皇太子 劉承琰
劉承琰。
傍から見れば、景国の皇太子でありながら、どこか飄々とした男だった。
いつも穏やかな笑みを浮かべ、何を考えているのかわからない。大の扇子好きとしても知られ、身につける衣に合わせて扇子を変えるほどだった。朝議の場でさえ、新しい扇子を眺めていることがある。
その姿だけを見れば、皇位を継ぐ者として、あまりにも気楽な男に映ったかもしれない。けれど、その生い立ちは穏やかなものではなかった。
承琰は、皇帝・劉安と皇后・李令蓉の子ではない。劉安と、白妃・白惋清との間に生まれた子だった。白惋清は、劉安が皇帝になる前から彼の妻だった。父は景国の禁軍を束ねる統領。その軍事力があったからこそ、劉安の皇位簒奪は成功したとも言われていた。
誰もが、皇后の座に就くのは白惋清だと思っていた。だが、劉安が皇后に立てたのは、先帝の側室である李令蓉だった。白惋清の父は異を唱えた。その結果、謀叛の罪を着せられ、娘の目の前で処刑された。
その日を境に、白惋清は心を病んでいった。承琰が物事を理解できる頃には、母の離宮へ父が訪れることはなくなっていた。母は突然泣き出した。何もない場所を見つめて怒鳴り、時には承琰へ手を上げた。幼い彼には、なぜ母が泣くのかも、なぜ怒るのかもわからなかった。自分が何か悪いことをしたのかと思い、謝っても、母は聞いてくれなかった。
それでも、そばを離れることはできなかった。父が来ないのなら、自分が母のそばにいなければならない。幼い承琰には、それだけがわかっていた。
ある日、母の膝元で泣いていると、一人の女性が現れた。
皇后・李令蓉だった。
承琰は、彼女がどのような思いでその宮を訪れたのかを知らなかった。ただ、身を屈めた彼女が、自分を優しく抱き上げてくれたことだけを覚えていた。
「大丈夫よ」
背を撫でる手は、穏やかだった。
承琰はその衣にしがみついた。泣いても叱られず、抱きついても突き放されなかった。張り詰めていた身体から、少しずつ力が抜けていった。気づけば、令蓉の腕の中で眠っていた。
目を覚ました時も、彼女はまだ抱いていてくれた。その温もりを、承琰は成長してからも忘れなかった。
やがて、城内の学び舎へ通うようになった承琰は、一人の少年と出会った。
劉晟だった。同じ皇族でありながら、晟は一人、別宮で暮らしていた。生活に必要な使用人はいたが、彼の周囲には、いつも人の気配が乏しかった。用を済ませれば、使用人たちは足早に去る。少年のそばに留まり、話しかける者はいなかった。
承琰は、そんな晟に興味を抱いた。学び舎で顔を合わせれば声をかけ、機会があれば共に武術の稽古もした。けれど、どれほど話しかけても、共に過ごしても、晟の目に自分が映ったと感じることはなかった。問いには答える。稽古にも応じる。それでも、ふとした瞬間、その意識は承琰の手の届かないところへ遠ざかっていた。
まるで、この世界の何にも心を留めていないようだった。そこに立っているのに、いつ消えてしまってもおかしくない。晟とこの世界を結ぶものは、承琰にはひどく細く見えた。
それが不思議で、美しく、そして哀れだった。
承琰は、母に拒まれれば泣いた。父に顧みられなければ傷ついた。誰かに無視されれば、腹も立った。
だが晟は、何を言われても、誰に避けられても、ただ静かに前を向いていた。だからこそ、強く見えたのかもしれない。自分より年下の少年に、承琰は憧れた。
誰かの言葉や眼差しに心を乱されず、自分もこんなふうに立っていられたらと思った。
ある日、学び舎で太傅が友について説いていた。開け放たれた窓から風が入り、机上の紙をかすかに揺らしている。承琰は話を聞きながら、隣へ目を向けた。
晟はいつものように、黙々と筆を動かしていた。
「晟、お前には友はいるのか?」
声を潜めて尋ねた。
何気ない問いだった。晟が自分のほかに誰と話し、誰と過ごしているのか、少し気になっただけだった。
晟の筆が止まった。しばらく考えたのち、彼は前を向いたまま答えた。
「友というものは、まだよくわからないが……お前が一番、それに近いのではないだろうか」
承琰は、返す言葉を失った。
晟は再び筆を動かし始めた。特別なことを言ったつもりもないらしく、その横顔はいつもと変わらなかった。
承琰だけが、しばらく彼を見つめていた。自分の声は届いていないのだと思っていた。何度話しかけても、共に稽古をしても、晟にとっては誰が隣にいても同じなのだと。
けれど、そうではなかった。胸の奥から、じわじわと嬉しさが込み上げた。
「……そうか」
それだけ答え、承琰も前を向いた。緩みそうになる口元を引き締め、手元の紙へ目を落とす。太傅の声は聞こえていた。だが、その言葉は少しも頭に入ってこなかった。
お前が一番、それに近い。
その日、承琰の頭の中では、晟の言葉だけが何度も繰り返されていた。
歳を重ねるにつれ、承琰は晟を取り巻く事情も理解するようになった。
先帝・劉靖謙と、現皇后・李令蓉の子。その出自が、どれほど残酷なものなのか。晟が生きている限り、劉安は警戒し続ける。先帝の血を旗印にしたい貴族たちは、彼の意志など尋ねず、その存在を利用しようとする。
承琰は一度、あの時に死んでいた方が、晟は苦しまなくて済んだのではないかと思ったことがある。そう考えた自分が恐ろしかった。隣に座る友に、生きていてほしい。それは疑いようのない願いだった。
けれど、この宮中で生き続けることが、晟に何を強いるのかも、わかり始めていた。周囲には、晟を恐れる者と、利用したい者ばかりがいた。彼自身を想う大人は、一人もいないように見えた。
だが、令蓉のことを考えると、承琰にはわからなくなった。泣いていた自分を抱き上げた人が、実の息子を愛していないとは思えなかった。それなのに、二人は遠かった。宴の席で顔を合わせても、母子らしい言葉を交わすことはほとんどない。晟も、令蓉へ何かを求めようとはしなかった。
ただ一度、承琰は見たことがあった。晟が退出した後も、令蓉がその去った扉を見つめているのを。
呼び止めることもなく、席を立つこともなく。
承琰は何も尋ねられなかった。自分が安らいだあの腕に、晟はどれほど抱かれたことがあるのだろう。そう思うと、胸の奥が痛んだ。
晟が十二歳になったばかりの頃、辺境へ送られることが決まった。まだ少年だった。それでも、誰も止めなかった。
出立の日、晟は甲冑をまとい、馬にまたがった。その馬が、承琰にはあまりにも大きく見えた。普段の稽古では強く見えた身体が、甲冑と軍馬の間では、まだ幼さを残していた。
承琰は、その背中を見送った。
生きて帰ってこい。
声に出せなかった言葉を、胸の内で繰り返した。軍が進み、晟の姿が小さくなる。やがて見えなくなっても、承琰はその場を動けなかった。
都へ吉報が届くようになったのは、それからだった。若き将軍・劉晟が山賊を討った。敵軍を退けた。国境を守り、民を救った。
その知らせを聞くたび、承琰は誇らしく思った。
同時に、安堵した。
生きている。あの少年は、今も前線で戦っている。
ならば、自分はここで役目を果たそうと思った。
晟が国境を守るのなら、自分は都を守る。彼が命を懸けて守った国を、宮中にいる者たちの欲で損なわせてはならない。そしていつか、晟が心穏やかに暮らせる景城にしたかった。
生まれた場所でありながら、彼はここで誰にも気を許せずに育った。帰還しても、待っているのは疑いの眼差しと、その力を利用しようとする者たちだった。いつの日か、甲冑を脱ぎ、何も警戒せずに休める場所を。
戦の報告をするためだけでなく、ただ帰りたいと思って帰ってこられる場所を。承琰は、この都に作りたかった。
幼い日に、晟は自分を友にもっとも近い存在だと言った。
その言葉を、今も覚えている。
次に帰ってきた時も、その先も、自分はここにいて彼を迎えよう。
晟には、この世界とのつながりがあるのだと、伝えられるように。
承琰は学び、朝廷の動きを見つめ、人の言葉の裏を読むことを覚えた。
憎しみを顔に出せば、父に気づかれる。焦りを見せれば、貴族たちにつけ込まれる。
穏やかに笑っている方が、見えるものは多かった。母のことも、父のことも、胸の奥へ押し込めた。扇子を広げ、その陰で表情を整えながら、皇太子として生きた。
いつか、自分がこの国を背負う日のために。民が安らかに暮らし、遠くで戦う友にも、帰る場所のある国にするために。やがて承琰は、その願いを守るため、自らの手で父・劉安を討つことになる。
幼い日に、ただ母の膝元で泣いていた少年は、もう誰かに抱き上げてもらうのを待つ子供ではなかった。




