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李令蓉という女

 李令蓉は、景都の名門貴族の家に生まれた。幼い頃から美しく、才にも恵まれていた。中でも得意としていたのは踊りだった。その舞は早くから評判となり、成長するにつれて「景都一の舞姫」と呼ばれるようになった。


 令蓉が初めて劉安と出会ったのは、十歳の時だった。当時の彼は、皇子の一人に過ぎなかった。母の身分が低いというだけで、皇宮では蔑まれていた。


 ある日、下女の子だと嘲られている劉安を見かけた。令蓉は、手にしていた手拭いを一枚、彼へ差し出した。

「……これを」

それだけだった。

親しくなったわけでも、その後に言葉を交わしたわけでもない。ただ、手拭いを一枚渡した。それだけの縁だった。


 十五歳になった時、令蓉は四十を目前にした皇帝・劉靖謙(りゅうせいけん)へ嫁いだ。政略結婚だった。貴族の娘が皇族へ嫁ぐことは、この国では珍しくない。令蓉も、自分はいずれそうなるものだと思っていた。


 靖謙とは大きく歳が離れていたが、彼は令蓉を大切にした。話をすれば耳を傾け、舞を見せれば嬉しそうに目を細めた。隣にいても身構える必要がなく、彼と過ごす時間は穏やかだった。恋を知る前に嫁いだ令蓉には、自分が彼へ抱く気持ちを、何と呼べばよいのか最後まで知らなかった。


 ただ、彼の子を宿したと知った時、心から嬉しかった。靖謙に似るだろうか。それとも、自分に似るだろうか。生まれたら、どのような顔で笑うのだろう。まだ見ぬ我が子を思うだけで、幸せだった。


 けれど、その時間は長く続かなかった。晟を産み落として、ほどなくして、靖謙は殺された。令蓉の目の前には、一人の男が立っていた。手には、夫を殺した剣。血に濡れた刃から、雫が落ちていた。かつて手拭いを差し出した少年の面影を、その顔に探すことはできなかった。令蓉は何もできなかった。ただ、腕の中の我が子を抱きしめた。


「……この子だけは、殺さないで」

それが、精一杯だった。


 晟は殺されなかった。だが、生まれたばかりの息子は、無慈悲にも彼女の腕から取り上げられた。令蓉は手を伸ばした。必死に伸ばした。産後の身体で立ち上がろうとしたが、膝が崩れる。彼女は奥歯を噛み締め、遠ざかる泣き声を追おうと地を這った。それでも、その指先は息子へは届かなかった。


 息子の泣き声が扉の向こうへ消えると、宮の中は恐ろしいほど静かな場所へ変わった。靖謙を失った彼女にとって、晟は唯一の希望だった。その子さえいなくなった宮で、令蓉は夜を迎えるたびに怯えた。眠りかけると、泣き声が聞こえた気がして目を覚ます。寝台の傍らを見ても、誰もいない。耳を澄ましても、聞こえるのは外を巡る足音だけだった。

 時には、自分に息子などいなかったのではないかと思うことさえあった。

靖謙と過ごした日々も、子を宿した喜びも、腕に抱いた温もりも。すべて、幻だったのではないか。けれど、衣の胸元には染みができていた。本来なら、晟が飲むはずだった乳だった。抱く子がいなくても、身体は母であることをやめてくれなかった。張る胸の痛みに耐えながら、令蓉は濡れた布を押さえた。

 息子を育てるはずのものが、ただ衣を汚していた。

宮女に着替えを勧められても、すぐには頷けなかった。その染みまで拭い去れば、ここに晟がいた証までなくなる気がした。


 やがて令蓉は、夫を殺した男の妻となった。


 劉安が近づくたび、吐き気がした。肩に触れる手を払いのけたかった。穏やかに名を呼ばれるたび、靖謙を返せと叫びたくなった。それでも、彼女は耐えるしかなかった。彼の機嫌一つで、晟の命がどうなるか。令蓉には、それがわかっていた。

 そんな彼女の些細な喜びは、劉安の目を盗み、息子の暮らす宮へ足を運ぶことだった。眠っていれば、その寝顔を見つめた。泣いていれば、そっと抱き上げた。小さな指が自分の指を握ると、それをほどいて帰ることが、どうしてもできなくなった。だが、その密かな訪れも、やがて劉安の知るところとなる。罰を受けたのは、令蓉ではなかった。晟への食事が、三日間、止められた。

 それを知った令蓉は、劉安の前に膝をついた。何度も詫び、もう二度と勝手に会いには行かないと誓った。自分を罰してほしかった。打たれても、閉じ込められてもよかった。だが劉安は、彼女が何にもっとも耐えられないのかを知っていた。会いたいと願ったために、息子が飢え、抱きしめに行った自分が、あの子を苦しめた。


 その日を境に、令蓉は晟の宮へ通うことをやめた。足を向けかけるたび、空腹に泣く息子の姿が浮かぶ。会わずにいることが、母としてできる唯一のことになった。


 その頃から、令蓉は毎晩のように劉安へ薬膳茶を届けるようになった。いつも同じ時刻に、同じ笑顔で。だがその茶には、不妊の薬を混ぜていた。

この男に、これ以上、子を増やさせてはいけない。

新たな皇子が生まれれば、いつか晟へ牙を向くかもしれない。靖謙の血を引くあの子を、邪魔に思う者が増えるかもしれない。

誰にも悟られてはならなかった。劉安が茶碗を持ち上げるたび、令蓉はその指先を見つめた。飲み干すまで、微笑みを崩さなかった。


※


 ある日、白妃の暮らす宮の前を通った時、令蓉の足が止まった。あの女の一族がいなければ、靖謙は死ななかった。押し殺していた憎しみが、濁流の如く胸を満たす。

皇后として咎める理由など、いくらでも作れる。難癖をつけ、命を奪うことさえできる。令蓉は、そのつもりで宮へ足を踏み入れた。

 しかし、そこにいたのは、正気を失った、哀れな女だった。辛うじて衣はまとっていたが、髪は乱れ、瞳は何も捉えていない。令蓉が近づいても顔を上げず、意味のつながらない言葉を繰り返していた。

 その膝元で、五歳ほどの幼子が泣いていた。

承琰だった。母の袖を引き、何度も呼びかけている。けれど、白妃はその声に応えなかった。

令蓉は立ち尽くした。

靖謙を失った憎しみが消えたわけではない。白妃の一族を許せるはずもなかった。それでも、目の前で泣く子を、そのままにしておくことはできなかった。

令蓉は身を屈め、承琰を抱き上げ

「大丈夫よ」

小さな身体が、彼女の衣にしがみついた。

「……大丈夫」

背を撫でながら、もう一度言った。自分の息子には、言ってやれない言葉だった。承琰の泣き声が弱まるまで、令蓉はその子を抱いていた。腕の中の重みが愛おしく、同時に、たまらなく苦しかった。晟は今、どれほど大きくなっただろう。あの子も、こんなふうに誰かへしがみつくのだろうか。

母を呼んで泣いたことが、あるのだろうか。


※


 息子に会えるのは、年に数度の宴だけだった。令蓉は席からその姿を探し、前に見た時との違いを数えた。少し背が伸びた。頬が細くなった。箸の持ち方が変わった。そうしたことからしか、成長を知ることができなかった。好きな食べ物も、眠る前の癖も知らない。熱を出した夜、誰に手を握ってもらったのかも知らなかった。

母でありながら、遠くから眺めるだけの女だった。悲しいという言葉では、到底足りなかった。

宴で晟と目が合えば、本当は微笑みたかった。駆け寄り、抱きしめたかった。だが、それらの衝動をすべて抑え込み、皇后として席に座り続ける。そんな彼女の隣には劉安がいた。


 晟が十二歳になったばかりの頃、辺境へ赴くことが決まる。

『皇族の務めだ』

 劉安はそのように言うが、令蓉にはその真意がわかっていた。当時の辺境には、山賊や他国から流れ着いた逃兵が多く、争いが絶えず、そこへ、たった数千の兵を与えて送り出す。

自分の手を汚さず、靖謙の息子を葬るつもりだと。

出立の日、晟はまだ声変わりもしていない子供だった。そんな幼い身体で、甲冑を支えていた。

令蓉は、喉までせり上がった言葉を呑み込む。

行かないで。たったそれだけが、言えなかった。ここに留めておけば安全だという保証もない。自分が引き止めたために、また息子が罰を受けるかもしれない。


 令蓉は、晟に従う兵の中へ密かに数人の間者を入れた。日々の様子を、些細なことまで知らせるよう命じた。せめて、物資には困らせたくなかった。食糧、薬、冬を越すための衣。劉安にも、晟自身にも知られぬよう、届けさせた。無事に届いたとの報告を受けると、令蓉はようやく息をつけた。

礼など、いらなかった。母が送ったものだと、知る必要もなかった。腹を満たし、傷を手当てし、寒さをしのいでくれれば、それでよかった。

 辺境へ旅立ってから、晟は数年に一度しか景都へ戻らなくなった。代わりに届くのは、年々増えてゆく功績だった。山賊を討った。敵軍を退けた。領民を救った。朝廷の者たちがその働きを称える傍らで、令蓉は報告の中に、負傷の文字がないかを探していた。

勝たなくてもいい。名を上げなくてもいい。生きていてくれれば、それだけでいい。


 けれど、功績が増すほど、劉安の眼差しが変わってゆくことにも気づいていた。息子が生き延びるために得た力が、また息子を危うくしていた。

数年ぶりに帰還した晟を見て、令蓉は言葉を失った。

知らない間に、声変わりをしていた。知らない間に、背が伸びていた。


 かつて見上げてきた子が、今は自分より高いところから、静かに挨拶をする。肩には厚みがあり、手には剣を握り続けた跡があった。

ふと、晟が傍らへ顔を向けた。その横顔に、令蓉は息を呑んだ。

通った鼻筋も、口元も。幼い頃には気づかなかった靖謙の面影が、そこにあった。遠い昔、隣に座っていた夫が、こちらを振り向こうとしているようだった。

思わず手が動いた。けれど、晟が再びこちらを向くより先に、令蓉はその手を袖の中へ戻した。

 靖謙に似てきたのね。

そう伝えるだけのことが、できなかった。口にすれば、長く堪えてきたものまで溢れてしまいそうだった。その面影が愛おしかった。同時に、これほど父に似た息子を、劉安がどのような目で見るのかと思うと、胸が冷えた。

傷のある手を取り、よく帰ってきたと伝えたかった。けれど、目の前の息子との間には、母子で過ごせなかった歳月が横たわる。


 何を話せばよいのか、わからなかった。


 息子を守るために離れていた。そのはずだった。それでも、晟が母を必要とした時に、自分が傍らにいなかったことは変わらない。

あの子は、誰にも頼らず生きることを覚えてしまったのではないか。寂しい時に母を呼ぶことさえ、知らないのではないか。

 令蓉は微笑んだ。涙を見せて、晟を困らせるわけにはいかなかった。

そして、その夜も劉安のもとへ茶を運んだ。

笑顔を見せ、穏やかに話し、妻を演じる。


 二十年もの間。


 抱きしめられなかった夜も、帰りを待ち続けた冬も。息子の声を思い出そうとして、幼い頃の声しか浮かばなかった日も。

令蓉は、茶を運び続けた。

たった一人の息子を、生かすために。


 そして今日。

我が子を腕から奪われたあの日から、押し殺してきた憎しみと覚悟を込めた刃が――ついに、劉安へ届いた。

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