⑫ 面会者名簿
これは、私が総合病院の医事課で働いていた頃の話です。
十年以上前になります。
医事課といっても、患者さんの治療に関わる仕事ではありません。入退院の手続きや会計、診療記録の整理などを担当する事務職です。
その病院では、建物の一部を改修することになり、古い書類を処分する作業が始まっていました。
現在は電子化されている記録も、昔はほとんどが紙でした。
入院台帳。
夜間受付の記録。
救急車の受け入れ表。
病棟ごとの面会者名簿。
保存期間を過ぎたものは廃棄し、必要な記録だけを読み取ってデータに残す。私は、その選別を任されていました。
作業場所は地下の資料室です。
棚には段ボール箱が天井近くまで積まれ、古い紙と埃の臭いがこもっていました。
窓はありません。
換気扇の低い音だけが、ずっと室内に響いています。
一人で作業することも多かったのですが、怖いと感じたことはありませんでした。
病院の書類ですから、亡くなった方の名前も当然出てきます。
最初のうちは気になりましたが、毎日扱っていると、名前も生年月日も数字のように見えてくるものです。
その名簿を見つけたのは、作業を始めて三日目でした。
古いバインダーに綴じられた、夜間面会者の記録です。
表紙には、二十年以上前の年度が書かれていました。
通常の面会時間を過ぎてから病棟へ入った人について、氏名や患者との関係を記入するものです。
急変した患者の家族や、遠方から駆けつけた親族などが記録されていました。
私は一枚ずつ確認し、必要な項目をパソコンへ入力していきました。
午前一時十八分。
面会者、小宮美佐子。
面会先、小宮美佐子。
最初は、同姓同名の親族なのだと思いました。
親子で同じ名前というのは珍しいでしょうが、絶対にないとは言い切れません。
ただ、続柄の欄には、
「本人」
と書かれていました。
記入ミスだと思い、付箋を貼りました。
受付の職員が患者名を両方の欄へ書いてしまったのでしょう。
昔の記録には、そうした間違いも少なくありません。
そのページを飛ばし、次の書類を確認しました。
しばらくすると、また同じ名前が出てきました。
午前一時十八分。
面会者、小宮美佐子。
面会先、小宮美佐子。
続柄、本人。
先ほどとは別の日付です。
病棟も違っていました。
一件目は五階の内科病棟。
二件目は三階の外科病棟です。
署名欄の字はよく似ていました。
細く、少し震えたような筆跡。
同じ人が書いたように見えます。
私は気になり、バインダーの残りを調べました。
同じ記録は全部で七件ありました。
日付はばらばらです。
数週間しか離れていないものもあれば、数年後の記録も混じっていました。
いずれも時刻は午前一時十八分。
面会者と面会先は小宮美佐子。
続柄は本人。
七件目だけ、備考欄に短い文章が残っていました。
「面会後、所在確認できず」
誰の所在が分からなくなったのかは書かれていません。
面会者なのか。
患者なのか。
それとも両方なのか。
患者番号を調べると、記録ごとに別の番号が使われていました。
年齢も住所も違います。
十九歳。
四十二歳。
七十六歳。
同じ名前の別人が、何年もかけて入院していたことになります。
しかし、七人全員の住所には共通点がありました。
番地が存在しないんです。
町名までは実在していました。
その先だけが、現在の地図にも古い住宅地図にも載っていません。
市町村合併や区画整理の影響かもしれないと思いました。
昔の住所には、現在使われていない表記もあります。
ところが、住所の一つに見覚えがありました。
正確には、以前どこかで見たような気がしただけです。
駅から少し離れた住宅街。
古い二階建ての家。
表札には小宮。
なぜそんな光景が頭に浮かんだのか分かりません。
その場所へ行った覚えはありませんでした。
私は上司へ名簿を見せました。
上司はしばらく記録を確認したあと、
「入力ミスだろう」
と言いました。
七件もあると伝えても、昔の書類だから何があっても不思議ではない、と取り合ってくれません。
患者情報が別人なら、同姓同名の人が複数いただけ。
時刻が同じなのも、夜勤者が実際の時間を確認せず、適当な数字を書いた可能性がある。
確かに、どれもあり得る説明です。
ただ、なぜ続柄まで全件「本人」なのか。
その点については、
「昔の人に聞かなければ分からない」
とだけ言われました。
私は、長く勤めている職員を何人か訪ねました。
ほとんどの人は、名簿そのものを知りませんでした。
唯一、定年後も週に数日働いていた元看護師が、名前を聞いて反応しました。
「その記録、まだ残っていたの」
驚いた声でした。
私は詳しい話を聞こうとしました。
元看護師は周囲を確認し、人のいない休憩室へ私を連れていきました。
昔、夜間受付に黒い服を着た女性が現れたことがある。
女性は、小宮美佐子という患者への面会を希望した。
病棟へ確認すると、患者の娘がすでに付き添っていた。
受付の女性は、自分も娘だと話していたらしい。
「それだけなら、家族間の事情か、勘違いで済んだんだけどね」
元看護師はそう言いました。
受付で名前を尋ねられた女性は、
「小宮美佐子です」
と答えた。
面会したい患者と、同じ名前です。
受付職員が対応に困っている間に、女性は姿を消しました。
防犯カメラには映っていなかったそうです。
その夜、入院していた小宮美佐子さんは亡くなりました。
時刻は午前一時十八分。
私は名簿にある記録の一件だと思いました。
しかし元看護師は首を横に振りました。
「それは、もっと最近の話」
私が見つけたバインダーは、それより十年以上前のものです。
では、同じことが繰り返されていたのでしょうか。
尋ねると、元看護師は答えませんでした。
代わりに、
「その名簿は処分したほうがいい」
と言いました。
「記録として残す必要があります」
「残っているから来るのよ」
何が来るのかと聞いても、それ以上は話してくれませんでした。
その日の夕方。
私は地下の資料室へ戻りました。
名簿の入力を終え、箱を廃棄用の台車へ移すつもりでした。
部屋に入ると、机の上にバインダーが開かれていました。
閉じて棚へ置いたはずです。
開かれていたのは、一番新しい記録のページ。
午前一時十八分。
小宮美佐子。
小宮美佐子。
本人。
何度見ても、同じ内容です。
ただ、備考欄の文章が変わっていました。
先ほどまでは、
「面会後、所在確認できず」
と書かれていたはずです。
そこに線が引かれ、下へ新しい文章が加えられていました。
「記録室へ移動」
私は反射的に資料室の入口を見ました。
扉は閉まっています。
廊下に人の気配はありません。
書き加えられた字は、ほかの署名と同じ筆跡でした。
まだ新しい鉛筆の跡に見えました。
指で触れると、黒い粉が少しだけ付着しました。
誰かが今、書いたばかり。
そうとしか思えませんでした。
私はすぐに部屋を出ようとしました。
扉へ近づいたところで、内線電話が鳴りました。
資料室の電話は、ほとんど使われていません。
ほかの部署から直接かけてくる人もいませんでした。
出るべきではない気がしました。
それでも仕事の連絡かもしれません。
何度か鳴ったあと、私は受話器を取りました。
「医事課資料室です」
返事はありません。
かすかな雑音が聞こえました。
人の呼吸に似た音。
その奥で、台車の車輪が動くような音もしていました。
「もしもし」
もう一度呼びかけると、女性の声がしました。
「面会をお願いします」
穏やかな声でした。
年齢は分かりません。
若くも、年配にも聞こえました。
「どちらの病棟でしょうか」
無意識に、普段の受け答えをしていました。
女性は、
「下です」
と答えました。
地下に病棟はありません。
あるのは資料室、倉庫、機械室、それから霊安室です。
「患者さんのお名前をお願いします」
短い沈黙がありました。
「小宮美佐子です」
背中が冷たくなりました。
「面会される方のお名前でしょうか」
「はい」
「あなたのお名前をお願いします」
電話の向こうで、女性が小さく笑いました。
「同じです」
私は受話器を戻そうとしました。
その前に、女性が言いました。
「まだ一人足りません」
「何のことですか」
「記録です」
机の上にある名簿へ目を向けました。
七件。
同じ名前が七回。
「何人いれば足りるんですか」
なぜそんな質問をしたのか、自分でも分かりません。
女性はすぐに答えました。
「書いている人の分です」
電話が切れました。
私は受話器を置き、部屋を出ようとしました。
扉が開きません。
鍵はかけていません。
ノブは動きます。
それでも、向こう側から誰かが押さえているように、びくともしませんでした。
助けを呼ぼうとしても、地下にはほとんど人がいません。
携帯電話を取り出しましたが、圏外になっていました。
普段は地下でも通じます。
机の上で、紙が擦れる音がしました。
振り返ると、名簿のページが一枚ずつめくれていました。
換気扇の風ではありません。
厚い紙が、ゆっくりと持ち上がり、次のページへ移っていきます。
最後の記録まで進むと、動きが止まりました。
空欄だった次の行に、鉛筆の文字が浮かび始めました。
誰の手もありません。
最初に、時刻。
午前一時十八分。
壁の時計を見ると、午後六時十二分でした。
次に、面会者名。
小宮美佐子。
面会先の欄には、私の名前が書かれました。
続柄。
本人。
私は机へ駆け寄り、名簿を閉じました。
文字が途中までしか書かれていなかったからです。
バインダーを抱え、扉へ何度も体当たりしました。
三度目で急に開きました。
支えを失い、私は廊下へ転びました。
外には誰もいません。
資料室の中を振り返ると、机の前に女性が立っていました。
黒い服を着ていました。
長い髪で、顔はよく見えません。
白い手を名簿の上に置いています。
私は逃げました。
階段を駆け上がり、一階の受付まで戻りました。
同僚へ事情を話しましたが、自分でもまともな説明になっていないと分かりました。
数人で資料室へ確認に行きました。
女性はいません。
机の上には、閉じたバインダーだけが置かれていました。
名簿を開くと、先ほど書かれたはずの私の名前は消えていました。
元の七件しかありません。
ただ、名簿の最後に新しい紙が一枚挟まっていました。
病院の面会票ではありません。
宅配便の受取伝票でした。
受取人は、小宮美佐子。
品名は衣類。
署名欄には、細く震えた字で同じ名前が書かれていました。
伝票の日付は、その日のものでした。
届け先の住所は、存在しない番地です。
誰が資料室へ持ち込んだのか分かりません。
病院内の防犯カメラにも、荷物を持った人は映っていませんでした。
私は翌日から地下へ入れなくなりました。
上司と相談し、別の業務へ移してもらいました。
体調を崩したこともあり、数か月後には病院を退職しました。
あの名簿が処分されたのか、今も保管されているのかは知りません。
同僚へ聞くこともありませんでした。
それから何年かたった頃です。
以前の職場で一緒だった人から、突然連絡がありました。
病院が改修され、地下の資料室も取り壊された。
その作業中、壁の中から古い書類が見つかったそうです。
面会者名簿でした。
私が見つけたものとは別の年代です。
中には、同じ記録が何件も残っていました。
面会者、小宮美佐子。
面会先、小宮美佐子。
続柄、本人。
時刻はすべて、午前一時十八分。
一番新しい記録だけ、面会先が違っていました。
そこには、私の名前が書かれていたそうです。
日付は、私が病院を辞めた翌日。
私はその日、病院へ行っていません。
同僚は写真を送ると言いました。
私は断りました。
見れば、また記録に残るような気がしたからです。
連絡はそれきりになりました。
最近になって、別の病院で健康診断を受けました。
受付を済ませ、待合室に座っていると、看護師が患者の名前を呼びました。
「小宮美佐子さん」
私は反射的に顔を上げました。
待合室の端から、黒い服の女性が立ち上がりました。
長い髪。
白い手。
顔は見えません。
女性は診察室へ向かう途中、私の前で足を止めました。
そして、小さな声で言いました。
「今度は、あなたが中にいてください」
私は返事ができませんでした。
女性はそのまま診察室へ入りました。
名前を呼んだ看護師へ、小宮さんはどの人なのか尋ねると、不思議そうな顔をされました。
「今は誰も呼んでいませんよ」
診察室の扉は閉まっていました。
中を確認してもらいましたが、誰もいなかったそうです。
私は健康診断を受けず、そのまま帰りました。
翌日、病院から電話がありました。
受診していないのに、会計処理だけが残っているという連絡でした。
記録上、私は午前一時十八分に診察を受けたことになっていました。
担当医の欄は空白。
診察内容には、一行だけ書かれていたそうです。
「面会終了」
私は訂正を頼みました。
しかし、電話の職員は、
「この記録は変更できません」
と言いました。
理由を尋ねると、少し黙ったあと、
「本人の署名があります」
と答えました。
署名を見せてもらうことはできませんでした。
ただ、どんな字だったかだけを聞きました。
職員は、
「少し震えたような、細い字です」
と話しました。
それが私の名前だったのか。
小宮美佐子と書かれていたのか。
確認する勇気はありません。
今でも病院へ行くときは、受付で自分の名前を何度も確認します。
別の人の名前で呼ばれていないか。
面会者として記録されていないか。
そして時計が午前一時十八分を指す時間には、なるべく眠らないようにしています。
眠っている間に誰かが来ても、
自分が本人だと答えられない気がするからです。




