屠城 5
民に手を引かれ、瑶月は城外の小屋へと辿り着いた。
そこは、かつて滄瀾と共に過ごした秘密の場所だった。
小川のせせらぎ。
木々のざわめき。
以前なら、穏やかだと思えたはずの場所。
けれど今は、何も感じなかった。
昨日までの自分と、今の自分は――まるで別人だった。
昨日まで。
瑶月には、全てがあった。
父がいた。
母がいた。
三人の兄がいた。
帰れば、いつも誰かが笑っていた。
食卓には家族が揃い、母は髪を編んでくれた。
兄たちはくだらないことで言い争い、瑶月を甘やかした。
それが、当たり前だった。
それなのに。
今は――
何もない。
小雪が、心配そうに瑶月を見つめている。
何か声をかけようとしているのだろう。
けれど、言葉が見つからない。
周囲の民たちも同じだった。
誰も口を開かない。
妙に静かな小屋の中で、瑶月はゆっくりと顔を上げた。
一人。
また一人。
目の前にいる民たちの顔を見る。
老人。
子ども。
怪我をした兵。
母親に抱かれた幼子。
――この人たちは。
父上が守った人たち。
母上が命を懸けて守った人たち。
兄様たちが、命を捨ててまで逃がした人たち。
そう思った瞬間。
胸の奥から、激しい感情が込み上げてきた。
憎い。
山賊が。
あの黒い甲冑を着た兵士が。
左手で剣を握っていた、あの男が。
父を傷つけた。
母を殺した。
兄たちを奪った。
――許せない。
けれど。
瑶月は拳を握りしめた。
今は、憎んでいる場合ではない。
目の前にいる人たちを守らなければ。
それが、自分に残された最後の役目なのだから。
でも――
どうやって?
自分は武芸ができない。
短刀を握ったところで、敵を一人倒せるかどうか。
命を差し違えたとしても、一人しか殺せない。
それでは駄目だ。
ここには、二百人近い民がいる。
二百人を守らなければならない。
助けがいつ来るのかも分からない。
このまま敵に見つかったら?
食料が尽きたら?
怪我人が悪化したら?
子どもたちは?
老人たちは?
考えれば考えるほど、現実が瑶月の肩に重くのしかかってくる。
「……どうすれば……」
小さな声が漏れた。
誰に尋ねたわけでもない。
答えてくれる者もいない。
瑶月は俯いた。
その時だった。
視界の端に、一株の野草が映った。
「……これ」
瑶月はゆっくりと立ち上がった。
見覚えがある。
以前、滄瀾と共にここへ来た時。
川で毒魚を食べて倒れていた青年を助けた時に使った薬草だ。
あの時は、命を救うために使った。
けれど――
瑶月の脳裏に、別の考えが浮かんだ。
「……毒」
小さく呟く。
毒にもなる。
ならば。
敵に使えば――
瑶月は息を呑んだ。
おそらく、あの者たちはまだ屋敷にいる。
ならば、飲み水に混ぜれば。
戦わずして、敵の数を減らせるかもしれない。
民を守れるかもしれない。
父や兄たちが命を懸けて守った人たちを。
自分の手で。
けれど。
その考えに、自分自身が震えた。
人を救うために学んできた医術。
傷を治すために。
病を治すために。
命を救うために。
その知識を――
人を殺すために使っていいのか。
瑶月は目を閉じた。
医術を学んできた者なら、戦場で毒を使うことが倫理に反することくらい知っている。
それは、やってはいけないことだ。
分かっている。
分かっているのに。
母の最期が脳裏に蘇る。
血に濡れた顔。
伸ばされた手。
兄たちの姿。
父の右腕。
そして――
自分の前で、何のためらいもなく人を殺していた黒い甲冑の兵。
「……でも」
瑶月は目を開いた。
「敵に……倫理はあったの?」
答えは分かっている。
――なかった。
少なくとも、瑶月にはそう思えた。
母を斬った。
父を傷つけた。
兄たちを奪った。
民を殺した。
何のためらいもなく。
それなら。
自分だけが、命を救うことにこだわって。
この人たちを死なせていいのか。
瑶月は野草を見つめた。
小さな葉。
ほんの少し前までなら、これは「人を救うための薬草」だった。
けれど今は違う。
使い方次第で、人を殺せる。
震える手を伸ばす。
そして、そっと摘み取った。
「……ごめんなさい」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
医術に対してなのか。
母に対してなのか。
それとも――
これから自分が殺そうとしている者たちに対してなのか。
瑶月は野草を握りしめた。
涙を拭う。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「この人たちを守る」
声は震えていた。
それでも、言葉ははっきりしていた。
「父上と母上と、兄様たちが命を懸けて守った人たちを」
一度、深く息を吸う。
「私は……守る」
そして。
医術を学んだ少女は、生まれて初めて――
人を救うためではなく、人を殺すために薬草を手に取った。
覚悟を決めてからは、早かった。
瑶月は、まだ動ける民を集めた。
「この薬草を探してください」
そう言って、先ほど見つけた野草を見せる。
「できるだけ多く。見つけたら、私のところへ持ってきてください」
民たちは戸惑いながらも頷いた。
老人も。
若者も。
怪我を負いながらも動ける者も。
一人、また一人と、森へ散っていく。
瑶月はその背中を見送った。
そして、もう一度集まった民たちへ向き直った。
「……皆さんに、話しておきたいことがあります」
ざわめきが止まる。
瑶月は小さく息を吸った。
「私はこれまで、長く戦場へ赴く父上や兄様たちのために、医術を学んできました」
幼い頃から読んできた医術書。
西洋の医師から教わった知識。
父や兄たちが怪我をして帰ってくるたびに、少しでも役に立ちたいと思って学んだ。
「医術とは、人を救うものだと……ずっと信じていました」
そこで、瑶月の声がわずかに震えた。
「ですが――今日、私はその知識を使い」
何人かが顔を見合わせる。
「毒を作ります」
静寂が落ちた。
「我らが愛した東州を踏みにじった者たちを、一掃するために」
瑶月は一人一人の顔を見た。
まだ幼い少女の顔。
傷ついた兵士の顔。
家族を失った者の顔。
「……倫理に反する行いなのは、重々承知しています」
逃げずに言う。
「医術を、人を救うためではなく、人を殺すために使うのです」
それでも。
瑶月は目を逸らさなかった。
拳を握る。
「もう、私たちに残されている道はありません」
父も。
母も。
兄たちも。
もういない。
残されたのは、自分たちだけ。
「だから……」
瑶月は、深く頭を下げた。
「みんなで生き残りましょう」
顔を上げる。
その瞳には、涙が残っていた。
それでも、その奥には確かな決意が宿っていた。
「一人でも多く、生きてここから出ましょう」
「……そのためなら、私は身につけてきた医術を使い敵を殺めましょう。」
誰も、何も言わなかった。
やがて。
一人の青年が立ち上がった。
「……分かりました」
続いて、別の者が立ち上がる。
「俺も探します」
「私も」
「私も行きます」
少しずつ。
少しずつ、声が増えていく。
瑶月はその光景を見つめていた。
そして初めて。
沈家の娘としてではなく――
この民を率いる者として、立っていた。
夜明け前。
空がまだ暗い中、瑶月は小雪と共に抜け道を進んでいた。
手には、夜通しかけて作った毒薬がある。
小雪が何度もその瓶を見つめていた。
「お嬢様……」
「なに?」
「毒を厨房の水瓶に入れるくらいなら、私が――」
「小雪」
瑶月は足を止めた。
そして、手の中の小さな瓶を見つめる。
「これは私が作ったもの」
静かな声だった。
「だから、私が入れるべきだわ」
小雪は何も言えなかった。
二人は再び歩き出した。
やがて、抜け道の突き当たりに辿り着く。
小雪が屋敷へ繋がる入り口を開けた。
その瞬間だった。
――ドサッ。
「……え?」
人影が、こちらへ倒れ込んできた。
小雪が慌てて受け止める。
「お嬢様……!」
瑶月も駆け寄った。
「……かい、兄様?」
そこにいたのは、滄海だった。
けれど。
瑶月の知っている兄ではなかった。
いつも眠そうだった目は、見開いている。
何かを企むように意地悪く笑っていた口元も、もう動かない。
瞳は濁り。
身体は力なく冷え切っていた。
「……嘘」
瑶月の唇が震える。
「兄様……?」
返事はない。
もう、分かっていた。
それでも認めたくなかった。
今にも泣き出しそうになる。
その瞬間。
瑶月は、手の中の毒薬を強く握りしめた。
瓶が軋む。
「……急ごう」
それだけだった。
泣くのは後だ。
今はまだ。
この屋敷には、敵がいる。
瑶月と小雪は滄海の身体を抱え、通路の近くに安置し屋敷の中へ入った。
十三年間暮らした場所。
何度も走り回った廊下。
家族と食事をした広間。
母に髪を編んでもらった部屋。
兄たちと笑った庭。
――そのはずなのに。
今は、どこにも見覚えがない。
あちらこちらに、死体が転がっている。
床を覆っているのは、もはや血溜まりなどという生易しいものではなかった。
瑶月は一度も足を止めなかった。
厨房へ向かう途中、広間の前を通り過ぎる。
その中から――
笑い声が聞こえた。
「ははは!」
忌々しい談笑。
まるで、ここで何も起きていないかのような声。
瑶月は唇を噛み締めた。
血の味がした。
それでも、振り返らない。
厨房へ入る。
そこには、大きな水瓶があった。
瑶月は懐から毒薬を取り出した。
手が震える。
一瞬だけ、躊躇した。
けれど――
瓶を傾ける。
透明な水の中へ、毒が溶けていく。
これでいい。
これしかない。
瑶月は瓶を閉じた。
「……行きましょう」
二人は滄海を抱え、再び抜け道へ戻った。
そして入り口を閉じる。
暗い抜け道の中。
瑶月は滄海を腕の中に抱いた。
冷たい。
真冬の雪のように、冷たい。
「兄様……」
もう返事はない。
それでも、瑶月は強く抱きしめた。
まるで。
腕の中で兄が溶けて、どこかへ消えてしまうのを防ぐように。
しばらくして――
外から声が聞こえた。
「――うっ……!」
「ぐ、あ……!」
続いて。
「何だ……これ……!」
「水が……」
「苦しい……!」
一人。
また一人。
兵士たちの苦しむ声が、屋敷の中から響いてくる。
瑶月は目を閉じた。
腕の中の滄海を、さらに強く抱きしめる。
そして一滴の涙が、冷たくなった兄の頬へ落ちた。
どれほど時間が経ったのだろう。
瑶月は、再び屋敷へ戻った。
先ほどまで聞こえていた兵士たちの声は、もうない。
屋敷の中には、静寂だけが残っていた。
目に入る兵士は――
誰一人として、生きていなかった。
「……はは」
乾いた笑いが漏れた。
自分でも、なぜ笑っているのか分からない。
瑶月はそのまま歩き出した。
沈家の門へ向かう。
途中、床に何かが落ちているのが見えた。
――腕。
父の右腕だったもの。
さらにその先には、母のものと思われる肉塊が転がっていた。
瑶月は足を止めなかった。
見ない。
今は、見ない。
沈家の門へ辿り着く。
ゆっくりと、門を開けた。
ギィ……。
重い音が響く。
そして、外へ出る。
そこに広がっていたのは――
瑶月が知っている東州ではなかった。
昨日までの城下には、人々の笑い声があった。
いつもの茶楼があり。
屋台があり。
子どもたちが走り回っていた。
けれど今は。
血に染まった道。
倒れた遺体。
壊れた店。
瑶月は歩いた。
血の上を。
遺体の横を。
時には、遺体を踏まないように避けながら。
血で汚れている家族絵を横目に…
ただ、歩いた。
やがて。
城門が見えてきた。
瑶月は顔を上げた。
そして――
足が止まった。
城門の上。
そこに吊るされていたのは。
「……」
滄岳。
そして、滄瀾。
――だったもの。
二人の腹部は切り裂かれ、臓物がこぼれ落ちている。
死者に対する、最後の辱め。
瑶月は何も言わなかった。
ただ、二人のもとへ歩み寄った。
そして、ゆっくりと身体を下ろした。
「……兄様」
袖の中へ手を入れる。
取り出したのは、医術で使う針と糸。
瑶月は二人の腹部へ手を添えた。
一針。
また一針。
ゆっくりと。
丁寧に。
まるで、生きている患者を治療するように。
こぼれ落ちたものを戻し。
裂かれた腹部を閉じていく。
「……痛かったでしょう」
返事はない。
「ごめんなさい……」
また一針。
「もっと早く……来れば……」
また一針。
涙は流れなかった。
ただ、黙々と針を動かした。
その時。
遠くから馬の蹄の音が聞こえた。
次第に近づいてくる。
「右軍だ!」
「大丈夫か!」
「なんなんだ、この惨状は……!」
「何があったんだ、言え!」
声が近づいてくる。
「お前は誰だ!」
瑶月の手が止まった。
「……」
うるさい。
なんて、うるさい人なんだろう。
今は。
今だけは。
兄様たちを綺麗にしてあげたいのに。
どうして邪魔をするの。
「おい!」
軍人が近づいてくる。
そして、瑶月の腕を掴んだ。
「こんなところにいては危険だ! 早く――」
その瞬間。
瑶月の手から、針が落ちた。
カラン、と乾いた音がした。
「……触らないで」
小さな声だった。
軍人が驚いたように手を止める。
「今……何を――」
「触らないで!」
初めてだった。
瑶月が、声を荒らげた。
「まだ終わってない!」
涙が溢れる。
「まだ……兄様たちを綺麗にしてないの!」
声が震える。
「お願いだから……」
「邪魔しないで……」
その瞬間。
十三歳の少女が初めて。
家族を失ってから初めて。
張り詰めていた感情を、堰を切ったように露わにした。




