見えぬ目に映るもの
雨の中。
ようやく、一行は景都の城外へ出た。城門を抜けた先には、一台の豪華な馬車が待っていた。
その傍らに立っていたのは――
北玄国皇帝・慕容九思だった。
「早く。こちらの馬車へ」
慕容の声は、いつもと変わらず穏やかだった。けれど、その言葉に迷いはない。劉晟は瑶月を抱えたまま、馬車へ乗り込んだ。慕容もすぐに続く。
「こちらへ」
馬車の中には、すでに北玄国の医官が待機していた。医官は瑶月の状態を見るなり、すぐに処置を始める。
「こちらへ寝かせてください」
劉晟は言われるまま、瑶月をそっと横たえた。医官たちが傷口を確認し、止血を施す。
その間も――
劉晟の両手は、ずっと震えていた。
瑶月の血に染まった手。何度拭っても、赤い色が消えないような気がした。
目も、定まっていない。ただ、横たわる瑶月だけを見つめている。
「……」
やがて、一人の医官が口を開いた。
「もう少し遅れていたら――」
劉晟の肩が僅かに揺れた。
「間に合わなかったでしょう」
「……」
劉晟はゆっくりと医官を見る。
「助かるのか?」
声が、ひどく掠れていた。医官は静かに頷く。
「ええ。まだ助かります」
「……そうか」
その瞬間。
劉晟の張り詰めていた表情が、ほんの僅かに緩んだ。ようやく、息を吐く。
慕容が、穏やかに笑った。
「我が国の医術は、素晴らしいからね」
「……ああ」
劉晟は短く答えた。
馬車がゆっくりと走り始める。
窓の外では、雨が降り続いている。
しばらく誰も口を開かなかった。
やがて。
劉晟が、静かに慕容へ視線を向けた。
「景国の皇位は劉承琰が継ぐことになります。」
「そう」
慕容は特に驚いた様子もなく答えた。
劉晟は続ける。
「この度は手を貸してくださり、感謝いたします。」
普段の劉晟なら、決して簡単には口にしない言葉だった。
だからこそ、その声には深い感謝が滲んでいた。
慕容は、ふっと笑う。
「礼なら、もう十分だよ」
そして――
何でもないことのように尋ねた。
「あの信号弾、役に立った?」
「……」
劉晟の目が、慕容へ向けられる。
あの瞬間。
劉安が一瞬だけ背後の空へ目を向けた。その隙を作るために、慕容が上げさせた信号弾。あれがなければ、自分の矛は、劉安へ届かなかった。
そして――
瑶月を救い出すこともできなかったかもしれない。
「……助かりました」
劉晟は静かに答えた。
目の前にいる男を見る。
北玄国皇帝。目の見えない男。
それなのに。
まるで、すべてを見ているかのようだった。
劉晟は初めて――
慕容九思という男の底知れなさを、はっきりと感じていた。
雨音だけが、馬車の中に静かに響く。
※
馬車が、とある小さな屋敷の前で止まった。雨は、いつの間にか小降りになっていた。
「ここは北玄に近い街、三白州です」
慕容が静かに告げる。劉晟は窓の外へ目を向け、それから慕容を見た。
「瑶月には、ここで身体を休めてもらおうと思う」
一呼吸。
「安心して。ここは安全だから」
「……」
劉晟は、わずかに警戒心を強めた。このまま、いつまでも慕容の庇護下にいるわけにはいかない。
だが――
今の瑶月を連れて、無理に平陽へ戻ることもできない。
瑶月は、まだ生死の境にいる。
今は、ここで身体を休ませるしかなかった。劉晟は眠る瑶月へ視線を向ける。
しばらく考えた後、慕容へ向き直った。
「……ご厚意、心より感謝いたします。瑶月の傷が癒えましたら、すぐに――」
「借りを一つ、返してもらうよ」
言葉を遮られた。
「……」
劉晟は黙った。
膝の上で、拳がゆっくりと握り締められる。
やはり。
何の見返りもなく、ここまで手を貸してくれるはずがない。
慕容は、穏やかに笑った。
「元気になったら――」
一呼吸。
「北玄へ遊びにおいで」
「……私が、ですか?」
「君だけじゃないよ」
慕容の顔が、瑶月の方へ向く。
「瑶月さんも一緒に」
「……」
劉晟の瞳が、わずかに揺れた。
慕容は、にっこりと笑う。
「待ってるから」
その声は、いつもより少しだけ低かった。
劉晟は黙って慕容を見つめる。
そして――
ようやく理解した。
この男が欲しいのは、金でも権力でもない。
自分と瑶月。
我々を、北玄へ招くこと。
今回の一件で貸しを作り、その借りを理由に、北玄へ来るための道を、あらかじめ用意している。
劉晟は唇を固く結んだ。
――この人の狙いは、これだったのか。
彼には何が見えているのか、劉晟はわからなかった。




