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⑦ 終点の一つ前

十年ほど前まで、私は地方のバス会社で運転手をしていました。

市内を走る路線もありましたが、私がよく担当していたのは、駅と山間部の集落を結ぶ便です。


片道一時間ほど。

途中までは住宅や商店が続いているものの、川沿いの道へ入ると景色が変わります。

街灯は少なく、夜になると、前照灯の届く範囲しか見えません。最終便ともなれば、乗客が一人もいないことも珍しくありませんでした。


その路線には、終点の一つ前に「宮ノ下」という停留所がありました。

山道の途中に、標識が一本立っているだけの場所です。

周囲には林と古い石垣があるだけで、民家へ続く道は見当たりません。

昔は近くに神社があった。

林業をしていた人が利用していた。

小さな集落があった。

先輩たちに聞くと、それぞれ違う説明が返ってきました。


ただし、最後には決まって、

「今は誰も使わない」

と言われました。

実際、宮ノ下で人が乗り降りするところを、私は一度も見たことがありませんでした。

降車ボタンが押されなければ、そのまま通過する停留所です。


その晩も、最初はいつもと変わりませんでした。

十二月に入ったばかりで、昼間に降った雪が道路脇へ少し残っていました。

駅を出たときの乗客は五人。

市街地で三人が降り、山道へ入る頃には二人だけになっていました。


一人は、後方の窓側に座った若い男性です。

二十代くらいだったと思います。

黒っぽい上着を着て、膝の上に小さな鞄を置いていました。

もう一人は、反対側の席に座った女性でした。

年齢はよく分かりません。

長い髪で、暗い色の服を着ていました。


顔を窓のほうへ向けていたため、バックミラーからはほとんど見えませんでした。

その女性を見たとき、私は少し妙な感じがしました。

以前にも乗せたことがあるような気がしたんです。

しかし、どこで乗せたのか思い出せません。

毎日多くの乗客を乗せますから、似た人と勘違いしたのだろうと思いました。


山道に入ってから、女性は一度も動きませんでした。

若い男性は、ときどきスマートフォンを見ていました。

二人とも会話はしていません。

知り合いではなさそうでした。

終点まで残り十分ほどになった頃です。

降車ボタンが鳴りました。


次は宮ノ下でした。

私は思わずミラーを見ました。

若い男性が立ち上がっていました。

女性は座ったままです。

車内アナウンスが流れました。

「次は、宮ノ下。宮ノ下です」

自分で毎日のように聞いているはずなのに、そのときは停留所の名前が妙に耳へ残りました。

初めて聞く言葉のようでもあり、ずっと前から知っている言葉のようでもありました。


標識が前照灯に照らされました。

私は道路脇へバスを寄せ、停車しました。

扉を開けると、若い男性が前へ歩いてきました。

運賃箱へ硬貨を入れ、そのまま外へ降りていきます。


「足元にお気をつけください」

いつものように声をかけましたが、男性は返事をしませんでした。

停留所の横には、林の奥へ続く細い道がありました。

以前からあったのかもしれません。

ただ、私はその晩まで気づきませんでした。

男性は迷う様子もなく、その道へ入っていきました。

黒い後ろ姿は、すぐに暗闇へ溶けました。


こんな場所に何の用があるのだろう。

そう思いながら扉を閉めようとしたとき、車内から声がしました。


「ここ、どこですか」


若い男性の声でした。

私は手を止め、ミラーを見ました。

後方の窓側に、男性が座っていました。

先ほどと同じ席です。

黒っぽい上着。

膝の上の小さな鞄。

両手にはスマートフォンを持っていました。

私は振り返りました。


間違いなく、先ほど降りた男性でした。

「今、降りませんでしたか?」

思わずそう尋ねました。

男性は、不思議そうに首を振りました。

「ずっと座っていましたけど」

私は女性のほうを見ました。


彼女なら、何が起きたのか見ていたはずです。

ところが、女性が座っていた席には誰もいませんでした。

鞄も、上着も残っていません。

扉はまだ開いていました。

けれど、女性が前を通った記憶はありません。

降りた姿も見ていませんでした。


「もう一人、女性が乗っていましたよね?」

男性に尋ねると、彼は困ったような顔をしました。

「乗っていたの、僕だけだと思います」

そんなはずはありません。

駅を出たときから、女性は確かに乗っていました。

バックミラーで何度も確認しています。

私は座席を見回しました。


誰もいません。

開いた扉の外から、雪を踏むような音がしました。


ざっ。

ざっ。


誰かが林のほうから近づいてきます。

私は扉を閉めました。

なぜそうしたのか、自分でも分かりません。

乗車しようとしている人なら、待たなければならない。

それが運転手の仕事です。

それでも、あのときは扉を開けたままにしてはいけないと思いました。


閉まる直前、暗闇の中から白い手が伸びてきました。

扉のゴムに指先が触れましたが、そのまま扉は閉じました。

手は挟まれませんでした。

すぐに暗闇へ引っ込みました。

そのあと、前扉のガラスを一度だけ叩かれました。

大きな音ではありません。

軽く、こちらの注意を引くような叩き方でした。


ガラスの向こうには人影がありました。

若い男性です。

先ほど降りた男でした。

車内にも、同じ男性がいる。

外の男は、窓へ顔を近づけました。

暗くて表情までは見えません。

口だけが動いていました。

何を言っていたのか、正確には分かりません。

ただ私には、


「そっちが違う」


と言っているように見えました。

私はアクセルを踏みました。

外の男を残し、バスを発車させました。

ミラーを見ると、車内の男性は席を立ち、後ろの窓から停留所を見ていました。


「誰かいたんですか?」

「分かりません」

それしか答えられませんでした。

男性はしばらく後ろを見ていましたが、やがて席へ戻りました。

終点へ着くまでの数分間、私は何度もミラーを確認しました。


男性は確かに座っています。

ただ、ときどき目を離して再び見ると、姿勢が変わっていることがありました。

窓の外を見ていたはずなのに、次の瞬間にはスマートフォンを見ている。

両手で持っていた鞄が、いつの間にか隣の席へ置かれている。

本人が動いただけでしょう。

それでも、動いている途中を一度も見ませんでした。


やがて終点へ到着しました。

明るい待合所の前にバスを止め、扉を開けました。

男性が前へ来ます。

顔をよく確認しようと思いました。

ですが、彼はうつむいたままでした。

運賃箱へ硬貨を入れようとしたので、私は声をかけました。


「さっき払いましたよね」

男性は手を止めました。

「まだ払ってません」

「宮ノ下で」

そこまで言うと、男性の表情が変わりました。

「僕、降りてませんよね」

尋ねるというより、自分に言い聞かせているようでした。

「ずっと乗っていましたよね」

私は、すぐには答えられませんでした。

男性は財布から硬貨を取り出し、運賃箱へ入れました。

機械が金額を読み上げました。


始発から終点までの、正しい運賃でした。

男性はバスを降りる前に、私へ言いました。

「途中で、変な夢を見ました」

夢の中で、彼は宮ノ下の停留所に立っていたそうです。

走り去るバスを追いかけ、扉を叩いていた。

中にいる自分と目が合った。

それでもバスは止まらなかった。


「そのあと、女の人に呼ばれました」

「どんな人でしたか」

私が尋ねると、男性は少し考えました。

「分かりません」

「顔は?」

「見ていません」

男性は自分の手元を見ました。

「でも、前にも会ったことがある気がしました」

男性はそのまま降りていきました。


待合所の明かりの下で、ようやく顔が見えました。

知らない人でした。

ただ、なぜか私も、以前どこかで見たことがあるように思いました。

その日のうちに、私は営業所へ連絡しました。

宮ノ下で乗客を一人降ろしたこと。

その人物と同じ姿の男性が、車内に残っていたこと。

もう一人、女性が乗っていたはずなのに消えていたこと。

自分で話しながらも、まともな説明ではないと分かっていました。

電話に出た運行管理者は、しばらく黙っていました。


それから、

「宮ノ下で扉を開けたのか」

と聞きました。

私は、降車ボタンが押されたから開けたと答えました。

「誰が押した」

「男性です」

「本当にその人が押したのか」

意味の分からない質問でした。


私はバックミラーで男性が立ち上がるのを見ています。

ほかに押す人はいませんでした。

そう説明すると、相手は小さくため息をつきました。

「戻ったら映像を確認する」

それだけ言って、電話は切れました。


営業所へ戻り、車内カメラの映像を確認しました。

駅を出た時点で、乗客は五人。

私の記憶どおりです。

途中で三人が降り、山道へ入ります。

そこからがおかしくなっていました。

車内には、若い男性しか映っていません。

女性の姿は、最初から一度も映っていませんでした。


それでも私は、運転しながら何度も女性の席を見ています。

ミラー越しに、誰もいない座席へ視線を向けていました。

宮ノ下の手前で降車ボタンが鳴ります。

男性が立ち上がり、前へ来る。

バスが止まり、男性は運賃を払って降りました。

扉を閉めようとした私は、突然後部座席を振り返っています。


そこには誰もいません。

私は空の席へ向かって、

「今、降りませんでしたか」

と話しかけていました。


扉の外から手が伸びてくる場面も残っていました。

降りた男性が戻ってきて、ガラスを叩いています。

映像では、男性の口元がはっきり映っていました。

運行管理者が何度か再生しました。

「何と言ってる」

私は答えませんでした。

映像の中の男は、


「それは俺じゃない」


と繰り返しているように見えました。

バスが発車したあと、車内には誰もいません。

私は何度もミラーを見て、空の後部座席へ話しかけています。

終点に着くと、

「さっき払いましたよね」

と言いました。

そして誰もいない通路を見送りました。

その直後、運賃箱には、もう一人分の硬貨が入っていました。

映像では、誰も入れていません。


宮ノ下で支払われた分と合わせて、二人分の運賃が残っていました。

私はしばらく乗務を外されました。

病院で検査も受けましたが、異常は見つかりません。


過労による一時的な幻覚ではないかと言われました。

自分でも、それで納得しようとしました。

ただ、あの女性のことだけは説明できませんでした。

映像には映っていない。

ほかの乗客も見ていない。

それでも私は、駅を出たときから彼女が座っていたことを覚えています。


長い髪。

暗い色の服。

窓の外を見たまま、一度も動かなかった横顔。

不思議なのは、顔を見ていないはずなのに、今でも顔を思い出せることです。

どこにでもいそうな、見覚えのある顔でした。

ですが、具体的に説明しようとすると分からなくなる。

目を閉じれば浮かぶのに、似顔絵にはできない。

夢で見た人の顔に近いかもしれません。


その後、私は別の路線へ異動しました。

数年たって会社を辞め、今はもう大型車を運転していません。

宮ノ下の停留所は、今も残っているそうです。

一度だけ、昼間に自家用車で近くを通ったことがあります。

標識は以前より古び、文字も薄くなっていました。

その裏側に、白い塗料で文章が書かれていました。

ほとんど剥がれていましたが、


「ここでは降りないでください」


と読めました。

その下には、別の筆跡で、

「乗っている人を信じてください」

と書かれていました。

さらにその下に、小さな文字がありました。

「ただし、先に乗っていた人だけ」

意味は分かりませんでした。

車へ戻ろうとしたとき、林の中で人が動く気配がしました。

振り返ると、木の間に若い男性が立っていました。

黒っぽい上着を着て、小さな鞄を持っています。


あの晩の乗客でした。

顔を確認する前に、男性は林の奥へ歩いていきました。

私は追いませんでした。

車へ戻り、すぐに出発しました。

山道をしばらく走ったところで、後部座席から女性の声がしました。


「今の人、乗せなくてよかったんですか」


ブレーキを踏みそうになりました。

ミラーを見ることはできませんでした。

後ろには誰も乗せていません。

それでも、人が座っている気配がありました。

シートがわずかにきしみました。

私は前だけを見て運転しました。

やがて女性が、もう一度言いました。


「前にも、置いていきましたよね」


その言葉を聞いたとき、私は急に思い出しました。

あの女性をどこで見たのか。

初めて宮ノ下を通った日の最終便です。

運転手になって間もない頃、同じ席に彼女が座っていました。

私は終点へ着いたあと、車内に誰も残っていないことを確認した。

そのはずでした。


ですが、その日の記憶をたどると、最後に一つだけ思い出せないことがあります。

宮ノ下で、扉を開けたのかどうか。

今となっては確認できません。

会社にも、当時の映像は残っていないでしょう。

女性の声は、山道を抜けるまで続きました。

何を話していたのか、ほとんど覚えていません。

ただ、最後に言われたことだけは忘れられません。


「次に会ったら、どちらが先に乗っていたか確認してください」


町へ入ってから後部座席を見ると、誰もいませんでした。

シートの上には、古い乗車券が一枚置かれていました。

日付は、私が運転手になるより二十年以上前。

乗車した停留所は、宮ノ下。

行き先の欄には、

「一つ前」

と書かれていました。

終点の一つ前なのか。

それとも、別の何かの一つ前なのか。

今も分かりません。


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