身分を越えて
明珠との一件を終え、劉晟と瑶月は並んで回廊を歩いていた。
瑶月の頬は、先ほど叩かれたせいで少し腫れている。
けれど本人は、それを気にする様子もなく、何食わぬ顔で歩いている。
劉晟は、そんな瑶月を横目で見つめる。
貴族が、立場の弱い者を憂さ晴らしに使うことは、決して珍しいことではない。
使用人や下級の者が、理不尽に叱責されることもある。
劉晟自身、それを知らないわけではなかった。
頭では分かっている。
それでも――
先ほど、瑶月の頬を叩いた明珠の姿を思い出すと、腹の底から苛立ちが込み上げてくる。
劉晟の手が、無意識に瑶月へ伸びた。
腫れた頬に触れようとする。
けれど――
指先が届く寸前で、止まった。
触れてはいけない。
そんな気がした。
なぜそう思ったのか、自分でも分からない。
劉晟はゆっくりと手を下ろした。
代わりに、低い声で尋ねる。
「……痛むか?」
瑶月は少しだけ考えるようにしてから、首を横に振った。
「思ったよりも、痛くないわ」
「そうか」
短い返事。
二人は再び歩き始める。
けれど、瑶月はどこか遠くを見つめていた。
その横顔を見ながら、劉晟は思う。
かつての瑶月は――
朔国東部に名を知られた沈家の令嬢だった。
名家の一人娘。
将軍の娘。
そして、王太子の妃候補。
本来ならば。
たとえ一国の姫であろうと、あのように人前で頬を打たれるような立場ではなかったはずだ。
誰も、彼女を粗末には扱えなかった。
けれど今は――
家族も。
家も。
身分も。
すべて失っている。
今の彼女を守るものは、何もない。
その現実を思うほど、劉晟の胸の奥が重くなる。
「……」
劉晟は何も言わなかった。
ただ、唇を固く結んだ。
自分がもっと早く来ていれば。
そんな考えが、一瞬だけ脳裏をよぎる。
けれど、それを口にすることはなかった。
隣を歩く瑶月は、いつもと変わらない顔をしている。
だからこそ――
その頬に残る赤みが、ひどく痛々しく見えた。
「庶民の私が……このまま晟王府にお世話になっていて、いいのかしら」
藪から棒に、瑶月が口を開いた。
先ほどからどこか遠くを見つめていた彼女が、突然そんなことを言い出した。
「……」
劉晟は僅かに眉を寄せる。
なぜ急にそんなことを言うのだろう。
まさか――
明珠に、何か言われたのか。
そう思ったが、劉晟は何も尋ねなかった。
いつも通りの落ち着いた声で答える。
「俺が連れてきたんだ。いいに決まっている」
「けれど……私は庶民よ」
瑶月は少し俯いた。
「身分が――」
「なら、ちょうどいい」
「……?」
瑶月が顔を上げる。
劉晟は、至極真面目な顔で言った。
「庶民令嬢と、国へ身売りされた皇族だ」
「…………」
「身分の釣り合いは、悪くないだろう」
「……ふふっ」
一瞬、瑶月は言葉を失った。
それから堪えきれなくなったように、口元を押さえる。
「何、それ……」
肩が小さく揺れる。
劉晟は相変わらず真顔だった。
「事実だ」
「そこを真顔で言うの?」
「他に何と言えばいい」
「ふふ……」
瑶月はとうとう笑ってしまった。
先ほどまで胸の奥にあった重苦しさが、少しだけほどけていく。
「……そうね」
瑶月は笑みを残したまま、前を向いた。
「貴方がそう言うのであれば……そうだわ」
そして、また歩き出す。
劉晟もその隣へ並んだ。
しばらく歩いてから、瑶月がぽつりと呟く。
「でも……『身売りされた皇族』って、ちょっと可哀想ね」
「……」
劉晟の眉が、ほんの僅かに動いた。
「承琰殿下もうまいこと言ったものね」
「文才の無駄使いだ」
「そうね」
瑶月がまた、ふふっと笑う。
その笑顔を見て、劉晟は何も言わなかった。
ただ――
先ほどまで険しかった表情が、ほんの僅かに和らいでいた。




