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6/13

⑥ 留守中の部屋

これは、社会人になって二年目の頃に経験した話です。

当時の私は、会社の近くにあるワンルームマンションで一人暮らしをしていました。


駅から徒歩十分ほどで、築年数もそれほど古くありません。オートロックはありませんでしたが、家賃の割にはきれいな建物でした。

住人同士の付き合いは、ほとんどありません。

廊下ですれ違えば会釈をする程度で、隣に誰が住んでいるのかもよく知りませんでした。


異変に気づいたのは、梅雨に入ったばかりの頃です。

仕事から帰り、冷蔵庫を開けると、見覚えのないペットボトルが入っていました。

五百ミリリットルの麦茶です。

コンビニで売っている、ごく普通の商品でした。

最初は、自分で買ったことを忘れたのだと思いました。

残業が続いていましたし、帰宅途中に飲み物を買うことも多かったからです。


ただ、その麦茶は一口だけ減っていました。

私は飲みかけのペットボトルを冷蔵庫へ戻すことは、ほとんどありません。

潔癖というほどではないのですが、直接口をつけた飲み物は、その日のうちに飲み切るようにしていました。

気味が悪くなり、そのまま捨てました。


翌週、今度は洗面所に歯ブラシが増えていました。

私が使っている青い歯ブラシの隣に、白い歯ブラシが立ててあります。

新品ではありません。

毛先が少し開いていて、濡れていました。


誰かが部屋に入った。

そう考えるのが普通だと思います。

けれど、玄関の鍵に壊された跡はなく、窓も内側から施錠されていました。

私はすぐ管理会社へ連絡しました。

担当者が部屋を確認してくれましたが、侵入された形跡は見つかりません。

前の住人が合鍵を持っている可能性について尋ねると、入居前に鍵は交換していると言われました。

念のため、もう一度交換してもらうことになりました。


費用はこちら持ちでしたが、それで安心できるなら構わないと思いました。

新しい鍵になってから、二週間ほどは何も起きませんでした。

私は、やはり自分の勘違いだったのではないかと考えるようになりました。

歯ブラシも、酔って買ったのかもしれない。

麦茶についても、覚えていないだけかもしれない。

そう思い始めた頃、玄関に知らない靴が置かれていました。


女性用の靴でした。

黒いパンプスで、サイズはかなり小さめです。

きちんとそろえられ、私の革靴の横に置いてありました。

その日は朝から仕事に出ていて、帰宅したのは午後十時過ぎです。

部屋に入った瞬間、それが目に入りました。


誰かがまだ部屋にいる。

私は玄関から動けませんでした。

室内の明かりは消えています。

音もしません。

靴を履いている人間が、部屋のどこかにいるはずでした。

私は外へ出て、警察へ電話しました。


警察官が二人来て、室内を確認してくれました。

部屋は狭いワンルームです。

人が隠れられる場所といえば、クローゼットか、ベッドの下くらいしかありません。

浴室やトイレも調べてもらいましたが、誰もいませんでした。

ベランダにも異常はありません。


パンプスは、確かに女性が履いた形跡のあるものでした。

靴底には外を歩いた汚れがあり、中には髪の毛が一本落ちていたそうです。

警察官から、交際相手や元恋人に心当たりがないか聞かれました。

当時、付き合っている人はいませんでした。

以前交際していた女性とも、一年以上連絡を取っていません。


住所を知っている可能性はありましたが、そんなことをする人ではないと思いました。

警察はパンプスを持ち帰りました。

その夜は、近くのビジネスホテルに泊まりました。


翌日、管理会社と相談し、玄関付近に小型の防犯カメラを設置しました。

部屋の内側から、玄関扉が映る位置です。

それに加えて、外出するときは扉の隙間に小さな紙を挟むようにしました。

誰かが扉を開ければ、紙が落ちるはずです。


最初の数日は、何も映りませんでした。

紙も挟んだままです。

ところが五日目、帰宅すると、ベッドの上に女性用のカーディガンが置いてありました。

薄い黄色の、古い服でした。

きれいに畳まれ、枕元に置かれていました。

玄関の紙は落ちていません。

防犯カメラにも、誰かが入る様子は残っていませんでした。


映像は、私が朝に出ていったあとから、帰宅するまで途切れず記録されています。

玄関扉は一度も開いていません。

管理会社の担当者にも映像を確認してもらいました。

不正に編集された形跡はないと言われました。


私はその日のうちに、引っ越すことを決めました。

しかし、すぐに部屋を出られるわけではありません。

新しい物件を探し、契約し、荷物をまとめる必要があります。

それまでの間、私は部屋へ帰るたびに、まず室内を撮影するようにしました。


玄関。

台所。

ベッド。

クローゼット。

浴室。

朝と夜で変わったものがないか、写真を見比べるためです。

すると、いくつか気づいたことがありました。


洗面台に置いた化粧水のボトルが、毎日少しずつ減っている。

私は化粧水を使いません。

台所のスポンジが濡れている日がある。

朝に洗った食器を乾かして出勤したはずなのに、夜になるとコップが一つだけ流しに置かれている。

クローゼットの中で、私の服が少しずつ左側へ寄せられている。

空いた右側には、例のカーディガンが掛けられていました。

誰かがここで生活を始めようとしている。

そんなふうに感じました。


防犯カメラには、やはり何も映りません。

窓にもベランダにも、人が出入りした形跡はありませんでした。

私は会社を休み、部屋の中を徹底的に調べることにしました。

家具を動かし、収納の中身をすべて出しました。

ベッドの下。

浴槽の裏側。

台所の収納棚。

換気口。

どこにも人が入れるような場所はありません。

最後にクローゼットを調べました。

奥の壁を叩くと、一か所だけ音が違う部分がありました。


ほかは硬い壁の音なのに、そこだけ少し空洞があるように響きます。

管理会社へ連絡し、担当者立ち会いのもとで壁を調べてもらいました。

壁紙の端に、細い切れ目がありました。

注意して見なければ気づかない程度です。

業者の人が工具を使うと、壁の一部が扉のように手前へ開きました。

その向こうには、人が一人通れるほどの狭い空間がありました。

建物の配管を通すための空洞だそうです。


本来、居室側から入れる構造ではありません。

しかし壁の裏側には、小さな板が渡されていて、人が横になれる場所が作られていました。

毛布。

懐中電灯。

数本のペットボトル。

食べかけの菓子。

女性用の服。

それから、小さな箱が置かれていました。

箱の中には、私の写真が何十枚も入っていました。


寝ているところ。

食事をしているところ。

着替えているところ。

パソコンを見ているところ。

すべて、部屋の中で撮られた写真です。

撮影されたことには、一度も気づきませんでした。

写真の裏には、日付と短い文章が書かれていました。


「今日も遅かった」

「風邪をひいたみたい」

「この服はあまり似合わない」

「最近、よく眠れていない」

私の生活を記録した日記のようでした。

古い写真ほど、撮影された時期が前でした。

一番古いものは、私がこの部屋へ入居した日の写真です。


引っ越し業者が荷物を運び込んでいる後ろで、私は管理会社の担当者と話していました。

部屋の奥。

まだ何も入っていないクローゼットの隙間から、誰かの顔が少しだけ写っていました。

女性でした。

私はその顔を知りませんでした。

警察が建物を調べました。


空洞は、隣の部屋や上の階にもつながっていたそうです。

配管点検用の扉を使えば、共用部分から入ることもできました。

ただし、その扉には管理会社の鍵が必要でした。

しばらくして、女性が逮捕されたと聞きました。

同じマンションの住人でした。


私の真上の部屋に住んでいた、五十代の女性です。

廊下ですれ違ったことはあったはずですが、顔を覚えていませんでした。

女性は以前から壁の中を移動し、複数の部屋へ出入りしていたそうです。

盗みが目的ではありません。

住人が留守の間に部屋へ入り、食事をしたり、入浴したり、眠っている人を眺めたりしていた。


気に入った住人の部屋では、壁の裏に何日も潜んでいたこともあると聞きました。

どうして私の部屋に物を置いたのか。

警察の方が尋ねると、女性はこう答えたそうです。

「少しずつ慣れてもらおうと思った」

何に慣れさせようとしたのかは分かりません。

女性は、自分が私と一緒に暮らしていたつもりだったようです。


入居した日から毎日私を見ていた。

私が帰ってこない日は心配した。

体調が悪いときは、夜中に額へ手を当てた。

そう話していたと聞きました。

私はすぐにマンションを引き払いました。

管理会社との間でかなり揉めましたが、もうあの部屋に荷物を取りに戻ることすら嫌でした。


現在は別の町に住んでいます。

防犯設備のある建物を選び、玄関にも室内にもカメラを置いています。

事件から数年が経ちました。

あの女性はもう、私の近くにはいないはずです。

それでも今でも、朝起きたときに物の位置を確認する癖が残っています。


冷蔵庫の飲み物。

洗面所の歯ブラシ。

クローゼットの服。

少しでも動いていると、眠れなくなります。

先月、仕事から帰ると、玄関に見覚えのない傘がありました。

透明なビニール傘です。

自分で買ったのを忘れたのだと思い、処分しました。

数日後、今度は靴箱の中に、女性用の折り畳み傘が入っていました。

警察へ相談しましたが、侵入された形跡はありません。

防犯カメラにも何も映っていませんでした。


私は念のため、部屋の壁をすべて叩いて確認しました。

どこも同じ音でした。

空洞らしい場所はありません。

少し安心して、ベッドへ入りました。

夜中に目が覚めました。

何かの音がした気がしたんです。

人が息をするような、小さな音でした。

部屋の中を確認しましたが、誰もいません。

クローゼットも開けました。

異常はありませんでした。


そのとき、スマートフォンに通知が届きました。

差出人の表示はありません。

写真が一枚添付されていました。

暗い室内で、ベッドに横たわる私の写真です。

眠っている私の顔が、すぐ近くから撮影されていました。

写真の下に、短い文章がありました。


「今度の部屋は、壁が薄くていいですね」


私はその日のうちに部屋を出ました。

ただ、今度は壁の中を調べてもらっていません。

何も見つからなかったときのほうが、

きっと怖いと思うからです。


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