その瞳の先
令蓉と慕容との茶会を終えた瑶月は、急ぎ晟王府へ戻るため、景国城内を歩いていた。
春の風が、長い廊下を静かに吹き抜けている。
その時だった。
前方から、一人の少女が歩いてくる。
「……明珠姫」
瑶月は足を止めた。
朔国から来た一行は、景国城内に用意された客人離宮に滞在している。
その一国の姫が、今、目の前にいる。
瑶月はすぐに道を開け、脇へ寄った。
そして、深く頭を下げる。
「明珠姫」
明珠は答えなかった。
ただ、瑶月の横を通り過ぎようとする。
その瞬間――
ちらりと瑶月を一瞥した。
そして、足を止める。
「……貴女」
「はい」
「随分と、景国で好き勝手に過ごしているのね」
瑶月は顔を上げた。
「……?」
「一国の王太子を誑かしたかと思えば、今度は景国の皇族にまで取り入って」
「……」
「自分が何者なのか、分かっているの?」
明珠の声には、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。
瑶月は何も言わない。
ただ、静かに聞いている。
「貴女は庶民でしょう?」
「……はい」
「それなのに、皇后陛下と茶を共にするなんて」
明珠の眉が寄る。
「身の程をわきまえたらどう?」
それでも。
瑶月は反論しなかった。
怒ることも。
言い返すことも。
ただ静かに、明珠の言葉を受け止めている。
その態度が――
明珠には、ひどく癇に障った。
「……何なの、その顔」
瑶月は答えない。
「何を言われても、そうやって澄ました顔をして……」
次の瞬間。
明珠の手が上がった。
――パチン。
乾いた音が、静かな廊下に響いた。
瑶月の顔が、僅かに横へ向く。
頬に、じわりと赤い跡が浮かんだ。
「……」
瑶月は何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと顔を戻す。
その静かな瞳を見た明珠の胸に、さらに激しい苛立ちが込み上げる。
「……その顔、本当に腹が立つわ」
そして――
再び、手が振り上げられた。
――パチン。
二度目の乾いた音が、廊下に響いた。
瑶月の頬が、再び横へ向く。
けれど。
今度は、その痛みよりも――
「貴女、自分が滄燼さまの横にいる資格があると思っているの?」
その言葉の方が、強く胸に突き刺さった。
「……」
瑶月は何も答えなかった。
ただ、その一言だけが――
やけに頭の中に響いていた。
滄燼の隣にいる資格。
そんなことを、考えたことなどなかった。
けれど。
その言葉を聞いた瞬間、否応なく自分自身に問いかけてしまう。
――自分は、庶民だ。
そして、劉晟は皇族。
景国を君臨する一族の血を引く、皇族の一人。
身分も。
取り巻く環境も。
何もかもが違う。
そんな二人が、肩を並べて歩くことなど――
許されるのだろうか。
瑶月は、胸の奥が静かに痛むのを感じた。
これまで、考えないようにしていた。
劉晟の隣にいることが自然になりすぎていて。
彼の腕を治療し。
共に城下を歩き。
同じ食卓を囲み。
時には、くだらないことで笑い合った。
それが、いつの間にか当たり前になっていた。
けれど――
当たり前だと思っていたその時間は、身分という現実の前では、あまりにも脆い。
瑶月はゆっくりと目を伏せる。
頬の痛みなど、もう感じていなかった。
ただ。
明珠の言葉だけが、何度も何度も頭の中で繰り返されていた。
――自分が、滄燼の隣にいる資格があると思っているのか。
その問いに。
瑶月は、答えを見つけられなかった。
表情一つ変えない瑶月を前に、明珠の苛立ちはさらに募った。
「……本当に、腹が立つわ」
再び、手を振り上げる。
その時だった。
「――何をしている」
背後から伸びてきた手が、明珠の手首を掴んだ。
「……!」
明珠が振り返る。
そこに立っていたのは――
劉晟だった。
瑶月を迎えに来たのだろう。
その表情は、いつもの無表情よりもさらに冷たかった。
「滄燼……さま?」
明珠の声が僅かに震える。
劉晟は答えない。
ただ、掴んでいた明珠の手を静かに瑶月から離した。
そして――
瑶月の前へ立つ。
まるで、彼女を庇うように。
「……」
明珠は、何が起きたのか理解できなかった。
自分は一国の姫。
目の前の女は、ただの庶民。
なのに。
なぜ、この男は――
この女を守るの?
その時。
「明珠!」
遠くから声が響いた。
騒ぎを聞きつけた長淵が、こちらへ駆けてくる。
「兄様……」
明珠が振り返る。
長淵は彼らの前まで来ると、周囲の様子を一度見渡した。
瑶月の赤くなった頬。
明珠。
そして、その前に立つ劉晟。
何が起きたのか。
すべてを理解するのに、時間はかからなかった。
「……何があったのかは知らないが」
長淵は明珠へ目を向ける。
「手を上げたことには、謝りなさい」
「……」
明珠は不服そうに兄を見上げた。
「どうして私が――」
「明珠」
長淵の声が低くなる。
明珠は唇を噛んだ。
けれど、謝ろうとはしない。
その時。
「長淵さま」
瑶月が、劉晟の横から静かに出てきた。
「大丈夫です」
そう言って、微笑む。
長淵は瑶月を見つめた。
「瑶月……」
「本当に大丈夫です」
瑶月はもう一度、穏やかに笑った。
そして、明珠へも一礼する。
「明珠さま、お先に失礼します」
そう言うと――
瑶月は劉晟の袖をそっと掴んだ。
「行きましょう」
「ああ」
劉晟は短く答える。
二人はそのまま並んで歩き出した。
残された明珠は、遠ざかっていく二人の背中を見つめていた。
自分の前に立っていた時とは違う。
劉晟の表情が、ほんの僅かに柔らかく見えた。
「……」
明珠の胸の奥が、また熱くなる。
悔しい。
腹立たしい。
そして――
分からない。
「……なんなのよ」
その呟きだけが、誰もいなくなった廊下に残った。




