屠城 4
沈家の屋敷では、負傷兵や民たちの手当てが続いていた。
瑶月は血に濡れた布を取り替え、傷口を洗い、薬を塗っていく。
手を止める暇などなかった。
滄海の顔を見れば分かる。
父の表情を見れば、もっと分かる。
――滄岳は、もう戻ってこない。
それでも、瑶月は泣かなかった。
泣いている暇などない。
目の前には、自分たちを守るために傷ついた兵たちがいる。
そして、その背後には守らなければならない民がいる。
今は泣く時ではない。
「次の方、こちらへ!」
瑶月の声が広間に響く。
沈家に保護された民は、およそ二百人。
老人もいれば、子どももいる。
女も、男も。
戦える者たちは、屋敷に置かれていた武器を手にしている。
瑶月自身も、腰には護身用の短刀を差していた。
その隣では江氏もまた、負傷者の手当てに追われている。
母と娘。
二人とも、休むことなく動き続けていた。
その時だった。
屋敷の外から、声が響いた。
「右軍だ!」
ざわめきが止まる。
「門を開けろ!」
兵士の一人が、安堵したように門へ向かおうとする。
しかし――
「待て」
皓然の低い声が響いた。
兵士が足を止める。
「何軍だ?」
「右軍です!」
「……もう一度聞く」
皓然の目が鋭くなる。
「何軍だ?」
「右軍だ!」
外から返事が返ってくる。
皓然はしばらく黙っていた。
そして、静かに問いかける。
「朔国の軍札は持っているか」
返事がない。
「……あるいは景国の軍札でもいい」
それでも沈黙。
「急いで来たから、そんなものはない!」
その瞬間。
皓然の表情が変わった。
右軍ではない。
目の前にいるのは、沈軍でもない。
ましてや、沈家と友好関係を築いている黒曜軍でもない。
――この町を襲った何者かだ。
「それなら――」
皓然が立ち上がる。
「開けられん」
その言葉を言い終えるより早く。
――ガンッ!
屋敷の外壁から、激しい音が響いた。
全員が振り向く。
壁の上から、一本の梯子が現れた。
続いて、もう一本。
そして――
壁の向こうから、武装した男たちが次々と姿を現した。
「敵だ!」
誰かが叫ぶ。
屋敷中に緊張が走った。
皓然は刀を抜いた。
滄海も双剣を構える。
兵士たちが民の前に立ちはだかる。
瑶月は短刀の柄を握りしめた。
その手は、震えていた。
けれど――
もう、逃げる場所はない。
沈家の屋敷そのものが。
最後の砦だった。
戦いは、民を庇いながらのものになった。
兵たちは盾となり、民たちはその背後で身を寄せ合う。
怒号。
泣き声。
剣戟の音。
血の匂い。
すべてが混ざり合い、屋敷は瞬く間に戦場へと変わっていた。
その混乱の中で、瑶月はふと思い出した。
――抜け道。
かつて滄瀾と一緒に城外まで抜け出した、あの道。
あそこなら、民を逃がせるかもしれない。
そう思った。
「父上!」
瑶月は皓然のもとへ向かおうとした。
その瞬間だった。
黒い甲冑を纏った兵が、瑶月へ向かって刃を振り上げた。
「お嬢様!」
小雪が飛び出す。
だが――
それよりも早く。
瑶月の目の前に、母が立った。
「母上――」
刃が振り下ろされた。
次の瞬間。
――鮮血が、瑶月の顔へ降り注いだ。
「……え?」
時間が止まったようだった。
何が起きたのか分からない。
目の前にいる母の身体が、ゆっくりと崩れていく。
「母上……?」
瑶月の手が伸びる。
その身体を受け止めた。
あたたかい。
けれど、その温かさが自分の手を濡らしていく。
「……母上?」
背後から滄海が飛び込み、母を斬った兵を一瞬で斬り伏せた。
けれど。
もう遅かった。
瑶月の腕の中で、江氏はかすかに顔を上げた。
顔は血に覆われている。
それでも、瑶月には分かった。
――母だ。
江氏は震える手を、娘へ伸ばした。
「よう…げつ……」
「……」
「私は……あなたの母よ」
瑶月の唇が震える。
「あなたを守るのが……私の使命なの……」
「……おかあ、さん……」
声にならない。
涙だけが溢れる。
江氏は最後の力を振り絞り、瑶月の頬へ手を伸ばした。
「滄海様……」
滄海が振り向く。
「……あとは、任せました」
その言葉を最後に。
江氏の手から力が抜けた。
「母上?」
瑶月の声に、もう返事はない。
「母上……?」
何度呼んでも。
何度揺すっても。
もう、戻ってこない。
瑶月の身体から力が抜けた。
その場に崩れ落ちそうになった瞬間、滄海が瑶月の腕を掴んだ。
「瑶月、行くぞ!」
「……」
「瑶月!」
反応がない。
滄海は妹を無理やり立たせ、その場から引きずるようにして離れた。
人の波が二人を押し流していく。
その中で――
瑶月は見ていた。
さっきまで自分を抱きしめてくれていた母の身体が。
倒れたまま、人々に蹴られていく。
踏みつけられていく。
「……」
足が動かない。
声も出ない。
ただ、見ている。
「瑶月!」
滄海が何度も呼ぶ。
「瑶月!」
それでも反応しない。
滄海は妹の肩を掴んだ。
「瑶月!」
それでも。
その瞳は、何も映していない。
滄海は歯を食いしばった。
そして――
パチンッ!
乾いた音が響いた。
瑶月の頬を、滄海が叩いた。
その瞬間。
瑶月の瞳が動いた。
目の前にいる兄を捉える。
「……かい、兄様……?」
滄海は息を切らしながら、妹の両肩を掴んだ。
「瑶月。よく聞け」
その声は震えていた。
けれど、目だけはどこまでも真っ直ぐだった。
「今から父上と合流する」
一語ずつ、言い聞かせる。
「絶対に、俺から離れるな」
瑶月は何も答えられない。
それでも滄海は、妹の手を強く握った。
「絶対だ」
そして二人は。
再び、戦場の中へ走り出した。
混乱の中をかき分け、滄海と瑶月はようやく父の姿を見つけた。
「父上!」
皓然が振り返る。
「滄海! 瑶月!」
互いの姿を確認した、その瞬間だった。
「父上、屋敷から城外までの抜け道を知って――」
瑶月が言いかけた。
その時。
「大将軍さんよ」
低い声が割り込んだ。
皓然の目の前に、一人の兵士が立っていた。
黒い甲冑。
顔を覆う仮面。
その男は周囲の兵と斬り結びながら、まるで何気ないことのように問いかけた。
「北幻珠は、どこだ?」
皓然の眉がわずかに動く。
「……何?」
「北幻珠だ」
男は剣を振るいながら、もう一度尋ねた。
「どこにある?」
瑶月は少し離れたところから、その言葉を聞いていた。
――北幻珠。
聞いたことのない言葉だった。
何のことだろう。
宝なのか。
武器なのか。
それとも、何か別のものなのか。
瑶月が考えている間にも、父は剣を振るい続けている。
「そんなものは知らん」
皓然は吐き捨てるように言った。
仮面の男の目が細くなる。
「……そうか」
その瞬間。
男の剣が動いた。
左手に握られた剣。
長い戦いで疲弊していた皓然の一瞬の隙を突き――
――ザンッ。
「――っ!」
鮮血が舞った。
皓然の右腕が、地面へ落ちた。
「父上ーーーーー!」
瑶月の叫び声が響く。
けれど。
皓然は振り返らなかった。
顔を歪めながら、それでも声を張り上げる。
「滄海!」
滄海が父を見る。
「瑶月を連れて逃げろ!」
「父上!」
「行け!」
有無を言わせぬ声だった。
滄海は歯を食いしばった。
そして――
瑶月の身体を背負う。
「かい兄様、父上が――!」
「行くぞ!」
滄海は走り出した。
瑶月を背負った腕が震えている。
それでも、決して離さない。
唇を強く噛み締める。
血が滲む。
それでも振り返らなかった。
背後から聞こえる父の声を、聞こえないふりをするように。
ただ、走った。
沈家に長く仕えてきた使用人たちは、皆、状況を理解していた。
沈家の血筋を絶やしてはならない。
だからこそ、彼らは自ら前へ出た。
武器を持てる者は武器を取り、戦えない者は民を誘導する。
誰もが、自分の命よりも優先するものを知っていた。
――瑶月を生かす。
滄海と瑶月は、民を連れて屋敷の奥へ向かった。
かつて滄瀾と一緒に抜け出した、あの道。
城外へ続く秘密の抜け道。
「こちらです!」
滄海が先頭に立ち、民を一人ずつ中へ通していく。
老人。
子ども。
負傷した兵。
母親。
一人。
また一人。
民たちは暗い抜け道の中へ消えていく。
そして――
「最後だ」
滄海が言った。
残っているのは瑶月だけだった。
「瑶月、行け」
「兄様も一緒でしょう?」
瑶月はそう言いながら、抜け道へ足を踏み入れた。
そして振り返る。
「かい兄様、早く――」
手を伸ばす。
その瞬間。
――ゴンッ。
目の前で、抜け道の入口が閉ざされた。
「……え?」
瑶月の手が空を切る。
「かい兄様?」
滄海が、外側から入口を閉めたのだ。
「かい兄様、何をしているの?!」
瑶月の声が裏返る。
「開けて!」
扉を叩く。
「兄様!」
返事はない。
「兄様!!」
ようやく、向こう側から声が聞こえた。
「先に行け」
「嫌!」
「お前ら――」
滄海は、抜け道の中にいる民たちへ向けて言った。
「瑶月を頼んだぞ」
「嫌よ!」
瑶月は泣きながら扉を叩き続ける。
「兄様が逃げないなら、私も逃げない!」
「私も一緒に戦う!」
「瑶月」
滄海の声が、静かに響いた。
「逃げるんじゃない」
一拍置いて。
「生きるんだ」
「……っ」
「お前は、生きろ」
瑶月の目から涙が溢れる。
「兄様……」
滄海は、少しだけ笑った。
「また簪を作ってやるから」
「……え?」
「だから、泣くな」
その声は、いつもと変わらなかった。
瑶月の手を、民たちが掴む。
「お嬢様、行きましょう!」
「嫌! 兄様!」
瑶月は必死に手を伸ばす。
けれど、その手が届くことはない。
民たちに引かれながら、瑶月の姿が少しずつ遠ざかっていく。
「兄様――!」
その声が、暗い抜け道の奥へ消えていく。
完全に気配が遠ざかったのを感じると、滄海は小さく息を吐いた。
「……よかった」
これでいい。
これで、瑶月は生きられる。
滄海はゆっくりと立ち上がった。
腰の後ろへ手を伸ばす。
そこには、愛用の双剣があった。
その柄には――
幼い妹が作ってくれた飾りがついている。
滄海はそれを一度だけ見つめた。
「……次は、ぐっすり寝れそうだ」
小さく笑う。
そして。
双剣を抜いた。
滄海は一人、迫り来る敵軍へ向かって歩き出した。




