⑩ 保護した男
これは、私がまだ警察官だった頃の話です。
当時は山間部を含む小さな町の交番に勤務していました。
繁華街はなく、大きな事件もほとんど起こりません。主な仕事といえば、交通事故の処理や高齢者宅への訪問、道を尋ねる観光客への案内などです。
夜勤中も、何事もないまま朝を迎えることが珍しくありませんでした。
その通報が入ったのは、十二月の初め。
時刻は午後十一時を少し過ぎた頃です。
山道を車で走っていた人から、
「バス停に若い男が立っている」
という連絡がありました。
それだけなら、警察へ知らせるようなことではありません。
しかし、その男は靴を履いておらず、雪の残る道路を何度も横断していたそうです。
声をかけても、
「終点まで乗っていた」
と繰り返すばかり。
自分の名前も答えなかったといいます。
事故につながる危険があったため、同僚と二人で現場へ向かいました。
通報された場所は、「宮ノ下」という停留所でした。
駅と山間部の集落を結ぶ路線バスの停留所です。
周囲に民家はありません。
道路の片側には林。反対側は、川へ下りる急な斜面になっています。
昼間でも人通りは少なく、夜になれば街灯もほとんどない場所です。
私はその停留所を知っていました。
何度も前を通ったことがあります。
ただ、そこでバスを待つ人を見た記憶はありません。
現場に着くと、若い男が標識の下に立っていました。
年齢は二十代前半くらい。
黒い上着を着て、小さな鞄を胸元に抱えています。
通報どおり、靴を履いていませんでした。
靴下もありません。
素足で、道路脇の雪の上に立っていました。
足は赤くなり、ところどころ皮膚が切れていました。
私たちが近づいても、逃げようとはしません。
ただ、道路の向こう側を見ていました。
「警察です。大丈夫ですか」
声をかけると、男はようやくこちらを向きました。
顔色が悪く、ひどく疲れているように見えました。
酒の臭いはしません。
薬物を使用したような様子も、少なくとも外見からは感じませんでした。
「お名前を教えてください」
男は口を開きましたが、すぐには声が出ませんでした。
やがて、小さく言いました。
「置いていかれました」
「誰にですか」
「バスに」
最終便の乗客だろうと思いました。
降りる場所を間違えたのかもしれません。
「ここで降りたんですね」
そう尋ねると、男は強く首を横に振りました。
「降りてません」
「では、どうしてここにいるんですか」
「分かりません」
男は自分の足元を見ました。
靴を履いていないことに、そのとき初めて気づいたような反応でした。
「靴はどうしました?」
返事はありません。
もう一度尋ねても、男は雪の上を見たままです。
そのうち、独り言のようにつぶやきました。
「僕は終点まで乗っていた」
「終点に着いたんですか」
「着きました」
「そこから歩いてきた?」
男はまた首を横に振りました。
話がかみ合いません。
寒さで正常に考えられなくなっている可能性もありました。
私たちは男をパトカーへ乗せました。
車内の暖房を強くし、毛布を渡します。
男は抵抗しませんでした。
後部座席へ座ると、鞄を膝の上に置き、両手で抱え込みました。
「中を確認してもいいですか」
身元を確認できるものが入っていないか調べるためです。
男は少し迷ったあと、鞄を渡してきました。
中に入っていたのは、財布、携帯電話、小さなノート、それからペットボトルの水。
特に変わったものはありません。
財布には運転免許証が入っていました。
住所は、県内の別の市です。
名前も分かりました。
ここでは仮に、佐藤さんとしておきます。
免許証の写真と目の前の男は、同一人物に見えました。
有効期限も切れていません。
「佐藤さん、ご自宅へ連絡してもいいですか」
男は答えませんでした。
携帯電話を確認すると、電源が入らない状態でした。
水に濡れた形跡はないのに、画面は真っ暗です。
財布には、紙の乗車券が一枚入っていました。
当時でも路線バスは整理券方式でしたから、切符を使うことはほとんどありません。
かなり古い券に見えました。
紙が黄ばみ、端も傷んでいます。
乗車した停留所は、宮ノ下。
降車する場所の欄には、
「一つ前」
と印字されていました。
終点の一つ前が宮ノ下です。
宮ノ下から乗り、「一つ前」で降りるというのは意味が通りません。
印刷が薄くなっているため、別の文字を読み間違えた可能性もありました。
「この乗車券は、あなたのものですか」
男に見せると、表情が変わりました。
驚いたというより、怯えたように見えました。
「どこにありました?」
「財布の中です」
「僕のじゃありません」
男は受け取ろうとしませんでした。
乗車券から体を遠ざけ、ドア側へ寄りました。
「では、誰のものですか」
「女の人です」
「一緒に乗っていた人?」
男はうなずきました。
「どんな女性ですか」
「分かりません」
「顔を見ていない?」
「見たことはあります」
矛盾した答えでした。
詳しく聞こうとすると、男は頭を抱えました。
「顔が思い出せないんです」
窓の外には、宮ノ下の標識が見えています。
男は一度だけそちらを見ました。
その直後、体をこわばらせました。
「出してください」
急にドアへ手を伸ばしました。
後部座席は内側から開かないようにしてあります。
「落ち着いてください」
「まだいる」
「誰がですか」
男は停留所のほうを指さしました。
標識の下には誰もいません。
林の中にも、人影は見えませんでした。
「女の人が立ってる」
「どこですか」
「さっきの場所です」
私と同僚には、何も見えません。
男は両手で耳を塞ぎました。
「乗せないでください」
その声は震えていました。
「何をですか」
「僕を」
意味が分かりませんでした。
男は続けます。
「外にいるのは僕です」
私はもう一度、停留所を見ました。
人影などありません。
それでも、男には誰かが見えているらしい。
視線は標識の横から動きませんでした。
「外にいるあなたを、車へ乗せるなということですか」
男は答えません。
唇を震わせながら、同じ言葉を繰り返しました。
「僕を乗せないで」
それ以上、現場にいるのは危険だと判断しました。
私たちは交番へ戻ることにしました。
パトカーが発進すると、男は後ろの窓から停留所を見続けていました。
やがて林が見えなくなっても、姿勢を変えません。
「もう誰もいませんよ」
私が言うと、男は小さく答えました。
「追いかけてきています」
後方を確認しました。
山道には車も人もいません。
ただ、少し離れた場所で街灯が一つずつ消えていきました。
こちらへ向かって、順番に。
古い設備でしたから、故障かもしれません。
雪や風の影響で消えた可能性もある。
そう考えました。
しかし、私たちの車が通過する直前になると、街灯は再び点灯しました。
バックミラーの中だけが暗くなる。
その状態が、山道を抜けるまで続きました。
交番へ戻ったあと、佐藤さんの家族へ連絡しました。
電話に出たのは母親でした。
本人を保護していることを伝えると、最初は詐欺を疑われました。
佐藤さんは、自宅の自室にいるというのです。
私は聞き間違えたと思いました。
「今、ご本人はご自宅にいらっしゃるんですか」
「はい。少し前に帰ってきました」
母親によると、息子は夕方から出かけていた。
午後十一時頃に帰宅し、体調が悪いと言って自室へ入ったそうです。
玄関には靴もあります。
黒い上着を着て、小さな鞄を持っていた。
私たちが保護した男と、服装まで一致していました。
母親へ、本人を電話に出してもらえるか頼みました。
しばらく待つと、若い男性の声が聞こえました。
「もしもし」
目の前の佐藤さんが、顔を上げました。
受話器から聞こえた声に反応したのだと思います。
電話の男性へ、名前と生年月日を確認しました。
免許証の内容と一致しています。
「今、どこにいますか」
「家です」
「今夜、路線バスを利用しましたか」
電話の男性は少し黙りました。
「乗りました」
「宮ノ下で降りましたか」
「降りてません」
目の前の男と同じ答えでした。
「終点まで乗ったんですか」
「はい」
「そのあと、どうやって帰宅しました?」
電話の向こうで呼吸音が止まりました。
長い沈黙のあと、男性は尋ねました。
「そっちにもいるんですか」
私は答えられませんでした。
目の前の佐藤さんは、受話器を見つめています。
顔色がさらに悪くなっていました。
「何がいるんですか」
こちらから聞き返すと、電話の男性は小さく笑いました。
乾いた、不自然な声でした。
「僕です」
電話はそこで切れました。
かけ直してもつながりません。
数分後、母親から再び連絡がありました。
息子の部屋に誰もいないというのです。
窓は内側から施錠されていました。
玄関から出た様子もない。
部屋には黒い上着と、小さな鞄だけが残されていました。
鞄の中身を確認してもらいました。
財布。
電源の入らない携帯電話。
小さなノート。
ペットボトルの水。
私たちが預かっているものと、ほぼ同じでした。
ただし、母親が見つけた財布には免許証が入っていません。
代わりに、古い乗車券が一枚入っていました。
乗車した停留所は宮ノ下。
行き先は、
「一つ前」
私たちの手元にあるものと同じです。
それからの対応については、詳しく書けません。
上司へ報告し、佐藤さんは病院で診察を受けることになりました。
薬物反応は出ていません。
大きな外傷もなく、足の傷も軽いものでした。
精神状態は不安定でしたが、自分の名前や家族構成は正確に答えられました。
本人であることを疑う理由はありません。
母親も病院へ来ました。
保護した男を見るなり、間違いなく息子だと言いました。
顔や声だけではありません。
幼い頃の傷跡や、家族しか知らない出来事についても一致したそうです。
では、自宅へ帰ってきた男は誰だったのか。
その答えは出ませんでした。
自宅に残されていた鞄と、私たちが預かった鞄には、細かな違いがありました。
傷の位置。
ペットボトルの銘柄。
ノートに書かれた内容。
片方には、ある日の予定が書かれていた。
もう片方には、同じ日の出来事が過去形で記されている。
どちらが本物か判断できません。
古い乗車券も二枚ありました。
番号だけが違っていました。
連続した番号です。
まるで同時に二人分発行されたように。
佐藤さんは数日間入院しました。
その後、家族と一緒に町を離れたと聞いています。
宮ノ下で何があったのかは、最後まで思い出せませんでした。
本人の記憶では、最終便に乗ったあと眠ってしまった。
目を覚ますと、バスは終点に着いていた。
運転手に起こされ、料金を払った。
降りる直前、運転手から、
「さっきも払いましたよね」
と言われたそうです。
意味が分からず、もう一度運賃を払った。
バスを降りて数歩歩いたところで、誰かに後ろから名前を呼ばれた。
振り返ると、宮ノ下の標識の下に立っていた。
それ以外は覚えていない。
終点と宮ノ下の間は、歩けば一時間以上かかります。
瞬間的に移動できる距離ではありません。
靴がなくなった理由も分かりませんでした。
私は後日、バス会社へ話を聞きに行きました。
その晩の最終便を運転していた人は、しばらく乗務を外れていました。
直接会うことはできません。
会社側から詳しい説明もありませんでした。
ただ、運行記録では、宮ノ下で一人が降り、終点でも一人が降りたことになっていました。
車内にいた乗客は、一人だけ。
運賃箱には、二人分の料金が残っていたそうです。
防犯映像について尋ねましたが、
「機器の不具合で確認できなかった」
と言われました。
それ以上、調べることはできませんでした。
事件性があると判断できる材料もなく、公式な記録には、体調不良者を保護した事案として残りました。
報道も短いものでした。
山間部の停留所付近で、靴を履いていない若い男性が保護された。
男性は命に別状なし。
それだけです。
数年後、私は異動し、その地域を離れました。
警察を退職してからも、宮ノ下を通ることはありませんでした。
ところが昨年、昔の同僚から電話がありました。
停留所が廃止されることになったというのです。
利用者がいないため、標識を撤去する。
その作業に立ち会ったところ、地面の中から大量の古い乗車券が見つかったそうです。
どれも宮ノ下から乗車したことになっていました。
行き先の欄は、すべて同じ。
「一つ前」
年代はばらばらです。
何十年も前のものから、比較的新しいものまであった。
発行番号はすべて連続していたそうです。
一枚だけ、裏に文章が書かれていました。
同僚は電話口で、それを読み上げました。
「先に降りた方を迎えに行きます」
誰が書いたのかは分かりません。
インクは新しく、撤去の数日前に書かれたように見えたそうです。
標識は予定どおり取り外されました。
これで妙なことも起きなくなるだろう。
同僚はそう話していました。
しかし、撤去した翌朝。
以前と同じ場所に、宮ノ下の標識が立っていたそうです。
新しいものではありません。
錆びて、文字が薄くなった古い標識。
撤去したはずの、元のものです。
業者の倉庫を確認すると、取り外した標識も残っていました。
同じものが二本存在することになります。
片方は道路脇。
もう片方は倉庫の中。
警察へ連絡がありましたが、盗難でも交通事故でもありません。
誰かの悪ふざけとして処理されたと聞いています。
同僚は最後に、もう一つ教えてくれました。
道路脇へ戻っていた標識の下に、若い男が立っていたそうです。
黒い上着を着て、小さな鞄を持っていた。
声をかけると、男は、
「終点まで乗っていました」
と答えた。
顔は、私たちが保護した佐藤さんによく似ていたそうです。
ただ、当時から十年以上たっているのに、
年齢はまったく変わっていなかった。
男は警察が到着する前にいなくなりました。
雪の上には、足跡が残っていたそうです。
裸足の跡が二人分。
一つは林の中から停留所へ向かっている。
もう一つは停留所から林の中へ続いている。
どちらが来た跡で、どちらが帰った跡なのか。
見ただけでは分からなかったそうです。
それ以来、私は路線バスへ乗るとき、必ず乗客の人数を確認するようになりました。
乗ったときに何人いたか。
途中で誰が降りたか。
終点に何人残っているか。
だからといって、何かを防げるとは思っていません。
ただ、人数が合わないことに気づいたら、終点の一つ前では絶対に降りない。
そう決めています。
先月、久しぶりに夜のバスへ乗りました。
乗客は、私を含めて四人。
途中で二人が降り、残ったのは私と若い男性だけでした。
男性は黒い上着を着て、小さな鞄を膝に置いていました。
どこかで見た顔でした。
思い出せないまま見ていると、男性がこちらを向きました。
「すみません」
小さな声でした。
「次は、終点の一つ前ですか」
私は答えませんでした。
男性は困ったように窓の外を見ました。
しばらくして、降車ボタンが鳴りました。
押した人はいません。
車内アナウンスが流れました。
「次は、宮ノ下。宮ノ下です」
あの停留所は、もう廃止されているはずです。
運転手も何も言いませんでした。
速度を落とし、暗い山道の端へバスを寄せていきます。
若い男性が席を立ちました。
私は反射的に腕をつかみました。
「降りないほうがいい」
男性は不思議そうに私を見ました。
「どうしてですか」
うまく説明できませんでした。
そのうちバスが止まり、前の扉が開きました。
外には、古い標識が立っていました。
その下に若い男が一人。
黒い上着。
小さな鞄。
私の隣にいる男性と、同じ顔でした。
外の男はバスへ近づきません。
ただ、こちらを見ていました。
やがて、ゆっくり自分の足元を指さしました。
裸足でした。
隣の男性が、私の手を振りほどきました。
「靴を返さないと」
そう言って、バスを降りていきました。
扉が閉まりました。
私は後ろの窓から二人を見ていました。
同じ顔をした男たちは、標識の下で向かい合っています。
片方が、もう片方へ靴を渡しました。
どちらが履いたのかは見えませんでした。
バスが発車したからです。
カーブを曲がる直前、もう一度だけ後ろを確認しました。
標識の下には、一人だけ残っていました。
靴を履いているのか。
裸足なのか。
暗くて分かりません。
ただ、その男は両手で小さな鞄を抱え、
走り去るバスを見ながら笑っていました。
まるで今度こそ、
正しいほうを降ろすことができたというように。




