其々の思い
一行は、承琰に腕を引かれ、大殿を去っていく明珠の背中を見届けていた。
長淵は、この場をどう収めるべきか必死に考えていた。
先ほどの明珠の発言は、あまりにも不用意だった。
このままでは、朔国が劉晟との婚姻を望んでいると受け取られかねない。
「陛下、妹はまだ幼く、物事の重大さを理解して――」
「物事を理解していないのであれば、連れて帰れば良い」
長淵の言葉を遮るように、劉安が言った。
その声には、明らかな圧があった。
長淵は言葉を失う。
劉安は、ゆっくりと劉晟へ視線を向けた。
劉晟は何事もなかったかのように、盃を口へ運んでいる。
「晟よ」
劉安が静かに呼びかける。
「そなたは、どう思うか?」
あまりにも曖昧な問いだった。
けれど、劉晟には、その意味が分かっていた。
先代皇帝の子である自分が、一国の姫を娶る。
それだけで、周囲は様々な思惑を抱くだろう。
もし、自分を担ぎ上げようとする者が現れれば――
また皇位を巡る争いが起こる。
その争いに巻き込まれるのは、皇族だけではない。
戦が起きれば、最も大きな犠牲を払うのは民だ。
劉晟は、長年それを見てきた。
国境で敵と戦い。
傷ついた兵を見送り。
戦によって家族を失った民を、何度も見てきた。
だからこそ。
自分を巡って、国内に再び戦乱を起こすことだけは――
絶対に避けなければならなかった。
劉晟は、長い沈黙の後、静かに盃を置いた。
「私は、長年辺境にいる武人です」
淡々とした声だった。
「誰かと生涯を共にするなど、考えたことがありません」
その言葉を口にした瞬間。
脳裏に、瑶月の姿が浮かんだ。
白い衣を纏い、琴を奏でていた姿。
東州の街を歩きながら、嬉しそうに笑っていた姿。
医館で、誰よりも懸命に民を救っていた姿。
そして――
自分の隣で、穏やかに笑う姿。
一瞬だけ。
この先も、そんな時間が続けばいいと思った。
けれど、その思いを胸の奥へ押し込める。
自分一人の望みと、国と民の安寧。
比べるまでもなかった。
もし自分の存在が、再び国内の争いを生むのなら。
その争いによって、罪のない民が傷つくのなら。
自分の未来など、捨てればいい。
劉晟は、静かに顔を上げた。
「兄上がお望みになるのであれば――」
一呼吸。
「ここで約束いたしましょう」
大殿が静まり返る。
「生涯、誰も娶らず」
その声に迷いはなかった。
「子孫も残さないことを」
瑶月の胸が、僅かに締めつけられた。
この約束が、彼自身のためではないことは分かっている。
劉晟は、国を守るために。
民を守るために。
自分自身の人生を差し出したのだ。
それでも――
その言葉を聞いた瞬間、瑶月は思ってしまった。
この人はもう――
誰かと共に生きる未来を、自ら閉ざしてしまったのだと。
劉晟は、再び盃を手に取った。
その横顔は、いつもと変わらない。
けれど瑶月には――
その静けさが、ひどく寂しいものに見えた。
「……不快だわ」
静かな声が、大殿に落ちた。
皇后・李令蓉だった。
令蓉は、先ほど明珠が去っていった方へ一度だけ目を向ける。
「昔も今も、女を政の道具にするなんて」
淡々とした声。
けれど、その言葉には重みがあった。
令蓉自身、かつて先代皇帝の側室としてこの宮へ嫁いだ。
望んだ婚姻ではなかった。
自らの意思とは関係なく、政のために嫁がされた。
だからこそ――
今、目の前で同じように女が政の駒にされようとしていることが、許せなかった。
令蓉は、ゆっくりと劉晟へ視線を向ける。
「晟よ」
「はい」
その声は、どこまでも皇后としてのものだった。
「其方には、この景国の尊き皇族の血が流れています」
劉晟は黙って令蓉を見る。
「その血を絶やさないことも、皇族として生まれた其方の責務です」
「……」
その言葉の奥にあるものを、劉晟は知らない。
令蓉の瞳にも、母としての感情は浮かんでいない。
ただ、皇后として息子に責務を説いている。
それだけにしか見えなかった。
令蓉は、隣に座る劉安へ視線を移す。
「陛下」
一呼吸。
「そうでしょう?」
劉安は、しばし令蓉を見つめた。
やがて――
「ああ」
短く答える。
「皇后の言うとおりだ」
令蓉は、それ以上何も言わなかった。
ただ静かに前を向く。
その横顔からは、何の感情も読み取れない。
けれど――
誰にも悟られない胸の奥で。
母として、ただ一つだけ願っていた。
この子には、生きていてほしい。
国のために死ぬ必要などない。
自分の人生まで捨てる必要などない。
どうか、自分の人生を生きてほしい。
けれど、その願いを口にすることはできない。
それを知られれば――
劉安に利用される。
だから令蓉は、母ではなく皇后として語るしかなかった。
大殿には、再び静かな楽の音が流れ始めた。




