⑤ 夜間受付
これは、私が総合病院の夜間受付で働いていた頃の話です。
二十代の終わり頃だったので、もう十年近く前になります。
病院名は伏せますが、県内では比較的大きな病院でした。救急の受け入れもしており、夜間でも人の出入りが途切れることはありません。
私の仕事は、救急外来を訪れた患者さんの受付や、電話の取り次ぎ、入院患者のご家族への案内などです。
医療の資格は持っていません。
患者さんの容体を判断する仕事ではなく、必要な情報を確認して看護師へ伝える役目でした。
夜勤は二人一組です。
受付の奥に小さな事務室があり、交代で休憩を取りながら朝まで勤務します。
その晩、私と一緒だったのは田辺さんという五十代の男性でした。
長く勤めている人で、夜間の対応にも慣れていました。
何かあれば田辺さんに聞けばいい。
当時の私は、そう思っていました。
午前零時を過ぎるまでは、いつもと変わりませんでした。
発熱した子どもを連れたご夫婦。
転倒して額を切った高齢の男性。
仕事中に手を挟んだという若い人。
救急車も何台か来ました。
一時頃になると、受付前は少し静かになりました。
待合室には診察を待っている人が数人いましたが、誰も話していません。
テレビだけが、小さな音でニュースを流していました。
画面の下には鉄道の運行情報が表示されていたと思います。
どこかの路線で遅れが出ているという内容でしたが、病院から離れた地域だったので、特に気にしませんでした。
そのとき、一人の女性が受付へ来ました。
年齢は三十代後半か、四十代くらい。
黒いワンピースの上に、薄い色のカーディガンを羽織っていました。
顔色が悪く、ひどく疲れているように見えました。
女性は受付台の前に立つと、小さな声で言いました。
「面会をお願いします」
私は時計を確認しました。
午前一時を少し過ぎています。
当然、通常の面会時間は終わっていました。
ただし、容体が急変した患者さんのご家族など、病棟から連絡を受けている場合は案内することがあります。
患者さんの名前を尋ねると、女性は、
「小宮美佐子です」
と答えました。
その名前を聞いた瞬間、妙な感じがしました。
以前にも聞いたことがあるような気がしたんです。
病院では毎日多くの名前を扱います。
同じ名字の患者さんも珍しくありません。
どこかの書類で見たのだろうと思いました。
私は入院患者の一覧を確認しました。
小宮美佐子という患者は、確かに入院していました。
病棟は五階。
ただし、患者本人が小宮美佐子さんです。
目の前の女性が面会を希望している相手と、同じ名前でした。
私は聞き間違えたと思い、もう一度確認しました。
「面会される患者さんのお名前でよろしいでしょうか?」
女性はうなずきました。
「小宮美佐子です」
「ご関係を伺ってもよろしいですか」
女性は少し黙りました。
それから、
「娘です」
と答えました。
私は患者情報を見直しました。
小宮さんは七十代の女性でした。
目の前の人が娘だとしても、年齢に不自然な点はありません。
ただ、事前の面会連絡は入っていませんでした。
田辺さんへ相談しようと振り返ると、受付の奥には誰もいませんでした。
少し前まで椅子に座っていたはずです。
休憩に入るとは聞いていませんでしたが、トイレにでも行ったのだと思いました。
私は病棟へ内線をかけました。
何度呼び出しても出ません。
看護師が対応中なのだろうと思い、少し待つことにしました。
「確認しますので、そちらでお待ちください」
待合室の椅子を示すと、女性は素直に移動しました。
一番端の席に座り、膝の上で両手を組んでいました。
その向かい側には、若い男性が一人座っていました。
診察を待っているのか、付き添いなのかは分かりません。
男性は両手でスマートフォンを持ち、ずっと画面を見ていました。
その姿を見たときにも、どこかで同じ光景を見たような気がしました。
けれど、スマートフォンを見ている人など、どこにでもいます。
夜勤で疲れているのだろうと考えました。
数分後、病棟から電話がありました。
電話に出た看護師へ事情を説明すると、相手はしばらく黙りました。
「ご家族が来ているんですか?」
「娘さんだそうです」
また沈黙がありました。
「小宮さんの娘さんは、今日の夕方からずっと病室にいます」
私は待合室を見ました。
黒いワンピースの女性は、まだ端の椅子に座っています。
「お一人ではないんですか?」
「お一人です。今も病室にいらっしゃいます」
看護師の声が少し緊張していました。
「受付にいる方のお名前を確認してもらえますか」
私は受話器を置き、女性のところへ向かいました。
近づいても、女性は顔を上げません。
「恐れ入りますが、お名前を伺ってもよろしいですか」
女性は膝の上で手を組んだまま答えました。
「小宮美佐子です」
今度は、面会相手ではなく自分の名前として答えたように聞こえました。
「患者さんとのご関係ではなく、あなたのお名前です」
そう伝えると、女性はゆっくり顔を上げました。
「だから、小宮美佐子です」
声は穏やかでした。
怒っている様子はありません。
私は何と答えればよいのか分かりませんでした。
女性の顔を見て、さらに変な感覚が強くなりました。
初対面のはずなのに、どこかで見たことがある。
顔そのものを知っているのではありません。
黒い服。
長い髪。
ひどく白い手。
そうしたものが、以前見た夢の一場面のように思えました。
私は受付へ戻り、田辺さんを探しました。
事務室にも、休憩室にもいません。
内線で警備員を呼ぼうとしました。
そのとき、受付台の下から音がしました。
コン、コン、コン。
机の内側を、誰かが指で叩いたような音です。
私は思わず椅子から離れました。
下を覗いても、何もありません。
数秒後、また鳴りました。
コン、コン、コン。
音は受付台の中ではなく、その奥の壁から聞こえていました。
壁の向こうには、小さな書類保管室があります。
夜間は使いません。
鍵もかかっているはずでした。
私は保管室の扉を確認しました。
やはり鍵がかかっています。
中から三回。
少し間を置いて、また三回。
誰かが閉じ込められているのではないか。
そう思い、警備室へ電話をかけました。
警備員が来るまでの間、待合室を確認しました。
黒い服の女性はいなくなっていました。
先ほどまで座っていた椅子は空いています。
スマートフォンを見ていた男性もいませんでした。
入口の自動ドアが開いた音は聞いていません。
私は待合室に残っていた人へ、黒い服の女性を見なかったか尋ねました。
三人ほどいましたが、全員が知らないと答えました。
「さっき、あそこに座っていた女性です」
椅子を指さしても、誰も見ていないと言います。
一人の高齢の男性だけが、不思議そうな顔で言いました。
「ずっと空いてたと思うけど」
私は受付の防犯カメラを確認してもらうことにしました。
その前に、警備員が到着しました。
事情を説明し、書類保管室の鍵を開けてもらいました。
中には棚と段ボール箱があるだけです。
人が隠れられるような場所ではありません。
念のため奥まで調べましたが、異常は見つかりませんでした。
壁の向こうは屋外でした。
建物の一階で、裏手には狭い通路があります。
警備員が外も確認しましたが、誰もいなかったそうです。
受付へ戻ると、田辺さんが椅子に座っていました。
私がどこへ行っていたのか尋ねると、
「ずっとここにいたよ」
と言いました。
そんなはずはありません。
女性が来たときも、病棟へ電話をかけたときも、受付には私しかいませんでした。
田辺さんは冗談を言うような人ではありません。
私が疲れているのではないかと、逆に心配されました。
防犯カメラの映像を見せてもらいました。
女性が受付へ来た時刻。
映像には、私が一人で立っている姿が映っていました。
私は受付台の前にいる誰かと話すように、何度もうなずいています。
そのあと、待合室の端を示し、何もない場所へ手を向けていました。
黒いワンピースの女性は映っていません。
ただし、若い男性はいました。
向かい側の椅子で、スマートフォンを見ています。
それを見て、少し安心したのを覚えています。
少なくとも、すべてが私の幻覚だったわけではない。
そう思ったんです。
ところが、映像を確認していた警備員が妙なことに気づきました。
男性は、一時間以上まったく動いていませんでした。
足の位置も、首の角度も変わらない。
スマートフォンを操作する指さえ動いていません。
映像が止まっているのかと思いましたが、男性の前を人が何度も通り過ぎています。
時計も進んでいます。
男性だけが、同じ姿勢のままでした。
そして黒い服の女性が消えた頃、男性も映像からいなくなっていました。
立ち上がった様子はありません。
ある時刻を境に、椅子だけが空になっています。
私はその後、体調不良ということで早退させてもらいました。
翌日、上司から連絡がありました。
入院していた小宮美佐子さんが、あの晩に亡くなったそうです。
時刻は午前一時十八分。
女性が受付へ来た頃と、ほぼ同じでした。
娘さんは最期まで病室にいたそうです。
私は、受付へ来た女性の人相を説明しました。
上司を通じてご家族に確認してもらいましたが、心当たりはないとのことでした。
若い頃の小宮さんに似ていたのではないかとも思いました。
ですが、写真を見せてもらうことはありませんでした。
その件について病院側から詳しい説明はなく、防犯映像も私が再び見ることはできませんでした。
私は数か月後に仕事を辞めました。
夜勤が怖くなったことも理由の一つです。
ただ、それだけではありません。
あの晩から、何度か同じことが起きるようになったんです。
電車の中。
飲食店。
病院の待合室。
両手でスマートフォンを持ち、画面を見ている人がいる。
それ自体は、何も珍しくありません。
けれど、その人を見た瞬間に、
前にもここにいた。
前にもこの光景を見た。
そう感じることがあります。
服装も、年齢も、毎回違います。
男性のときもあれば、女性のときもある。
同じ人物ではありません。
それでも、なぜか分かるんです。
あの夜、病院の待合室にいた人と同じだと。
先月、母の付き添いで別の病院を訪れました。
診察を待っていると、向かい側に一人の男性が座りました。
両手でスマートフォンを持ち、下を向いていました。
私はなるべく見ないようにしました。
しばらくして、壁の向こうから音がしました。
コン、コン、コン。
三回。
少し間を置いて、また三回。
周りの人は誰も反応していませんでした。
男性は画面を見たままです。
そのとき、私は不意に思い出しました。
あの夜。
病院の受付へ来た黒い服の女性。
私は彼女を初めて見たと思っていました。
けれど、そうではなかったのかもしれません。
いつ、どこで見たのかは思い出せません。
ただ、あの女性が受付の前に立ったとき、私は確かにこう思っていた気がするんです。
また、この人だ。
男性がスマートフォンの画面を指で動かしました。
ゆっくりと、下へ。
その瞬間、壁の音が止まりました。
男性は顔を上げませんでした。
私は母の診察が終わるまで、その場から動けませんでした。
今も、ときどき考えます。
あの人たちを以前にも見たから、懐かしく感じるのでしょうか。
それとも、同じ出来事が何度も起きていて、
私はそのたびに忘れているのでしょうか。




