⑪ 壁を閉じた日
二十年ほど前、内装工事の仕事をしていました。
住宅や店舗の改修が中心で、古いアパートやマンションへ入ることも多かったです。
解体といっても、建物そのものを壊すわけではありません。
壁紙を剥がす。
床を張り替える。
傷んだ石膏ボードを外す。
そういった仕事です。
古い建物を触っていると、図面と実際の構造が合わないことがあります。
後から配管を通したり、間取りを変えたりしているからです。
壁を開けたら、使われていない水道管が出てきた。
塞がれた扉が見つかった。
床の下から前の住人の荷物が出てきた。
その程度なら、珍しくありませんでした。
あのマンションも、最初は普通の改修工事でした。
五階建ての建物で、築二十年ほど。
外から見れば、それほど古くありません。
駅からも近く、単身者向けの部屋が多い物件でした。
私たちが担当したのは、三階の一室です。
前の入居者が退去したあと、長く空室になっていると聞きました。
壁紙と床をすべて交換し、台所や浴室もきれいにする。
工事が終われば、すぐ次の入居者を募集する予定でした。
部屋はワンルームでした。
玄関から短い廊下があり、右側に台所。
奥に六畳ほどの居室。
居室の隅には、扉が二枚ついたクローゼットがあります。
最初に部屋を見たとき、少し妙な印象がありました。
狭いんです。
同じ建物のほかの部屋より、横幅がわずかに短い。
隣室と比べれば、畳半分ほど違っていたと思います。
同行していた若い職人も、
「この部屋だけ、壁が厚いですね」
と言いました。
管理会社の担当者へ尋ねると、
「配管が通っているんでしょう」
と答えました。
図面にも、クローゼットの奥に配管用の空間が記されています。
建物にはよくある構造です。
特に気にはしませんでした。
工事を始めて二日目。
クローゼットの壁紙を剥がしていた若い職人が、私を呼びました。
壁の一部に、細い切れ目がありました。
上から下まで、まっすぐ続いています。
壁紙を貼った状態では見えません。
剥がして初めて分かる程度の隙間でした。
工具を差し込むと、壁の一部が動きました。
固定されていると思っていた石膏ボードが、扉のように手前へ開いたんです。
向こう側には、暗い空間がありました。
幅は一メートルほど。
奥行きは、懐中電灯を向けても端まで見えません。
配管を通すための空洞にしては広すぎました。
人が横向きになれば、十分に歩けます。
空気がひどくこもっていました。
埃と、湿った布のような臭い。
それに混じって、誰かの体臭に似たものも感じました。
私は管理会社へ連絡しました。
担当者が来るまで、中へ入らないほうがいい。
そう判断しました。
ところが若い職人が、奥に何かあると言いました。
懐中電灯の光を向けると、床に毛布が敷いてあります。
その横には、ペットボトルと菓子の袋。
古びてはいましたが、何年も放置されたようには見えません。
菓子の袋には、まだ中身が残っていました。
「誰か住んでるんじゃないですか」
若い職人が言いました。
私も同じことを考えていました。
不法侵入者がいる可能性があります。
警察へ連絡するべきか迷いましたが、まず管理会社の担当者を待つことにしました。
十五分ほどして、担当者が到着しました。
空洞を見た瞬間、顔色が変わりました。
驚いたというより、
見つかってしまった。
そんな表情に見えました。
「これは、何ですか」
私が尋ねると、担当者はすぐには答えませんでした。
懐中電灯を受け取り、奥を照らします。
それから、
「以前、点検用に使っていた空間です」
と言いました。
「人が住んでいた形跡がありますよ」
「前の作業員が休憩に使ったんでしょう」
「食べ物が新しいです」
「清掃が十分じゃなかったのかもしれません」
話し方が不自然でした。
若い職人も疑っている様子でしたが、担当者は、
「今日はここを閉じてください」
と言いました。
「中を確認しなくていいんですか」
「必要ありません」
「誰かいたら危険ですよ」
「いません」
断定する言い方でした。
「どうして分かるんですか」
私が聞くと、担当者は少し黙りました。
やがて、
「この空間は、建物の外からしか入れません」
と答えました。
しかし、目の前には部屋から入れる扉があります。
そのことを指摘すると、
「だから、閉じてもらうんです」
と言われました。
私は納得できませんでした。
工事中に不審な空間を見つけた以上、内部を調べるべきです。
何か事故があれば、こちらの責任にもなります。
担当者と話している間、空洞の奥から物音がしました。
小さな音です。
布が擦れたような。
それから、板がわずかにきしむ音。
全員、黙りました。
若い職人が懐中電灯を奥へ向けました。
光の先で、何かが動いたように見えました。
「誰かいますか」
私が呼びかけました。
返事はありません。
もう一度、音がしました。
今度は、こちらへ近づいているようでした。
担当者が急に壁を閉じました。
かなり強い力でした。
「何するんですか」
「閉じてください」
声が震えていました。
「今、中に誰かいました」
「いません」
「音がしたでしょう」
担当者は壁を押さえたまま、繰り返しました。
「いないんです」
その直後。
壁の向こうから、三回音がしました。
コン、コン、コン。
私たちは動けませんでした。
少し間を置いて、また三回。
担当者は壁から手を離しません。
若い職人が、
「警察を呼びましょう」
と言いました。
すると、壁の向こうから女の声がしました。
「開けてください」
大きな声ではありません。
すぐ近くに顔を寄せ、静かに話しているようでした。
若い女性の声に聞こえました。
私は壁を開けようとしました。
担当者が腕をつかみました。
「駄目です」
「人がいるんですよ」
「人じゃありません」
その言葉を聞き、全員が止まりました。
担当者自身も、口にしてから後悔したような顔をしていました。
「どういう意味ですか」
私が問い詰めました。
担当者はしばらく何も話しませんでした。
壁の向こうからは、もう声がしません。
やがて担当者は、以前にも同じことがあったと話しました。
数年前、別の部屋の改修中に、壁の中へ入れる場所が見つかった。
中には毛布や食料があった。
作業員の一人が奥へ入り、女性を見つけたそうです。
女性は痩せていましたが、怪我はなく、普通に会話もできた。
どこから入ったのか尋ねると、
「ずっとここに住んでいる」
と答えたそうです。
警察へ連絡するため、作業員が一度部屋を出ました。
戻ったときには、女性はいなくなっていました。
空洞は外へ続いていません。
ほかの部屋へ入れる場所も、当時は見つからなかった。
それでも女性は消えていた。
その後、その部屋へ新しい住人が入りました。
しばらくして、
「誰かが留守中に部屋へ入っている」
という苦情が来たそうです。
飲み物が減っている。
知らない髪の毛が落ちている。
寝ている間に、服の位置が変わっている。
管理会社が調べても、侵入者は見つかりません。
住人は数か月で退去しました。
それから、同じようなことが別の部屋でも起きるようになった。
建物のどこかに、壁の中へ通じる空間がある。
管理会社も分かっていました。
しかし、構造をすべて調べるには大掛かりな工事が必要です。
問題が公になれば、入居者が一斉に退去するかもしれない。
だから、入口が見つかるたびに閉じていたそうです。
「それを、今まで隠していたんですか」
私は怒りました。
担当者は、
「中に人はいません」
と繰り返しました。
「さっき声がしたでしょう」
「声だけです」
その言い方が気になりました。
「中にいた女性を見た人は、その後どうなりました」
担当者は目をそらしました。
「仕事を辞めました」
「それだけですか」
「行方が分からなくなりました」
室内が静かになりました。
壁の向こうから音はしません。
それでも、すぐ近くで誰かが聞いている気がしました。
私は警察へ連絡すると言いました。
担当者は止めました。
工事代金を上乗せする。
今日のことは会社にも話さなくていい。
壁を閉じ、通常どおり仕上げてほしい。
そう頼んできました。
もちろん断りました。
若い職人にも、作業を中止するよう伝えました。
その日は工具を片づけ、全員で部屋を出ました。
警察へ相談しましたが、建物の所有者が点検用の空間だと説明したこともあり、すぐに大きな捜査にはなりませんでした。
人が閉じ込められている確かな証拠もありません。
翌日、あらためて確認に来ることになりました。
ところが翌朝。
部屋へ入ると、壁はすでに閉じられていました。
石膏ボードが新しく張られ、隙間もなくなっています。
壁紙まで貼られていました。
一晩で仕上げたとは思えないほど、きれいな状態です。
管理会社は、別の業者へ頼んだと言いました。
誰が作業したのかは教えてくれませんでした。
壁を開け直すことも拒否されました。
私はその仕事から手を引きました。
会社へ事情を話しましたが、
「面倒な物件には関わるな」
と言われただけです。
若い職人も、数日後に辞めました。
理由を尋ねると、夜中に自宅のクローゼットから声がすると言いました。
「開けてください」
毎晩、同じ言葉が聞こえる。
クローゼットの中を調べても、何もない。
それでも扉の内側には、細い引っかき傷が増えていく。
私は病院へ行くよう勧めました。
本人も疲れているのだろうと言っていました。
その後、連絡が取れなくなりました。
会社にも来なくなり、住んでいた部屋も引き払われていたそうです。
家族へ戻ったという話でしたが、確かめてはいません。
私はそれから数年、内装工事を続けました。
似たような空洞を見つけることはありませんでした。
やがて腰を痛め、現場仕事を辞めました。
あのマンションのことも、次第に考えなくなりました。
十年以上たってから、偶然その建物の近くを通りました。
外観はほとんど変わっていません。
塗装は新しくなり、入口には防犯カメラが設置されていました。
住人も普通に暮らしているようでした。
建物の前に、引っ越し業者の車が停まっていました。
若い男性が一人、荷物を運び込んでいます。
新しく入居する人なのでしょう。
私はしばらく見ていました。
声をかけるべきか迷いました。
壁の中のことを話したところで、信じてもらえるとは思えません。
それに、同じ部屋かどうかも分からない。
そのとき、管理会社の人らしい男性が出てきました。
以前の担当者とは別人です。
引っ越してきた男性へ鍵を渡し、何か説明していました。
二人が建物へ入る直前、管理会社の男が私に気づきました。
一瞬、驚いた顔をしました。
面識はありません。
それなのに、私を知っているような反応でした。
男は入居者を先に中へ入れ、こちらへ歩いてきました。
「何かご用ですか」
「以前、この建物の工事をした者です」
そう答えると、男は表情を変えませんでした。
「どの部屋ですか」
「三階です」
「昔のことは分かりません」
会話を終わらせたがっているようでした。
私は、
「壁の中の空間は、どうなりましたか」
と尋ねました。
男の顔から、わずかに笑みが消えました。
「何のことでしょう」
「閉じた場所です」
「そんなものはありません」
以前の担当者と、同じ答えでした。
男は建物へ戻ろうとしました。
その背中に、
「今も誰かいるんですか」
と尋ねました。
男は足を止めました。
振り返らずに答えました。
「入居者なら、います」
それだけ言って、中へ入っていきました。
私は建物を離れました。
その夜、昔一緒に働いていた会社の社長へ連絡しました。
当時の工事記録が残っていないか尋ねました。
社長はすでに引退していましたが、古い書類を倉庫に保管していると言いました。
数日後、見積書や現場写真を探してくれました。
確かに、あのマンションの記録が残っていました。
ただし、工事をした部屋番号が、私の記憶と違っていました。
私は三階の角部屋だと思っていました。
記録上は、四階の中央にある部屋です。
現場写真も送ってもらいました。
クローゼットの形。
壁紙の色。
台所の配置。
私が覚えている部屋と同じでした。
けれど窓の外には、三階からでは見えないはずの景色が写っています。
向かいの建物の屋上が、少し下に見えていました。
写真は四階で撮られています。
社長に、当時一緒にいた若い職人のことも尋ねました。
名前を伝えても、そんな人は雇っていなかったと言われました。
「三人で現場に入ったはずです」
「お前と俺の弟だけだ」
社長の弟は、現場管理をしていた人です。
年齢は私より上でした。
若い職人ではありません。
社長が送ってくれた集合写真には、確かに私と社長の弟が写っていました。
もう一人、見覚えのない女性もいました。
作業着を着て、私たちの間に立っています。
髪の長い、痩せた女性でした。
写真の裏には、三人の名前が書かれていたそうです。
私の名前。
社長の弟の名前。
そして女性の名前。
書かれていた名字は、私には読めませんでした。
文字が滲んでいたからです。
ただ、下の名前だけは読めました。
「美佐子」
私はその女性と働いた記憶がありません。
壁の中から聞こえた声の主なのかも分かりません。
写真について詳しく聞こうとしましたが、社長とはその後連絡が取れなくなりました。
電話番号が変わったのかもしれません。
家族に尋ねるほどの関係でもなかったため、そのままになっています。
先月、そのマンションに関する記事をインターネットで見つけました。
事件の記事ではありません。
一人暮らしの男性が、自宅に知らない物が増えていくという体験談でした。
冷蔵庫の飲み物。
洗面所の歯ブラシ。
女性用の靴。
やがてクローゼットの奥に、壁の中へ通じる扉を見つけた。
そこには毛布や食べ物、男性を撮影した写真が置かれていた。
細かな部分は、私の知っている話と違っていました。
壁の中にいたのは、同じ建物に住む女性だったと書かれていました。
警察に逮捕された、とも。
本当に人間だったのかもしれません。
管理会社が隠していた空間を、誰かが利用しただけなのかもしれない。
そう考えれば、すべて説明できます。
ただ、その体験談には一枚の写真が載っていました。
壁の中から見つかったという写真です。
部屋で眠っている男性を、クローゼットの隙間から撮影したもの。
男性の顔は隠されていました。
写真の端に、別の人物が少しだけ写っています。
作業着を着た男です。
石膏ボードを持ち、壁を閉じようとしていました。
私でした。
写真の日付は、私があのマンションで工事をした日より、十年以上あとになっていました。
私は写真が加工されたものだと思いました。
記事を書いた人へ連絡しましたが、返事はありません。
数日後、記事そのものが削除されました。
保存していた画像も、いつの間にか開けなくなっていました。
ただ、一枚だけ印刷してあります。
今も手元に残しています。
写真の中で、私は壁を閉じています。
そのすぐ後ろ。
空洞の暗がりに、女性の顔が見えます。
以前は気づきませんでした。
最近になって、少しずつ前へ出てきているんです。
印刷した写真が変わるはずはありません。
錯覚だと思います。
けれど、最初は目だけだった。
次に鼻まで見えるようになった。
今は、口元まで壁の外へ出ています。
昨日、写真の裏に文字が浮かんでいることに気づきました。
鉛筆で書いたような薄い字です。
「閉じるのは、もう少し待ってください」
私は写真を箱に入れ、物置の奥へしまいました。
今朝、箱を確認すると、写真はなくなっていました。
代わりに、透明な袋へ入った新品の歯ブラシが一本入っていました。
白い歯ブラシです。
捨てようと思いました。
けれど、洗面所へ行くと、
私が使っている歯ブラシの隣に、同じものが立っていました。
新品ではありません。
毛先が開き、濡れていました。
物置の壁には、昨日までなかった細い切れ目があります。
床から天井まで、まっすぐ続いています。
今のところ、開けるつもりはありません。
ただ、壁の向こうからときどき声がします。
「今度は、ちゃんと一緒に閉じてください」
誰の声なのか、私は知りません。
けれど不思議なことに、
以前、一緒に働いていた人の声のような気がするんです。




