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皇太子の憂い

景都。


 承琰の府邸。


 承琰は一人、卓の前に座っていた。


 手には、先日手に入れたばかりの白檀の扇子。


 ぱた。


 扇子を開く。


 上質な白檀から、ほのかな香りが漂う。


 いつもなら、それだけで機嫌よく眺めていられる。


 けれど今日は――


 どうにも気が晴れなかった。


 先代皇帝派。


 最近の動きが、妙に活発になっている。


 今まで、こんなことはなかった。


 多少の動きが見られることはあった。


 誰かが集まっている。


 誰かが密かに連絡を取っている。


 そんな小さな動きなら、これまでにも何度かあった。


 けれど――


 それが、具体的な行動へ移されることはなかった。


 長年、その動きを監視してきた承琰には分かる。


 今回の動きは、明らかに違う。


 誰かが、入れ知恵をしている。


 承琰は扇子を眺めた。


 皇太子となってから、承琰は父・劉安に代わり、景国の危険人物や、その一派を監視してきた。


 表ではいつものように笑っている。


 扇子を仰ぎ。


 冗談を言い。


 何も考えていないように振る舞う。


 けれど、その裏では。


 誰が誰と繋がっているのか。


 誰が何を企んでいるのか。


 長い年月をかけて、少しずつ把握してきた。


 だからこそ――


 今の状況には、言葉にできない不安があった。


「……妙だな」


 小さく呟く。


 この景都で。


 自分が把握しきれていない何かが、起ころうとしている。


 そして、おそらく――


 それは自分と劉晟を巻き込む。


 下手をすれば、景国そのものを揺るがすことになるかもしれない。


 承琰は扇子を閉じた。


 ぱちん。


 乾いた音が、静かな部屋に響く。


「父上は……どこまで把握しているのかな」


 しばらく考える。


 けれど、すぐに小さく首を横に振った。


「あの人のことだ」


 承琰の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。


「把握しているに決まっている」


 問題は――


 把握した上で、あえて何もしていないのか。


「……泳がせている?」


 もし、そうだとしたら。


 その理由は一つしかない。


「一斉に摘発するため……なのかな」


 そう呟いたものの。


 承琰の表情から、再び笑みが消えた。


 父――劉安。


 このまま父を皇位に居させるのが、一番無難なのだろう。


 皇帝を変えるということは、国そのものを揺るがす。


 ましてや、自分が父を退けるような真似をすれば、必ず国内に混乱が起こる。


 だから。


 何もせず、父が皇位に居続けることが最も穏当なのかもしれない。


 けれど――


「あの劉安は、皇帝に相応しい男じゃない」


 承琰の目が、冷たくなる。


 民の命を、なんとも思っていない。


 劉晟の命でさえも。


 あの男にとっては、皇位を守るための駒に過ぎない。


 そして――


 あの東州屠城にも、父は一枚噛んでいる。


 直接手を下したわけではない。


 けれど、あの惨劇を利用し、劉晟に悪名を着させた。


「……劉晟は」


 承琰は、静かに名を口にする。


 幼い頃から、戦場へ送られた皇族。


 景国のために、命を削るように戦い続けてきた。


 まだ若い。


 それなのに、誰よりも長く戦場に立ち。


 傷を負い。


 何度も死の淵を越えてきた。


 それでも劉晟は、景国のために矛を握り続けている。


 そんな彼を――


 ただ皇位を守るためだけに、殺させるわけにはいかない。


 承琰の指が、扇子の骨を強く握る。


「……そんなことをしたら」


 低く呟く。


「景国のためにもならない」


 それは皇太子としての判断だった。


 劉晟は景国にとって必要な男だ。


 国境を守り。


 幾度も敵軍を退け。


 自らの命を削って、国を支えてきた。


 そんな男を失えば――


 失うのは、一人の命だけではない。


 景国そのものが、大きなものを失う。


 だから。


 父の命令に従い続けることはできない。


 承琰はゆっくりと目を伏せた。


「……父上」


 その声には、僅かな苦しさが滲んでいた。


「私は、劉晟を殺させるために皇太子になったわけじゃない」


 そして――


 承琰の目が、再び冷たくなる。


「その前に、私が貴方を皇位から下す」


 それができなければ。


 劉晟を守ることもできない。


 景国を守ることもできない。


 承琰は、ゆっくりと扇子を開いた。


 ぱた。


 いつもの軽い音。


 いつもの仕草。


 けれど――


 その胸の内には、もう迷いはなかった。


 父を皇位から下ろす。


 劉晟を守るために。


 そして――


 景国を守るために。

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