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④ 向かいの奥さん

もう三十年以上前の話です。

当時、私は夫と幼い娘の三人で、郊外の団地に住んでいました。


娘はまだ四歳になったばかり。夫は朝早く家を出て、帰宅は夜の九時を過ぎることが多かったので、平日は娘と二人で過ごす時間がほとんどでした。

団地は五階建てで、同じ形の建物が何棟も並んでいました。


私たちの部屋は三階の角部屋です。

玄関を出ると細長い廊下があり、その向かい側にも同じように玄関が並んでいました。

うちの真正面に住んでいたのが、佐伯さんというご夫婦でした。


奥さんは私より十歳ほど年上だったと思います。

とても親切な方でした。

廊下で会えば必ず声をかけてくれましたし、実家から野菜が届いたといって、時々お裾分けもしてくださいました。

娘のことも可愛がってくれました。

「いつでも遊びにいらっしゃい」

娘にそう言って、飴や小さなお菓子を渡してくれることもありました。

ただ、佐伯さんの家へ上がったことは一度もありません。


奥さんはいつも親切でしたが、玄関の中へ人を入れることは嫌っているようでした。

荷物を届けても、扉を少ししか開けない。

立ち話をしていても、誰かが階段を上ってくるとすぐ家へ戻る。

少し変わった方だとは思いましたが、深く考えたことはありませんでした。


ある日の夕方、夕食の支度をしていると、娘の姿が見えないことに気づきました。

少し前まで居間で人形遊びをしていたはずでした。

台所から名前を呼びましたが、返事がありません。

寝室にも、浴室にもいません。


玄関を見ると、靴が一足なくなっていました。

娘がよく履いていた、赤い靴です。

鍵も開いていました。

私は慌てて外へ出ました。

廊下にも、階段にも姿がありません。

三階から一階まで下りて、建物の周囲も探しました。


砂場。

自転車置き場。

団地の裏にある小さな公園。

どこにもいません。

今ならすぐ警察へ連絡すると思います。

けれど当時の私は、娘が勝手に外へ出たことへの驚きと、夫に何と言えばいいのかという焦りで、まともな判断ができていませんでした。


近所の部屋を一軒ずつ訪ねました。

娘を見なかったかと尋ねても、誰も知らないと言います。

二階まで探し終え、もう一度自分の部屋へ戻ったとき、向かいの扉が開きました。

佐伯さんの奥さんでした。


「どうしたの?」

私は事情を話しました。

娘がいなくなったこと。

赤い靴を履いて出ていったらしいこと。

どこを探しても見つからないこと。

奥さんは驚いた顔をして、廊下の左右を見ました。


それから私に、

「うちには来ていないわよ」

と言いました。

私は、まだ佐伯さんの家にいるかどうかは尋ねていませんでした。

少し気になりましたが、そのときは娘を捜すことで頭がいっぱいでした。


「見かけたら、すぐ教えてください」

そう頼み、階段へ向かおうとしました。

すると奥さんが私の腕をつかみました。

「下には行かないほうがいいわ」

思ったより強い力でした。


「もう暗くなるから。あなたは家で待っていなさい」

奥さんはそう言いました。

私は腕を振りほどきました。

娘がいないのに、家で待っていることなどできません。

奥さんは困ったような顔をしていました。

怒っているようにも見えました。


「子どもは、帰りたくなれば戻ってくるわ」

「四歳なんです」

「でも、いつまでも探していたら、戻ってきても会えないでしょう」

話がかみ合いませんでした。

そのとき、佐伯さんの部屋の奥から、小さな音がしました。

何かが床に落ちたような音です。

私が扉の隙間へ目を向けると、奥さんはすぐに扉を引きました。


「猫よ」

佐伯さんの家で猫を飼っているとは、それまで一度も聞いたことがありませんでした。

鳴き声も聞いた覚えがありません。

私は奥さんの手を払い、扉に近づきました。

「娘、そちらにいませんか」

奥さんは黙りました。

「さっき、来ていないって言ったじゃない」

「確認させてください」

「いないわよ」

「名前を呼ばせてください」

私が声を大きくすると、奥さんは廊下へ出て、体で玄関を隠しました。


その背後で扉が閉まりました。

鍵をかける音がしました。

ここで初めて、私は警察を呼ばなければと思いました。

自分の部屋へ戻り、電話を取ろうとしたときです。

向かいの部屋から、何かを叩く音が聞こえました。

三回ほど、続けて。

扉を叩く音ではありません。

壁か、床を叩いているような、鈍い音でした。


私は玄関へ戻りました。

佐伯さんの扉に耳を近づけると、奥から微かな声が聞こえました。

娘の声でした。

「お母さん」

今でも、はっきり覚えています。

大きな声ではありませんでした。

泣いてもいません。

ただ、遠くから呼んでいるような、小さな声です。


私は扉を何度も叩きました。

「娘を出してください」

返事はありません。

「警察を呼びます」

そう言うと、しばらくして鍵が開きました。


扉の隙間から、奥さんが顔を出しました。

笑っていました。

いつも廊下で会うときと同じ、穏やかな笑顔でした。

「何を言っているの」

「今、娘の声がしました」

「聞き間違いよ」

「中を見せてください」

「人の家へ勝手に入るつもり?」

「娘がいるんでしょう」

私が扉を押そうとすると、奥さんも内側から押し返しました。


私たちはしばらく、無言で扉を押し合いました。

その間にも、娘の声がしました。

「お母さん」

今度は先ほどより近く聞こえました。


私は必死でした。

大声を出し、助けを呼びました。

騒ぎを聞いた近所の方たちが廊下へ出てきました。

事情を話すと、同じ階に住む男性が佐伯さんの扉を押さえ、別の方が管理人を呼びに行ってくれました。

奥さんはその間も、娘はいないと言い続けていました。


「この人、おかしいのよ」

私を指さし、近所の人たちへそう話していました。

「子どもがいなくなって、混乱しているの」

管理人が合鍵を持ってきました。

奥さんは鍵を開けさせまいとしましたが、近所の男性が取り押さえてくれました。


扉を開けると、玄関は薄暗く、異様な臭いがしました。

生ごみのようでもあり、湿った布のようでもある、不快な臭いです。

部屋の中は外から想像していたより散らかっていました。

廊下には段ボール箱が積まれ、居間には古い新聞や雑誌が山のように置かれていました。

娘の名前を呼ぶと、奥の部屋から返事がありました。


「ここ」

押し入れの中でした。

襖の前には、小さな箪笥が置かれていました。

一人では動かせないほど大きなものではありません。

ですが、幼い娘が中から出ることはできませんでした。

箪笥をどかし、襖を開けると、娘が布団の上に座っていました。


泣いてはいませんでした。

赤い靴も履いたままでした。

怪我もありません。

私の顔を見ると、安心したように笑いました。

私は娘を抱きしめました。

何度も名前を呼びました。

娘は落ち着いていました。

怖がっている様子もありませんでした。

どうして佐伯さんの家に入ったのかと尋ねると、

「おばちゃんが呼んだの」

と答えました。


奥さんが玄関から手招きをしたので、遊びに行ったのだそうです。

部屋に入るとジュースを出してくれた。

そのあと、かくれんぼをしようと言われた。

娘が押し入れに入ると、外から襖を閉められた。

いつまで待っても探しに来ないので、私を呼んだという話でした。


警察が来て、佐伯さんの奥さんは連れていかれました。

その日の夜、夫も早退して帰ってきました。

娘に何もなかったことを、二人で何度も喜びました。


ただ、私はどうしても気になることがありました。

佐伯さんの奥さんが、なぜ娘を押し入れに閉じ込めたのか。

警察の方も尋ねたそうですが、奥さんはまともに答えなかったと聞きました。


「子どもが遊びに来ただけ」

「母親が大騒ぎした」

「少し隠れてもらっただけ」

言うことが毎回変わり、理由は最後まで分からなかったそうです。


佐伯さんのご主人は、その日のうちに帰ってきませんでした。

翌日も、その次の日も姿を見せませんでした。

警察から詳しい説明はありませんでしたが、近所の噂では、かなり前から別居していたそうです。


奥さんは一人で暮らしていたことになります。

それなのに、私たちは毎晩のように、向かいの部屋から男性の話し声を聞いていました。

夫婦でテレビを見ているのだと思っていました。

何を話しているかまでは分かりません。

奥さんの声。

低い男性の声。

時々、二人で笑う声。

それが何か月も続いていたんです。


佐伯さんの奥さんがいなくなってから、部屋はしばらく警察が調べていました。

数日後、私たちは事情を聞くため、管理人室へ呼ばれました。

そこで警察の方から、娘について確認されました。


「お子さんは、押し入れの中で何か見ませんでしたか」

私は娘に尋ねました。

娘は首を横に振りました。

暗かったので、何も見えなかったと言います。


「誰かと話しませんでしたか」

そう聞かれると、娘は少し考えました。

そして、

「おじちゃんと話した」

と答えました。

私も夫も驚きました。


押し入れの中に誰かいたのかと尋ねると、娘はまた首を横に振りました。

「隣にいたの」

押し入れの壁の向こうから、男の人の声がしたそうです。


壁越しに話しかけてきた。

名前を聞かれた。

何歳か聞かれた。

お母さんは優しいか、と尋ねられた。

娘は素直に答えたそうです。

最後に、その男は娘へ言いました。

「もうすぐ、お母さんも来るよ」

警察の方は、それ以上娘に質問しませんでした。


私たちにも、何が見つかったのかは教えてくれませんでした。

ただ、佐伯さんの部屋の押し入れは、私たちの部屋とは接していません。

建物の構造上、壁の向こうにあるのは外です。

三階なので、人が立てる場所もありません。


娘が声を聞いたという時間、外の地面や廊下に誰かがいたという話もありませんでした。

私たちは、事件から一か月もたたないうちに団地を出ました。

夫の転勤という形にしてもらい、離れた町へ引っ越しました。

娘はあの出来事を、ほとんど覚えていません。


今は家庭を持ち、子どももいます。

本人には、詳しい話をしていません。

忘れているなら、そのほうがいいと思うからです。

佐伯さんの奥さんがその後どうなったのかも、私は知りません。


ただ、一度だけ、引っ越したあとに電話がかかってきたことがあります。

新しい家へ移って、半年ほど経った頃です。

夜の十一時を過ぎていました。

夫はまだ帰宅しておらず、娘は隣の部屋で眠っていました。


電話に出ても、相手は何も言いませんでした。

無言電話だと思い、切ろうとしたときです。

受話器の向こうから、男性の声がしました。

低い声でした。

聞き覚えはありません。

男は、


「向かいの奥さんは、元気ですか」


と尋ねました。

私は何も答えず、電話を切りました。

それからすぐ、娘の部屋から声がしました。

「お母さん」

慌てて行くと、娘はベッドの上に起きていました。

怖い夢でも見たのかと思い、抱きしめました。

娘は眠そうな顔で、部屋の壁を指さしました。


「おじちゃんが呼んでるよ」


そう言いました。

指を向けた壁の向こうには、誰もいません。

そこは団地ではなく、一戸建てでした。

壁の向こうは、家の外です。

私はその夜、娘と同じ布団で朝まで過ごしました。

何も聞こえなかったと思います。

少なくとも、私は聞いていません。


ただ、翌朝になると、娘の部屋の壁に小さな跡が残っていました。

子どもの手のひらほどの高さに、黒ずんだ指の跡が五つ。

壁の外側ではなく、

部屋の中から触れたようについていました。



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