きい。身体が回復するには、時間が必要なのだと。
いつ目を覚ますのか。それは、誰にも分からない。
だから劉晟は、ただ待っていた。
今日も。昨日も。その前の日も。
劉晟は、温かな湯に浸した手拭いを絞った。
そして、瑶月の手をそっと取る。
傷ついた指先。細い指。その一本一本を、壊さないように、ゆっくりと拭いていく。
あまりにも軽い。あまりにも小さい。
こんな身体で――
あの天牢で、どれほどの痛みに耐えていたのだろう。
劉晟は、瑶月の指を拭いながら、ふと思った。
――最初は、亡き友人の妹だった。
あの屠城を生き残った、沈家のたった一人の娘。その子を守ることが、沈家への恩返しになると思った。例え、その娘が自分を憎んでいようと。自分を見るたびに、家族を奪った男だと思おうと。それでも、この娘を朔国へ送り返すわけにはいかなかった。
ただ、それだけだった。
けれど。瑶月を屋敷へ迎えてから、少しずつ何かが変わっていった。静寂しか知らなかった屋敷が、次第に騒がしくなった。
廊下を走る足音。小雪の慌ただしい声。青龍や白虎の困り果てた声。
鍼が何本も刺さった鶏。あんなものを見るのは、初めてだった。
首元に破片を当てられたこともあった。あの時の瑶月は、随分と凄い目をしていた。さすが武家の娘だと、妙なところで感心したことを覚えている。
平陽の酒楼で、必死に自分の言葉を訴えていた横顔。
沈家が遺した武器を前にして、声を押し殺すように泣いていた背中。
あの日を、誰よりも間近で経験したはずなのに。それでも瑶月は、何度も立ち上がろうとしていた。前を向こうとしていた。
その姿を見ているうちに――
いつの間にか、瑶月から目を離せなくなっていた。左腕に鍼を施してもらう時も。瑶月は、いつも真剣な眼差しをしていた。
一針。
また一針。
丁寧に鍼を打っていく。その横顔を、何度も見つめた。薬を届けにやって来る瑶月が扉の向こうから歩いてくる音。その足音が聞こえるだけで、なぜか心が僅かに軽くなった。
いつの間にか。瑶月が来るのを、楽しみにしていた。
ただ薬を持ってくるだけのことなのに。彼女が来る。
それだけで、部屋の中が少しだけ明るくなったように感じた。
そして、いつからだったのだろう。瑶月に、自分のことを知ってほしいと思うようになった。
滄瀾たちと過ごした時間。幼い頃のこと。自分がどんな場所で育ったのか。何を失ってきたのか。そんなことを、誰かに話したいと思ったのは初めてだった。
その頃からだったのかもしれない。
少しずつ。
本当に少しずつ。
瑶月という存在が、亡き友人の妹ではなく――
一人の女性として、自分の中に存在し始めたのは。
劉晟は、ふと手元へ視線を落とした。いつの間にか、手拭いは止まっていた。掌の中には、瑶月の指がある。
あの頃は、鍼を持っていた細い指。
風鈴を抱えていた指。
時には、自分の袖を掴んだ指。
今はただ、力なく劉晟の掌の中に収まっている。
「……」
劉晟は、親指でその指先をそっと撫でた。温かい。ちゃんと、生きている。その事実に、胸の奥が僅かに緩んだ。けれど、瑶月はまだ眠ったままだ。
劉晟はもう一度、手拭いを湯に浸した。絞った布を、今度は瑶月の手の甲へそっと当てる。
「……早く、目を覚ましてくれ」
返事はない。
窓の外では、初夏の風が木々の葉を揺らしている。
鳥の鳴き声も聞こえ、庭には、夏の光が満ちて
季節は、何事もなかったように進んでいく。
けれど――
劉晟にとって、この十日間だけは、時間が止まったままだった。
瑶月が目を覚ます、その時まで。




