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10/13

⑩ 保護した男

これは、私がまだ警察官だった頃の話です。

当時は山間部を含む小さな町の交番に勤務していました。


繁華街はなく、大きな事件もほとんど起こりません。主な仕事といえば、交通事故の処理や高齢者宅への訪問、道を尋ねる観光客への案内などです。

夜勤中も、何事もないまま朝を迎えることが珍しくありませんでした。


その通報が入ったのは、十二月の初め。

時刻は午後十一時を少し過ぎた頃です。

山道を車で走っていた人から、

「バス停に若い男が立っている」

という連絡がありました。


それだけなら、警察へ知らせるようなことではありません。

しかし、その男は靴を履いておらず、雪の残る道路を何度も横断していたそうです。

声をかけても、

「終点まで乗っていた」

と繰り返すばかり。


自分の名前も答えなかったといいます。

事故につながる危険があったため、同僚と二人で現場へ向かいました。

通報された場所は、「宮ノ下」という停留所でした。

駅と山間部の集落を結ぶ路線バスの停留所です。

周囲に民家はありません。


道路の片側には林。反対側は、川へ下りる急な斜面になっています。

昼間でも人通りは少なく、夜になれば街灯もほとんどない場所です。

私はその停留所を知っていました。

何度も前を通ったことがあります。

ただ、そこでバスを待つ人を見た記憶はありません。


現場に着くと、若い男が標識の下に立っていました。

年齢は二十代前半くらい。

黒い上着を着て、小さな鞄を胸元に抱えています。

通報どおり、靴を履いていませんでした。

靴下もありません。

素足で、道路脇の雪の上に立っていました。

足は赤くなり、ところどころ皮膚が切れていました。

私たちが近づいても、逃げようとはしません。

ただ、道路の向こう側を見ていました。


「警察です。大丈夫ですか」

声をかけると、男はようやくこちらを向きました。

顔色が悪く、ひどく疲れているように見えました。

酒の臭いはしません。

薬物を使用したような様子も、少なくとも外見からは感じませんでした。


「お名前を教えてください」

男は口を開きましたが、すぐには声が出ませんでした。

やがて、小さく言いました。

「置いていかれました」

「誰にですか」

「バスに」

最終便の乗客だろうと思いました。

降りる場所を間違えたのかもしれません。


「ここで降りたんですね」

そう尋ねると、男は強く首を横に振りました。

「降りてません」

「では、どうしてここにいるんですか」

「分かりません」

男は自分の足元を見ました。

靴を履いていないことに、そのとき初めて気づいたような反応でした。


「靴はどうしました?」

返事はありません。

もう一度尋ねても、男は雪の上を見たままです。

そのうち、独り言のようにつぶやきました。


「僕は終点まで乗っていた」

「終点に着いたんですか」

「着きました」

「そこから歩いてきた?」

男はまた首を横に振りました。

話がかみ合いません。

寒さで正常に考えられなくなっている可能性もありました。

私たちは男をパトカーへ乗せました。


車内の暖房を強くし、毛布を渡します。

男は抵抗しませんでした。

後部座席へ座ると、鞄を膝の上に置き、両手で抱え込みました。

「中を確認してもいいですか」

身元を確認できるものが入っていないか調べるためです。


男は少し迷ったあと、鞄を渡してきました。

中に入っていたのは、財布、携帯電話、小さなノート、それからペットボトルの水。

特に変わったものはありません。

財布には運転免許証が入っていました。

住所は、県内の別の市です。

名前も分かりました。


ここでは仮に、佐藤さんとしておきます。

免許証の写真と目の前の男は、同一人物に見えました。

有効期限も切れていません。

「佐藤さん、ご自宅へ連絡してもいいですか」

男は答えませんでした。


携帯電話を確認すると、電源が入らない状態でした。

水に濡れた形跡はないのに、画面は真っ暗です。

財布には、紙の乗車券が一枚入っていました。

当時でも路線バスは整理券方式でしたから、切符を使うことはほとんどありません。

かなり古い券に見えました。

紙が黄ばみ、端も傷んでいます。


乗車した停留所は、宮ノ下。

降車する場所の欄には、

「一つ前」

と印字されていました。

終点の一つ前が宮ノ下です。

宮ノ下から乗り、「一つ前」で降りるというのは意味が通りません。


印刷が薄くなっているため、別の文字を読み間違えた可能性もありました。

「この乗車券は、あなたのものですか」

男に見せると、表情が変わりました。

驚いたというより、怯えたように見えました。


「どこにありました?」

「財布の中です」

「僕のじゃありません」

男は受け取ろうとしませんでした。

乗車券から体を遠ざけ、ドア側へ寄りました。

「では、誰のものですか」

「女の人です」

「一緒に乗っていた人?」

男はうなずきました。


「どんな女性ですか」

「分かりません」

「顔を見ていない?」

「見たことはあります」

矛盾した答えでした。

詳しく聞こうとすると、男は頭を抱えました。

「顔が思い出せないんです」

窓の外には、宮ノ下の標識が見えています。

男は一度だけそちらを見ました。

その直後、体をこわばらせました。


「出してください」

急にドアへ手を伸ばしました。

後部座席は内側から開かないようにしてあります。

「落ち着いてください」

「まだいる」

「誰がですか」

男は停留所のほうを指さしました。


標識の下には誰もいません。

林の中にも、人影は見えませんでした。

「女の人が立ってる」

「どこですか」

「さっきの場所です」

私と同僚には、何も見えません。

男は両手で耳を塞ぎました。


「乗せないでください」

その声は震えていました。

「何をですか」

「僕を」

意味が分かりませんでした。

男は続けます。

「外にいるのは僕です」

私はもう一度、停留所を見ました。


人影などありません。

それでも、男には誰かが見えているらしい。

視線は標識の横から動きませんでした。

「外にいるあなたを、車へ乗せるなということですか」

男は答えません。

唇を震わせながら、同じ言葉を繰り返しました。


「僕を乗せないで」


それ以上、現場にいるのは危険だと判断しました。

私たちは交番へ戻ることにしました。


パトカーが発進すると、男は後ろの窓から停留所を見続けていました。

やがて林が見えなくなっても、姿勢を変えません。

「もう誰もいませんよ」

私が言うと、男は小さく答えました。


「追いかけてきています」

後方を確認しました。

山道には車も人もいません。

ただ、少し離れた場所で街灯が一つずつ消えていきました。

こちらへ向かって、順番に。

古い設備でしたから、故障かもしれません。

雪や風の影響で消えた可能性もある。

そう考えました。


しかし、私たちの車が通過する直前になると、街灯は再び点灯しました。

バックミラーの中だけが暗くなる。

その状態が、山道を抜けるまで続きました。

交番へ戻ったあと、佐藤さんの家族へ連絡しました。

電話に出たのは母親でした。

本人を保護していることを伝えると、最初は詐欺を疑われました。


佐藤さんは、自宅の自室にいるというのです。

私は聞き間違えたと思いました。

「今、ご本人はご自宅にいらっしゃるんですか」

「はい。少し前に帰ってきました」

母親によると、息子は夕方から出かけていた。

午後十一時頃に帰宅し、体調が悪いと言って自室へ入ったそうです。

玄関には靴もあります。


黒い上着を着て、小さな鞄を持っていた。

私たちが保護した男と、服装まで一致していました。

母親へ、本人を電話に出してもらえるか頼みました。

しばらく待つと、若い男性の声が聞こえました。


「もしもし」

目の前の佐藤さんが、顔を上げました。

受話器から聞こえた声に反応したのだと思います。

電話の男性へ、名前と生年月日を確認しました。

免許証の内容と一致しています。

「今、どこにいますか」

「家です」

「今夜、路線バスを利用しましたか」

電話の男性は少し黙りました。


「乗りました」

「宮ノ下で降りましたか」

「降りてません」

目の前の男と同じ答えでした。

「終点まで乗ったんですか」

「はい」

「そのあと、どうやって帰宅しました?」

電話の向こうで呼吸音が止まりました。


長い沈黙のあと、男性は尋ねました。

「そっちにもいるんですか」

私は答えられませんでした。

目の前の佐藤さんは、受話器を見つめています。

顔色がさらに悪くなっていました。

「何がいるんですか」

こちらから聞き返すと、電話の男性は小さく笑いました。

乾いた、不自然な声でした。


「僕です」


電話はそこで切れました。

かけ直してもつながりません。

数分後、母親から再び連絡がありました。

息子の部屋に誰もいないというのです。

窓は内側から施錠されていました。

玄関から出た様子もない。

部屋には黒い上着と、小さな鞄だけが残されていました。


鞄の中身を確認してもらいました。

財布。

電源の入らない携帯電話。

小さなノート。

ペットボトルの水。

私たちが預かっているものと、ほぼ同じでした。


ただし、母親が見つけた財布には免許証が入っていません。

代わりに、古い乗車券が一枚入っていました。

乗車した停留所は宮ノ下。

行き先は、

「一つ前」

私たちの手元にあるものと同じです。


それからの対応については、詳しく書けません。

上司へ報告し、佐藤さんは病院で診察を受けることになりました。

薬物反応は出ていません。

大きな外傷もなく、足の傷も軽いものでした。

精神状態は不安定でしたが、自分の名前や家族構成は正確に答えられました。

本人であることを疑う理由はありません。


母親も病院へ来ました。

保護した男を見るなり、間違いなく息子だと言いました。

顔や声だけではありません。

幼い頃の傷跡や、家族しか知らない出来事についても一致したそうです。

では、自宅へ帰ってきた男は誰だったのか。

その答えは出ませんでした。


自宅に残されていた鞄と、私たちが預かった鞄には、細かな違いがありました。

傷の位置。

ペットボトルの銘柄。

ノートに書かれた内容。

片方には、ある日の予定が書かれていた。

もう片方には、同じ日の出来事が過去形で記されている。

どちらが本物か判断できません。


古い乗車券も二枚ありました。

番号だけが違っていました。

連続した番号です。

まるで同時に二人分発行されたように。

佐藤さんは数日間入院しました。

その後、家族と一緒に町を離れたと聞いています。

宮ノ下で何があったのかは、最後まで思い出せませんでした。

本人の記憶では、最終便に乗ったあと眠ってしまった。

目を覚ますと、バスは終点に着いていた。

運転手に起こされ、料金を払った。


降りる直前、運転手から、

「さっきも払いましたよね」

と言われたそうです。

意味が分からず、もう一度運賃を払った。

バスを降りて数歩歩いたところで、誰かに後ろから名前を呼ばれた。

振り返ると、宮ノ下の標識の下に立っていた。


それ以外は覚えていない。

終点と宮ノ下の間は、歩けば一時間以上かかります。

瞬間的に移動できる距離ではありません。

靴がなくなった理由も分かりませんでした。

私は後日、バス会社へ話を聞きに行きました。

その晩の最終便を運転していた人は、しばらく乗務を外れていました。


直接会うことはできません。

会社側から詳しい説明もありませんでした。

ただ、運行記録では、宮ノ下で一人が降り、終点でも一人が降りたことになっていました。

車内にいた乗客は、一人だけ。

運賃箱には、二人分の料金が残っていたそうです。

防犯映像について尋ねましたが、

「機器の不具合で確認できなかった」

と言われました。


それ以上、調べることはできませんでした。

事件性があると判断できる材料もなく、公式な記録には、体調不良者を保護した事案として残りました。

報道も短いものでした。

山間部の停留所付近で、靴を履いていない若い男性が保護された。

男性は命に別状なし。

それだけです。


数年後、私は異動し、その地域を離れました。

警察を退職してからも、宮ノ下を通ることはありませんでした。

ところが昨年、昔の同僚から電話がありました。

停留所が廃止されることになったというのです。

利用者がいないため、標識を撤去する。

その作業に立ち会ったところ、地面の中から大量の古い乗車券が見つかったそうです。

どれも宮ノ下から乗車したことになっていました。

行き先の欄は、すべて同じ。


「一つ前」


年代はばらばらです。

何十年も前のものから、比較的新しいものまであった。

発行番号はすべて連続していたそうです。

一枚だけ、裏に文章が書かれていました。

同僚は電話口で、それを読み上げました。


「先に降りた方を迎えに行きます」

誰が書いたのかは分かりません。

インクは新しく、撤去の数日前に書かれたように見えたそうです。

標識は予定どおり取り外されました。

これで妙なことも起きなくなるだろう。

同僚はそう話していました。


しかし、撤去した翌朝。

以前と同じ場所に、宮ノ下の標識が立っていたそうです。

新しいものではありません。

錆びて、文字が薄くなった古い標識。

撤去したはずの、元のものです。

業者の倉庫を確認すると、取り外した標識も残っていました。

同じものが二本存在することになります。


片方は道路脇。

もう片方は倉庫の中。

警察へ連絡がありましたが、盗難でも交通事故でもありません。

誰かの悪ふざけとして処理されたと聞いています。

同僚は最後に、もう一つ教えてくれました。


道路脇へ戻っていた標識の下に、若い男が立っていたそうです。

黒い上着を着て、小さな鞄を持っていた。

声をかけると、男は、

「終点まで乗っていました」

と答えた。


顔は、私たちが保護した佐藤さんによく似ていたそうです。

ただ、当時から十年以上たっているのに、

年齢はまったく変わっていなかった。

男は警察が到着する前にいなくなりました。

雪の上には、足跡が残っていたそうです。

裸足の跡が二人分。


一つは林の中から停留所へ向かっている。

もう一つは停留所から林の中へ続いている。

どちらが来た跡で、どちらが帰った跡なのか。

見ただけでは分からなかったそうです。


それ以来、私は路線バスへ乗るとき、必ず乗客の人数を確認するようになりました。

乗ったときに何人いたか。

途中で誰が降りたか。

終点に何人残っているか。

だからといって、何かを防げるとは思っていません。

ただ、人数が合わないことに気づいたら、終点の一つ前では絶対に降りない。

そう決めています。


先月、久しぶりに夜のバスへ乗りました。

乗客は、私を含めて四人。

途中で二人が降り、残ったのは私と若い男性だけでした。

男性は黒い上着を着て、小さな鞄を膝に置いていました。

どこかで見た顔でした。


思い出せないまま見ていると、男性がこちらを向きました。

「すみません」

小さな声でした。

「次は、終点の一つ前ですか」

私は答えませんでした。

男性は困ったように窓の外を見ました。

しばらくして、降車ボタンが鳴りました。

押した人はいません。

車内アナウンスが流れました。


「次は、宮ノ下。宮ノ下です」


あの停留所は、もう廃止されているはずです。

運転手も何も言いませんでした。

速度を落とし、暗い山道の端へバスを寄せていきます。

若い男性が席を立ちました。


私は反射的に腕をつかみました。

「降りないほうがいい」

男性は不思議そうに私を見ました。

「どうしてですか」

うまく説明できませんでした。

そのうちバスが止まり、前の扉が開きました。

外には、古い標識が立っていました。


その下に若い男が一人。

黒い上着。

小さな鞄。

私の隣にいる男性と、同じ顔でした。

外の男はバスへ近づきません。

ただ、こちらを見ていました。

やがて、ゆっくり自分の足元を指さしました。


裸足でした。

隣の男性が、私の手を振りほどきました。

「靴を返さないと」

そう言って、バスを降りていきました。

扉が閉まりました。

私は後ろの窓から二人を見ていました。

同じ顔をした男たちは、標識の下で向かい合っています。

片方が、もう片方へ靴を渡しました。

どちらが履いたのかは見えませんでした。

バスが発車したからです。


カーブを曲がる直前、もう一度だけ後ろを確認しました。

標識の下には、一人だけ残っていました。

靴を履いているのか。

裸足なのか。

暗くて分かりません。

ただ、その男は両手で小さな鞄を抱え、

走り去るバスを見ながら笑っていました。

まるで今度こそ、

正しいほうを降ろすことができたというように。



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