⑨ 持ち主のいない傘
これは、駅の忘れ物取扱所で働いていた頃の話です。
今から十年ほど前になります。
私は鉄道会社の社員ではなく、駅業務を請け負う会社から派遣されていました。改札での案内や清掃の補助、落とし物の受付などを担当していたんです。
駅で最も多い忘れ物は、やはり傘でした。
雨の日はもちろんですが、朝に雨が降って午後から晴れた日も、かなりの数が残されます。
透明なビニール傘などは、どれも同じに見えます。
持ち主が現れたとしても、本当にその人のものなのか確認するのは簡単ではありません。
私たちは、落とした場所や時間、持ち手の傷、傘に貼られたシールなどを尋ね、できる範囲で本人のものか判断していました。
それでも引き取り手のない傘は、保管期限を過ぎるとまとめて処分されます。
その傘が最初に届けられたのは、六月の終わり頃でした。
前日から強い雨が降っていて、朝の忘れ物置き場には二十本以上の傘が並んでいました。
その中の一本です。
透明なビニール傘で、特に目立つ特徴はありません。
ただ、持ち手の部分に細い灰色の布が結ばれていました。
ハンカチを裂いたような布です。
傘を届けてくれたのは、清掃員の方でした。
始発前、ホームのベンチの下に落ちていたそうです。
傘は濡れていました。
前夜から雨が続いていたので、それ自体は不思議ではありません。
私は簡単な特徴を記録し、ほかの傘と一緒に保管場所へ移しました。
その日の昼過ぎ、一人の女性が窓口へ来ました。
三十代くらいだったと思います。
灰色のコートを着ていました。
梅雨とはいえ蒸し暑い日でしたので、少し季節外れに感じました。
女性は、
「傘を忘れました」
と言いました。
透明な傘で、持ち手に灰色の布を結んでいる。
届けられた傘の特徴と一致しています。
どこで忘れたのか尋ねると、
「駅の近くです」
と答えました。
駅の中か、電車の中か、それとも駅前なのか。
もう少し詳しく尋ねましたが、女性は困ったような顔をしました。
「帰る途中でした」
それ以上、はっきりしたことは言いませんでした。
特徴は合っていますし、同じような傘がほかになかったため、私は返却することにしました。
受取書へ名前と連絡先を書いてもらおうとすると、女性はしばらくペンを持ったまま動きませんでした。
「どうされましたか?」
声をかけると、
「今の住所でいいんでしょうか」
と聞かれました。
何を言っているのか分かりませんでした。
「現在お住まいの住所でお願いします」
そう答えると、女性は住所を書き始めました。
途中まで書いたところで手を止め、線を引いて消しました。
その下に別の住所を書きました。
そこにも線を引き、三つ目の住所を書きました。
結局、最初に書いたものとは違う住所を残しました。
連絡先の電話番号は空欄でした。
本来なら確認するべきでしたが、後ろにほかのお客さんが待っていたため、それ以上は聞きませんでした。
女性は傘を受け取ると、
「これで帰れます」
と言いました。
それから何度も頭を下げ、改札のほうへ歩いていきました。
少し変わった人だとは思いました。
ただ、駅には毎日いろいろな人が来ます。
その程度のことは、すぐに忘れました。
翌朝。
始発前のホームから、透明な傘が届けられました。
持ち手に、灰色の布が結ばれています。
前日に女性へ返したものと同じ傘でした。
清掃員の方によると、前日と同じベンチの下に落ちていたそうです。
女性がまた忘れたのだと思いました。
受取書に住所が残っていたため、連絡を取ろうとしましたが、電話番号はありません。
住所を調べても、該当する番地が見つかりませんでした。
町名までは実在しています。
しかし、女性が書いた番地だけが存在しないんです。
私は記入を間違えたのだろうと思い、傘を再び保管しました。
その日の夕方、また同じ女性が来ました。
服装も前日と同じです。
灰色のコート。
濡れたように見える長い髪。
ですが、外は朝から晴れていました。
「傘が届いていませんか」
女性はそう尋ねました。
私は昨日返したばかりだと伝えました。
「また忘れてしまったんです」
女性は申し訳なさそうに笑いました。
「帰れましたか」
なぜそんなことを聞いたのか、自分でも分かりません。
前日に女性が言った言葉を思い出したからだと思います。
女性は少し考えたあと、
「途中までは」
と答えました。
私は傘を返しました。
受取書には、前日と違う住所を書いていました。
今度は実在する住所でした。
駅から車で二十分ほど離れた住宅街です。
ただ、女性は最後の番地を書き終える前に、また手を止めました。
「ここには、まだ住んでいる人がいますか」
私に尋ねられても分かりません。
「ご自宅ではないんですか」
女性は返事をしませんでした。
傘だけを受け取り、改札へ向かいました。
その後ろ姿を見ているうちに、私は妙な気分になりました。
以前にも同じ場面を見たような気がしたんです。
灰色のコートを着た女性。
透明な傘。
改札前で立ち止まり、どちらへ行けばいいのか迷うように周囲を見る姿。
けれど、会ったのは前日が初めてです。
それより前に見かけた記憶はありませんでした。
三日目の朝。
同じ傘が、また届きました。
場所も同じです。
ホームの端にあるベンチの下。
今度は、傘の内側に紙が挟まっていました。
古いタクシーの領収書でした。
日付は印字が薄くなっていて、はっきり読めません。
乗車地は、私が働いていた駅の近く。
降車地には、前日女性が受取書へ書いた住所が記載されていました。
料金は、駅からその住所までなら不自然ではない金額です。
ただし、領収書を発行したタクシー会社は、かなり前に廃業していました。
私が子どもの頃には、すでに別の会社になっていたはずです。
古い領収書を女性が傘の中へ入れたのだろう。
そのときは、そう考えました。
女性が来たら領収書について尋ねようと思いました。
ですが、その日は現れませんでした。
翌日も、その次の日も来ません。
一週間が過ぎても、傘は引き取られないままでした。
私は少し安心していました。
また来たら、今度こそ詳しく事情を聞かなければならない。
そんなふうに考えていたからです。
ところが十日ほどたった頃、男性が窓口へ来ました。
年配の方でした。
「傘を探している」
と言いました。
透明なビニール傘。
持ち手には灰色の布。
特徴は一致しています。
私は落とした場所と時刻を尋ねました。
男性は、
「ずいぶん前です」
と答えました。
「いつ頃でしょうか」
「妻がいなくなった日です」
私は返事に困りました。
男性によると、妻は十数年前、家を出たまま行方が分からなくなったそうです。
家を出るとき、透明な傘を持っていた。
持ち手には、娘の古い制服から切り取った灰色の布を結んでいた。
似た傘が駅にあると聞き、確認しに来たと言いました。
誰から聞いたのか尋ねましたが、男性は答えませんでした。
私は保管していた傘を見せました。
男性は手に取ると、長い間黙っていました。
「妻のものですか」
そう尋ねると、
「分かりません」
と答えました。
「でも、これは私が結んだ布です」
傘を持ち帰るか尋ねました。
男性は首を横に振りました。
「妻のものなら、私は受け取れません」
「なぜですか」
男性は傘から手を離しました。
「これは、帰るための傘ですから」
以前、女性から聞いた言葉とよく似ていました。
男性は窓口を離れる前に、私へ一枚の写真を見せました。
古い家の前で、女性と幼い女の子が並んでいる写真でした。
女性は若い頃の妻だと言います。
その顔を見た瞬間、私は驚きました。
駅へ傘を取りに来た、灰色のコートの女性でした。
年齢はほとんど変わっていませんでした。
十数年前の写真なら、現在はもっと年を取っているはずです。
それでも私は、写真の女性と傘を受け取りに来た女性が同じ人だと思いました。
男性は写真をしまいました。
「もしまた来たら、何も聞かずに渡してください」
「警察へ連絡しなくていいんですか」
男性は少し悲しそうに笑いました。
「もう何度もしました」
それだけ言って帰っていきました。
私は上司へ相談しました。
行方不明者に関係する可能性があるため、警察へ届けたほうがいいのではないかと話しました。
警察へはすでに落とし物として報告していましたが、古い失踪事件との関係までは伝えていません。
上司は、まず男性の話が本当か確認すると言いました。
しかし、男性が窓口へ来た記録は残っていませんでした。
受取所の前には防犯カメラがあります。
映像を確認すると、私は確かに誰かと話していました。
傘を取り出し、相手へ見せています。
けれど、窓口の向こうには誰も映っていません。
写真を見せられた場面でも、私は何もない場所を見下ろしていました。
その映像を見たとき、私は初めて本気で怖くなりました。
女性のときは、カメラを確認していません。
記録が一定期間で消えるため、もう映像は残っていませんでした。
受取書には女性の筆跡がありました。
だから、実際に来たのだと思っていました。
ところが筆跡を調べてもらうと、三枚の受取書はすべて違う人が書いたように見えると言われました。
文字の大きさも、癖も一致していない。
私には、同じ女性が目の前で書いたようにしか見えませんでした。
傘は警察へ渡すことになりました。
私はそれで終わったと思いました。
それから一か月ほど、同じ傘が駅へ届くことはありませんでした。
灰色のコートの女性も来ません。
少しずつ、気持ちも落ち着いていきました。
八月に入った頃です。
遅番を終え、駅から帰ろうとしていると、急に雨が降り始めました。
天気予報では雨になるとは言っていませんでした。
傘を持っていなかったため、しばらく駅の入口で様子を見ることにしました。
そこへ、タクシーが一台停まりました。
後部座席から、灰色のコートを着た女性が降りてきました。
季節外れの服装。
濡れた長い髪。
私はすぐ、あの女性だと分かりました。
女性は料金を払おうとしましたが、運転手が何かを言って手を振りました。
その様子を見ているうちに、また既視感がありました。
前にも、この女性がタクシーを降りるところを見たことがある。
そんな気がしました。
けれど、どこで見たのかは思い出せません。
女性は駅の入口まで来ると、私に気づきました。
「傘は届いていますか」
私は、警察へ渡したと答えました。
女性は残念そうな顔をしました。
「ないと帰れないんです」
「どちらへ帰るんですか」
今回は、はっきり聞きました。
女性は駅の外を振り返りました。
「前の家です」
「住所を教えてください」
女性は、最初に受取書へ書いた住所を答えました。
存在しない番地です。
私は警察へ連絡しようとしました。
すると女性が、
「もう一度、探してもらえませんか」
と頼みました。
「こちらにはありません」
「昨日、ここに置いてきました」
女性は駅の中を指さしました。
私は言葉を失いました。
傘が警察へ渡されたのは、一か月前です。
女性はその間、来ていません。
「昨日ではありません」
そう答えると、女性は困ったように首をかしげました。
「では、今日はいつですか」
私は日付を伝えました。
女性の表情が消えました。
しばらくして、
「また違う日なんですね」
とつぶやきました。
そのとき、駅前に停まっていたタクシーがクラクションを鳴らしました。
女性は振り返りました。
運転手が窓から顔を出し、こちらへ手を振っています。
早く戻るよう呼んでいるようでした。
「運転手さんが待っていますよ」
私が言うと、女性は首を横に振りました。
「あの車には戻れません」
「なぜですか」
「私がもう乗っているからです」
駅前のタクシーを見ました。
後部座席には、誰もいないように見えました。
ただ、雨でガラスが曇り、中まではよく見えません。
女性は改札のほうへ歩き始めました。
「どこへ行くんですか」
呼び止めると、
「傘を探します」
と答えました。
その日は終電後で、改札は閉鎖されています。
女性は閉じたシャッターの前まで進みました。
その瞬間、駅の照明が一度だけ消えました。
停電は、ほんの一秒ほどだったと思います。
明かりが戻ると、女性はいなくなっていました。
閉じた改札を通れるはずはありません。
駅の外にも姿はありませんでした。
タクシーも消えていました。
翌朝。
始発前のホームから、透明な傘が届けられました。
持ち手には、灰色の布。
警察へ渡したものと同じ傘でした。
傘の内側には、タクシーの領収書が挟まっていました。
以前見たものとは違う、新しい領収書です。
乗車日は、前日の夜。
乗車地は駅前。
降車地には、私の自宅の住所が印字されていました。
その日の朝、私はすぐに自宅へ電話しました。
夫が出ました。
何か変わったことはなかったか尋ねると、玄関に知らない傘が置かれていると言いました。
透明なビニール傘。
持ち手に灰色の布が結ばれている。
私が駅で見ている傘と、同じ特徴でした。
二本あるのかもしれない。
似た傘なのかもしれない。
そう思おうとしました。
しかし、夫は続けて言いました。
「傘の下に、古い写真があった」
写真には、家の前に立つ女性と女の子が写っていたそうです。
家は私たちの家ではありません。
それなのに、写真の裏には、私の住所が書かれていました。
その下に、
「今度は、ここから帰ります」
と書かれていたそうです。
私はその日のうちに仕事を休み、自宅へ戻りました。
玄関に傘はありませんでした。
夫は確かに見たと言いました。
写真も見つかりません。
家の防犯カメラを確認しましたが、誰かが傘を置く場面は映っていませんでした。
ただ、午前一時頃から二十分ほど、映像が乱れていました。
画面が正常に戻る直前、一人の女性が玄関の前に立っていました。
灰色のコートを着ています。
女性は家の中ではなく、道路のほうを見ていました。
その先に、タクシーが停まっていました。
運転席には誰もいません。
後部座席には、女性が一人座っていました。
玄関前にいる女性と、同じ顔でした。
映像の中で、玄関前の女性が車へ近づきました。
後部座席の扉を開けます。
中にいる女性は動きません。
玄関前の女性は、その隣へ座りました。
扉が閉まりました。
運転手のいないタクシーは、そのまま画面の外へ走り去りました。
私は、それから間もなく仕事を辞めました。
自宅も引っ越しました。
今住んでいる場所は、当時の駅からかなり離れています。
あの傘がどうなったのかは知りません。
駅から警察へ渡されたのか。
また誰かが取りに来たのか。
確認する気にはなれませんでした。
今でも、駅や店で透明な傘を見ると、持ち手を確認してしまいます。
灰色の布が結ばれていないか。
濡れていないはずの日に、雨水が垂れていないか。
先日、近所のスーパーへ行ったときのことです。
外は晴れていました。
傘立てには一本だけ、透明な傘が入っていました。
持ち手には、何も結ばれていません。
私は安心して、その横を通りました。
買い物を終えて店を出ると、傘はなくなっていました。
その代わり、駐車場に灰色のコートを着た女性が立っていました。
女性は一台のタクシーへ乗り込むところでした。
扉を閉める前に、こちらを見ました。
そして、口の動きだけで言いました。
「傘を預かっていてください」
その夜、自宅の玄関で物音がしました。
扉を開けましたが、誰もいません。
足元には、透明なビニール傘が置かれていました。
持ち手には、灰色の布。
傘の先から、雨水が落ちていました。
外は晴れていました。
私はまだ、その傘を捨てられずにいます。
捨てても、駅へ届けても、きっとまた戻ってくる。
それよりも怖いのは、
あの女性が傘を取りに来るとき、
今度はどの家を自分の帰る場所だと思っているのか。
そのことです。




