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⑧ 帰り道を知っている客

これは、私がタクシー運転手をしていた頃の話です。

もう十五年近く前になります。


当時は夜勤が中心で、夕方に営業所を出て、翌朝まで市内や郊外を走っていました。

酔った人を乗せることも多く、目的地を何度聞いても答えてくれなかったり、途中で眠ってしまったりすることは珍しくありません。

変わったお客さんにも、それなりに慣れていたつもりです。


その日は雨でした。

強く降るわけではありませんが、夕方から細かい雨が途切れず続いていました。

午前零時を過ぎると駅前の人通りも減り、私は客待ちの列から外れて、少し離れた繁華街を流していました。

ラジオでは地方のニュースが流れていました。

山間部のバス停付近で、若い男性が保護されたという内容だったと思います。

男性は靴を履いておらず、何度も「終点まで乗っていた」と話していたそうです。


聞いたときは妙なニュースだと思いましたが、すぐに別の話題へ移ったので、それ以上は気にしませんでした。

午前一時前。

古い商店街の入口で、女性が手を挙げました。


年齢は三十代くらい。

灰色のコートを着て、透明なビニール傘を差していました。

近くには居酒屋も何軒かありましたが、酔っているようには見えませんでした。

車を寄せると、女性は後部座席へ乗り込みました。

「どちらまでですか」

私が尋ねると、

「家までお願いします」

と答えました。

たまにいるんです。

運転手が自宅を知っていると思い込み、住所を言わないお客さんが。

私はもう一度、住所か目印を教えてほしいと伝えました。

女性は少し困ったように黙り込みました。


それから、

「いつもの道で大丈夫です」

と言いました。

私は女性を乗せた記憶がありませんでした。

顔にも見覚えはありません。

「以前、私の車をご利用になりましたか」

そう尋ねると、女性はバックミラー越しに私を見ました。

「何度も」

落ち着いた声でした。

冗談を言っているようには聞こえません。


当時のタクシーには、今のような配車アプリや顧客情報の表示はありませんでした。

常連のお客さんなら運転手が住所を覚えている場合もありますが、私はその地域を担当してまだ半年ほどでした。

女性の住所を知らないのは当然です。

「申し訳ありませんが、目的地を教えていただかないと出発できません」

少し強めに言いました。


女性は窓の外を見たまま、

「では、私が道を案内します」

と答えました。

私はメーターを入れ、車を出しました。

最初は普通でした。

次の信号を右。

二つ目の交差点を左。

女性は必要なときだけ、短く道を指示しました。


走っているうちに、私は少し不思議に思い始めました。

女性が案内する道は、私が普段よく使う帰宅経路とほとんど同じだったんです。

仕事を終えて営業所へ戻ったあと、私は自家用車で家へ帰っていました。

そのとき通る道です。

もちろん、偶然だと思いました。

その先には住宅街が広がっていましたし、途中までは主要道路でしたから。

ところが、女性は次第に細い道へ案内し始めました。


「次の角を左に曲がってください」

そこは、私が毎朝通っている道でした。

「その先の信号は直進で」

それも同じです。

女性が私の住んでいる地域へ向かっていることに気づきました。

妙な感じはしましたが、近所の住人なのだろうと考えました。

同じ町に住んでいるなら、道が重なるのは不思議ではありません。

しばらくして、女性が言いました。


「次のコンビニを過ぎたら、右です」

その言葉を聞いて、私はバックミラーを見ました。

右へ曲がれば、私の家へ続く道です。

「この辺りにお住まいなんですか」

「はい」

「どの辺りでしょう」

「もうすぐです」

女性はそれ以上答えませんでした。


右へ曲がると、街灯の少ない住宅街に入ります。

雨で道路が黒く濡れ、家々の窓にもほとんど明かりはありませんでした。

私は少し速度を落としました。

女性は次の角でも、私が家へ帰るときと同じ方向を指示しました。

その先には、私が住んでいた一戸建てがあります。

妻と、小学生の娘と三人で暮らしていました。

「ここをまっすぐですか」

確認のために尋ねました。

「はい」

女性は即答しました。


この時点で、かなり嫌な感じがしていました。

もし女性の家が私の家の近所なら、それで終わる話です。

しかし、私は近所の住人の顔をある程度知っていました。

町内会の集まりもありましたし、妻は近所づきあいを大事にしていました。

灰色のコートを着た女性には、まったく見覚えがありません。

やがて私の家が見えてきました。


二階建ての、ごく普通の家です。

門の横に小さな植木鉢が並び、玄関脇には娘の自転車が置いてありました。

二階の寝室には明かりがついていました。

妻がまだ起きているのだと思いました。

私は家の前を通り過ぎるつもりで、そのまま走りました。


すると女性が、

「ここです」

と言いました。

私は思わずブレーキを踏みました。

「こちらですか」

「はい」

女性は私の家を見ていました。

住所を間違えている可能性もあります。

同じような家が並んでいる地域です。


私は表札を確認しました。

間違いなく、私の名字が書かれています。

「ここは、私の家ですが」

女性は驚きませんでした。


「知っています」


その返事を聞いた瞬間、背中が冷たくなりました。

私はすぐに車を発進させました。

家の前に停車したままでいるのが危険に感じたんです。

「どういうことですか」

できるだけ声を荒らげないように尋ねました。

女性は後部座席で静かに座っていました。

「帰ってきただけです」

「誰がですか」

「私が」

「ここは私の家です。あなたの家ではありません」

女性は少し間を置きました。


「今は、そうなんですね」

意味が分かりませんでした。

私は大通りへ戻ろうとしました。

ところが、いつも通る交差点が見つかりません。

曲がる場所を間違えたのかと思いました。

住宅街は似たような道が多く、夜中の雨では方向感覚を失うこともあります。

しかし、そこは自宅の周辺です。

何年も住み、毎日通っている道でした。

迷うはずがありません。


それなのに、どこを曲がっても同じ場所へ戻ってしまうんです。

白い塀の家。

電柱に貼られた不動産会社の看板。

壊れた街灯。

その三つを、何度も通りました。

カーナビの画面は現在地を正常に表示しているように見えました。

ただ、進んでも車の印がほとんど動きません。


地図上では同じ交差点をぐるぐる回っています。

「道が分からないんですか」

女性が尋ねました。

「少しお待ちください」

「前は、迷わなかったのに」

私は何も答えませんでした。


女性は道案内を始めました。

「次を左です」

私は従いたくありませんでした。

しかし、ほかに大通りへ戻る道が分かりません。

仕方なく左へ曲がりました。

「その先を右」

言われるまま進みます。


女性は迷うことなく、細い道を指示しました。

数分後、また私の家の前に出ました。

今度は、玄関の明かりがついていました。

家を出るときには消えていたはずです。

玄関の前に、妻が立っていました。

傘も差さず、雨の中でこちらを見ています。

私は窓を開け、妻の名前を呼びました。


妻は返事をしません。

車へ近づいてもきません。

ただ、まっすぐこちらを見ていました。

後部座席の女性が、ため息をつきました。

「また起きている」

その言い方が、家族に対するもののように聞こえました。


私は車を降りようとしました。

その瞬間、女性に腕をつかまれました。

後部座席からでは届くはずのない距離です。

それでも、冷たい手が私の右腕を強く握りました。

「今は降りないほうがいいです」

私は振りほどこうとしました。


「妻です」

「違います」

「何が違うんですか」

女性は玄関の前を指さしました。

妻だと思っていた人が、ゆっくり顔を傾けました。

動き方が不自然でした。

首だけが、肩へ近づくように傾いていく。

雨に濡れているはずなのに、髪も服もまったく揺れていません。


妻ではない。

そう思いました。

顔は確かに妻でした。

けれど、あれが妻だとは思えませんでした。

私はアクセルを踏みました。

車は急発進し、玄関前の人影を置き去りにしました。


ミラーを見ると、人影は追ってきませんでした。

ただ、いつまでも家の前に立ち、こちらを見ています。

「今のは何ですか」

私が尋ねると、女性は答えませんでした。

「あなたは誰なんですか」

それにも答えません。

しばらく走ると、突然大通りへ出ました。

見覚えのある交差点です。

通行する車もあり、コンビニの明かりも見えました。

カーナビも正常に動き始めました。

私は車を道路脇へ停めました。


警察へ連絡しようと思ったんです。

その前に、後部座席の女性へ身分証を見せるよう求めました。

女性は灰色のコートのポケットから、小さな財布を出しました。

中から古い運転免許証を取り出します。

免許証の写真は、目の前の女性でした。

名前には見覚えがありません。


住所欄には、私の家の住所が書かれていました。

発行された日付は、私たち家族があの家を購入するより十年以上前です。

有効期限も、ずっと前に切れていました。

「以前、あそこに住んでいたんですか」

女性はうなずきました。


「家族で?」

「娘と二人で」

「ご主人は」

女性は窓の外を見ました。

「帰ってきませんでした」

それ以上は話しませんでした。

私は免許証を返しました。


「なぜ私の車に乗ったんですか」

「迎えに来てくれたからです」

「私はあなたを知りません」

女性は、少し悲しそうな顔をしました。

「毎晩、同じ道を通っていたでしょう」

確かに私は、仕事の帰りに同じ道を走っていました。

しかし、タクシーで自宅へ帰ることはありません。


営業車は営業所へ戻し、自家用車へ乗り換えていました。

女性が私のタクシーを見る機会はないはずです。

「どこで降りますか」

私は早く女性を車から降ろしたくなっていました。


女性は、

「駅へ戻ってください」

と言いました。

私は駅へ向かいました。

今度は道に迷いませんでした。

女性は後部座席で、外を見たまま黙っていました。

駅前へ着くと、深夜のため人はほとんどいませんでした。

メーターにはかなりの金額が表示されていました。

請求するべきか迷っていると、女性は財布から紙幣を一枚出しました。


「お釣りは要りません」

受け取った紙幣は古いものでした。

今でも使えるのか分からないほど傷んでいました。

女性はドアを開け、車を降りました。

「もう、あの道は通らないほうがいいです」

そう言って、駅の構内へ歩いていきました。

私は車内から見ていました。

女性は閉鎖された改札の前まで進み、そのまま見えなくなりました。

柱の陰へ入ったようにも見えました。

追いかけて確認する気にはなれませんでした。


私はすぐ妻へ電話をかけました。

何度呼び出しても出ません。

家へ戻るのが怖かったので、警察へ連絡しました。

事情をすべて話すことはできませんでした。

自宅前に不審な人物がいた。

妻と連絡がつかない。

それだけを伝えました。


警察官と一緒に家へ戻りました。

玄関の明かりは消えていました。

雨の中に人影もありません。

鍵を開けて中へ入ると、妻と娘は二階で眠っていました。

妻は電話の音に気づかなかったと言いました。


夜中に外へ出た覚えもありません。

私は玄関前に立っていた人物のことを話せませんでした。

警察官が家の周囲を確認しましたが、異常はありませんでした。

防犯のために置いていた砂利にも、誰かが立っていたような跡はなかったそうです。


翌日、家を購入した不動産会社へ連絡しました。

以前の住人について尋ねましたが、個人情報なので教えられないと言われました。

ただ、担当者が一つだけ話してくれました。

あの家は、私たちが購入する十年以上前に建て替えられているそうです。

それ以前にも、同じ場所に小さな家があった。

そこには母親と幼い娘が住んでいた。


ある晩、母親が行方不明になり、娘だけが家に残されていた。

父親は仕事へ行ったまま、何日も帰ってこなかった。

近所の人が異変に気づき、娘は保護された。

それ以上のことは知らないと言われました。


女性の名前を尋ねましたが、担当者は覚えていませんでした。

私は、あの晩に見た免許証の名前を伝えました。

担当者はしばらく黙ったあと、

「少し待ってください」

と言いました。

電話の向こうで、書類を探す音がしました。

やがて担当者が戻ってきました。

「その名字なら、以前の所有者と同じです」

女性の名前までは記録にないそうです。

私は、母親が見つかったのか尋ねました。

担当者は知りませんでした。


その後、私は自宅までの経路を変えました。

少し遠回りになりますが、毎朝通っていた住宅街を避けるようにしました。

妻には理由を話していません。

あの女性を乗せることも、二度とありませんでした。

ただ、奇妙なことが一つ残りました。

あの晩、女性から受け取った紙幣です。

古く傷んでいましたが、偽物ではありませんでした。

銀行へ持っていけば交換できるものだったそうです。


私は使う気になれず、営業所の机の中へ入れておきました。

数日後、紙幣がなくなっていました。

誰かが持っていったのだと思いました。

その代わり、机の中に写真が一枚入っていました。

古い家の前で、母親と幼い女の子が並んでいる写真です。


母親は、あの女性でした。

女の子は五歳くらいに見えました。

写真の端には、タクシーが一台写っていました。

今の車とは形が違う、かなり古い車です。

運転席には男性が座っていました。

顔は小さく、よく見えません。

ただ、帽子の形や制服から、タクシー運転手だと分かりました。

写真の裏には、青いペンで文章が書かれていました。


「今度は、二人で帰ります」


私はその写真を警察へ届けました。

事件との関係があるかもしれないと思ったからです。

ところが数日後、警察から連絡がありました。

写真に写っていた家は、私の自宅ではないと言われました。

場所はまったく別の県でした。

そこでも昔、母親が行方不明になり、幼い娘だけが残された事件があったそうです。


名前も、時期も違いました。

ただ、写真の裏に書かれた文章だけが、少し気になったと言われました。

その事件で保護された娘も、

「お母さんは車で帰ってくる」

と何度も話していたそうです。

私はそれから一年ほどして、タクシー会社を辞めました。

今は昼間の仕事をしています。

自宅も売り、別の町へ引っ越しました。


妻は、単に仕事を変えたためだと思っています。

本当の理由は話していません。

先月、家族で出かけた帰りにタクシーを利用しました。

後部座席には、私と妻と娘が座りました。

運転手は年配の男性でした。

目的地を伝えると、男性は少し驚いたように私を見ました。


「以前にも乗せましたよね」

私は首を横に振りました。

その運転手に見覚えはありませんでした。

「人違いだと思います」

そう答えると、男性はしばらく黙っていました。

やがて車を発進させ、バックミラー越しに言いました。

「前のときは、お一人じゃなかったでしょう」

妻が、何の話かと尋ねました。

運転手は、

「すみません。勘違いです」

と謝りました。

それから目的地へ着くまで、何も話しませんでした。

車を降りるとき、運転手が私だけを呼び止めました。


小さな声でした。

妻と娘には聞こえていなかったと思います。

「あの人、まだ家へ帰れていませんよ」

私は何も答えず、ドアを閉めました。

タクシーはすぐに走り去りました。

その夜、自宅の玄関に透明なビニール傘が置かれていました。

家族のものではありません。

濡れていました。

外は、一日中晴れていました。


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