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⑬ 向かいの空き部屋

娘が五歳の頃、二人で古い団地に住んでいました。

妻とは娘が三歳のときに離婚しています。


娘を引き取ったのは私ですが、仕事を続けながら子どもを育てるのは、想像していた以上に大変でした。

以前の部屋は家賃が高く、保育園からも遠い。

そこで、勤務先に近い団地へ移ることにしたんです。

五階建ての建物が何棟も並ぶ、かなり古い団地でした。


私たちの部屋は三階。

階段を上がって右側の角部屋です。

広いとはいえませんが、二人で暮らすには十分でした。

居間と台所のほかに和室が二つ。娘にも自分の部屋を用意してやれます。

家賃も安く、近くには公園と保育園がありました。


最初に部屋を見たとき、向かいの玄関だけが妙に気になりました。

ほかの部屋には表札や傘立て、子どもの自転車などが置かれています。

向かいだけは何もない。

表札を外した跡が、黒い長方形になって残っていました。

扉の塗装も古く、郵便受けにはテープが貼られています。

長く空いている部屋なのだろうと思いました。


管理人に尋ねると、

「配管に少し問題があるので、今は貸していません」

という答えでした。

それ以上、気にすることもありませんでした。


引っ越してしばらくは、特に変わったこともなく過ぎました。

娘は新しい保育園にもすぐ慣れ、団地の公園で友達もできました。

私が夕食を作っている間は、一人で人形遊びをしていることが多かったです。


娘は人見知りをしない子でした。

廊下で近所の人に会えば、自分から挨拶をします。

年配の女性から飴をもらい、喜んで見せに来ることもありました。


最初の異変も、飴でした。

仕事から帰ると、娘が透明な包み紙に入った赤い飴を持っていました。

保育園でもらったのかと尋ねると、

「向かいのおばちゃん」

と答えました。


「向かい?」

「うん。ドアのところにいた」

私は玄関を開け、向かいの部屋を確認しました。

扉は閉まっています。

郵便受けのテープも剥がれていません。


誰かが部屋の前を通り、娘に飴を渡したのだろう。

そう考えました。

「知らない人から食べ物をもらったら、お父さんに見せてからにしなさい」

少し強く注意すると、娘は不満そうに口を尖らせました。


「知らない人じゃないよ」

「誰なの」

「向かいのおばちゃん」

同じ答えでした。

名前を聞いても、知らないと言います。

飴は捨てました。

娘は怒りましたが、正体の分からないものを食べさせるわけにはいきません。


翌日、保育園へ迎えに行くと、先生から尋ねられました。

「ご近所に、佐伯さんという方はいらっしゃいますか」

聞いたことのない名前でした。


娘が園で、

「佐伯のおばちゃんの家に遊びに行く」

と話していたそうです。

私は向かいの部屋を思い浮かべました。

表札は外されています。

それでも、以前そこに住んでいた人の名前かもしれません。


団地へ戻り、管理人室へ寄りました。

「向かいの空き部屋に、佐伯という人が住んでいましたか」

管理人は少し考えてから、

「ずいぶん昔にね」

と答えました。

「女性ですか?」

「夫婦だったと思うけど、私がここへ来る前の話だから詳しくは知らない」

空室になってから何年たつのかと尋ねました。


管理人は、

「十年より前かな」

と曖昧に答えました。

配管の問題で長期間空けておくというのは不自然です。

しかし、古い団地ですから、改修費用の都合などもあるのでしょう。


私は娘が向かいの人と話したと言っていることを伝えました。

管理人は笑いました。

「子どもは、よく作り話をするから」

それで話は終わりました。


数日後、玄関の前に赤い靴が置かれていました。

小さな女の子用です。

きれいに左右をそろえ、こちらへ爪先を向けてあります。

娘のものではありません。

サイズも少し小さめでした。

近所の子が忘れたのだと思い、廊下の端へ移しました。


翌朝にはなくなっていました。

ところが夕方になると、また同じ場所に戻っています。

今度は爪先が、向かいの部屋へ向いていました。

私は気味が悪くなり、管理人室へ持っていきました。

落とし物として預かってほしいと頼みました。


管理人は赤い靴を見ると、しばらく黙りました。

「これ、どこにあった?」

「私の部屋の前です」

「娘さんのじゃないんだね」

違うと答えると、管理人は靴を袋へ入れました。

その手つきが、妙に急いでいるように見えました。


「捨てておくよ」

落とし物ではないのかと尋ねましたが、

「古いものだから」

としか答えません。

靴は確かに新しくはありませんでした。

それでも、すぐ捨てるような状態には見えません。


その日の夜。

娘を寝かしつけたあと、台所で洗い物をしていると、廊下から小さな声が聞こえました。

誰かと話しているような声です。

娘の部屋へ行くと、布団の中にいません。

玄関が少し開いていました。

慌てて外へ出ると、娘は向かいの扉の前に立っていました。


耳を扉へつけています。

「何をしてるんだ」

強い声を出すと、娘は驚いて振り返りました。

「おばちゃんと話してた」

私は娘の腕をつかみ、自分の部屋へ連れ戻しました。

向かいの扉を確かめましたが、施錠されています。

郵便受けのテープもそのまま。

人が中にいるとは思えません。


「誰と話していたんだ」

「佐伯のおばちゃん」

「何を話したの」

娘は少し考えました。

「明日、遊びにおいでって」

「行ってはいけない」

「どうして?」

「あの部屋には誰も住んでいないから」

娘は不思議そうに私を見ました。


「いるよ」

「いない」

「女の子もいるよ」

初めて聞く話でした。

佐伯という女性だけでなく、幼い女の子も部屋にいるというのです。

「どんな子?」

「赤い靴の子」

私は、管理人室へ持っていった靴を思い出しました。

娘には見せていません。

玄関前にあったときも、娘は保育園へ行っていました。

色を知るはずがありません。


「その子の名前は?」

「言っちゃ駄目だって」

「誰に言われたの」

「おばちゃん」

娘はそれ以上話しませんでした。


その晩から、私は玄関に補助錠をつけました。

娘が一人で外へ出ないよう、手の届かない高さに取りつけたものです。

向かいの部屋についても、管理会社へ問い合わせました。

回答は管理人と同じでした。

設備上の問題で貸し出していない。

不法侵入の形跡はない。

定期的に確認している。

それでも、念のため室内を見せてほしいと頼みました。

住人ではない私を入れることはできない、と断られました。


それから一週間ほど、何も起きませんでした。

娘も、向かいの女性について話さなくなりました。

飴も靴も現れません。

私も、娘が夢や想像と現実を混同したのだろうと思い始めました。


あの日は、保育園が休みでした。

私は自宅で仕事をしていました。

午前中、娘は居間で絵を描いていました。

私は隣の和室でパソコンを開き、ときどき様子を確認していました。


正午前、昼食を作ろうと台所へ行きました。

娘の姿がありません。

トイレにも、寝室にもいない。

玄関を見ると、補助錠はかかったままです。

靴も残っています。

外へ出たとは考えられませんでした。


押し入れや浴室まで探しました。

名前を呼んでも返事はない。

狭い部屋です。

子ども一人が隠れられる場所など、限られています。

それでも見つかりません。

私は混乱しました。

玄関を開け、廊下へ出ました。

向かいの扉は閉まっています。

念のため呼び鈴を押しました。

電気が止められているのか、音は鳴りませんでした。


扉を叩き、娘の名前を呼びました。

返事はありません。

管理人室へ電話をかけようとしたとき、向かいの部屋から小さな音がしました。

何かが床へ落ちたような音。

続いて、子どもの笑い声。


娘の声でした。

私は扉を何度も叩きました。

「いるのか!」

すぐ近くで、娘が答えました。

「いるよ」

扉の向こうです。


私は管理人へ電話しました。

娘が空室に入っている。

すぐ鍵を持ってきてほしい。

管理人は最初、そんなはずはないと言いました。

それでも私の様子から普通ではないと分かったのか、数分で上がってきました。


管理人が持ってきた鍵を差しました。

回りません。

別の鍵も試しましたが、扉は開きませんでした。

「鍵が替えられている」

管理人が言いました。

「誰が替えたんですか」

「分からない」

中から、娘の声がしました。


「お父さんも来て」

私は扉へ体当たりしました。

古い扉ですが、簡単には壊れません。

騒ぎを聞いた近所の人たちも廊下へ出てきました。

誰かが警察と消防へ連絡してくれました。


到着を待つ間、私は娘へ何度も声をかけました。

「そこで待っていなさい」

「うん」

「玄関から離れるな」

返事はありません。

代わりに、女性の声がしました。


「静かにしてください」


扉のすぐ向こうでした。

落ち着いた、年配の女性の声。

「娘を出してください」

私が叫ぶと、

「今、隠れているところです」

と返されました。


「誰ですか」

「向かいの者です」

扉の向こうで、女が笑いました。

「いつも娘さんがお世話になっています」

私は何度も扉を蹴りました。

管理人は青ざめ、壁際に立っています。

「佐伯さんですか」

私が尋ねると、女の声が止まりました。

しばらくして、

「その名前は、まだ残っているんですね」

と答えました。


消防が到着し、工具で扉を開けました。

鍵だけでなく、内側から家具のようなものが当てられていたそうです。

扉が開くと、湿った空気が流れてきました。

部屋の中は暗く、埃の臭いがしました。

長く空室だったのは間違いないようです。


床には厚く埃が積もり、人が歩いた跡もほとんどありません。

電気も止まっていました。

家具は残されていない。

台所も居間も空です。

それなのに、奥の和室から娘の声がしました。


「ここだよ」

私たちは声のする部屋へ向かいました。

和室の押し入れの前に、小さな箪笥が置かれていました。

ほかに家具はないのに、それだけが残されています。

大人一人なら動かせる程度の大きさです。


消防の方と二人で横へずらしました。

押し入れの襖が現れました。

中から、娘が叩いています。

襖を開けると、布団の上に娘が座っていました。

怪我はありません。

怖がっている様子もなく、私を見ると笑いました。

「見つかった」

私は娘を抱き上げました。


押し入れの中には娘以外、誰もいません。

赤い靴が一足、隅に置かれていました。

管理人室へ持っていったものと同じに見えました。

ただ、泥で汚れ、かなり古くなっています。


「誰といたんだ」

娘に尋ねました。

「女の子」

「どこへ行った?」

娘は押し入れの奥を指さしました。

「壁の向こう」

押し入れの奥は、建物の外壁に接しています。

向こう側に部屋はありません。

三階ですから、人が立てる場所もない。


消防の方が壁を調べました。

異常は見つかりませんでした。

穴も、隠し扉もありません。

警察から事情を聞かれました。

娘は、佐伯という女性が玄関を開けてくれたと話しました。

私たちの部屋で絵を描いていると、女の子が迎えに来た。

一緒に向かいの部屋へ入った。

そこでかくれんぼをすることになり、押し入れへ隠れた。

外から箪笥を置かれた。


それだけです。

「どうやって自分の家から出たの」

警察官が尋ねました。

娘は、

「普通にドアから」

と答えました。

補助錠はかかったままでした。

玄関前の防犯カメラも確認しました。

私たちの部屋から娘が出る姿は映っていません。

向かいの扉が開いた記録もない。


映像の中で異常があったのは、午前十一時四十七分から一分ほど。

娘が居間で絵を描いていた頃です。

廊下の照明が一度消えました。

画面が暗くなり、何も見えなくなります。

明かりが戻ったとき、向かいの玄関前に赤い靴が置かれていました。

靴を置いた人物は映っていませんでした。


管理人は警察へ、昔この部屋で事件があったと話しました。

三十年以上前。

向かいに住んでいた幼い女の子が、この空室の押し入れから見つかった。

当時ここに住んでいた女性が、子どもを招き入れて閉じ込めた疑いを持たれたそうです。

女性の名字は佐伯。

警察に連れていかれ、そのまま団地へ戻ってこなかった。


それ以降、部屋では妙なことが続いたといいます。

新しい住人が入ると、夜中に押し入れから子どもの声が聞こえる。

玄関へ知らない靴が置かれる。

廊下で、存在しない向かいの住人に挨拶されたという人もいました。

何度か入居者を受け入れたものの、長く住む人はいなかった。

最後には貸し出さなくなったそうです。


「配管の問題ではなかったんですね」

私が言うと、管理人は何も答えませんでした。

娘が保護されたあと、私たちはすぐに団地を離れました。

最低限の荷物だけを持ち、しばらく実家へ身を寄せました。

残った家具は、業者に運んでもらいました。

もう自分で部屋へ戻る気にはなれませんでした。


娘は、あの出来事をそれほど怖がっていませんでした。

赤い靴の女の子と遊べたことが楽しかったようです。

何度注意しても、

「悪い子じゃないよ」

と言いました。

「じゃあ、どうして押し入れに閉じ込めたの」

そう尋ねると、娘は少し困った顔をしました。

「あの子じゃないよ」

「誰が閉じ込めたの」

「お母さん」


私は離婚した妻のことかと思いました。

娘は母親とは月に一度会っています。

ですが、あの日は仕事で別の県にいたことを確認しています。

「お母さんが来たの?」

「女の子のお母さん」

「佐伯のおばちゃん?」

娘は首を横に振りました。


「佐伯のおばちゃんは、向かいのおばちゃんだよ」

話がよく分かりませんでした。

「じゃあ、女の子のお母さんは誰なの」

娘は当たり前のことを説明するように言いました。

「こっちに住んでたおばちゃん」

私たちの部屋を指していました。

当時の事件では、向かいに住む子どもが佐伯家の押し入れに閉じ込められたと聞いています。

それなら、女の子の母親が住んでいたのは、私たちの部屋です。

娘は続けました。


「女の子のお母さんが、次はお父さんを隠すって言ってた」

それ以上、詳しく聞くことはできませんでした。

引っ越して半年ほど経った頃、管理会社から連絡がありました。

退去した部屋で、私の物らしいものが見つかったという話でした。


すべて運び出したはずです。

何が残っていたのか尋ねると、

「押し入れの中に、男性用の腕時計があった」

と言われました。

特徴を聞くと、私が普段使っていたものと一致していました。

ですが、時計は今も私の手元にあります。

電話をしながら腕を確認しました。

確かに着けています。

同じ型の時計だろうと答えました。


管理会社の人は、

「裏にお名前が彫られています」

と言いました。

私の時計に名前など彫ってありません。

見に行くつもりはないと伝えました。

処分してほしい。

そう頼みました。

電話の相手は少し黙り、

「本当にいいんですか」

と尋ねました。

「もう必要ありません」

「でも、向こうにいる方が困ると思います」

何のことか聞き返す前に、電話は切れました。


その番号へかけ直すと、現在使われていないという案内が流れました。

管理会社へ連絡しましたが、その日に私へ電話をした職員はいないと言われました。

それから数日後。

娘の保育園から電話がありました。

娘がお迎えを待っているという連絡です。

私は仕事中でした。

いつもより早い時間だったため、何かあったのかと思いました。


「今日はお父さんが二回来られたので」

先生はそう言いました。

意味が分かりませんでした。

少し前に私が迎えに来た。

娘を連れて帰ろうとした。


しかし、娘が、

「このお父さんは向かいのお父さんだから違う」

と言って泣き出した。

不審に思った先生が身分証の提示を求めると、男は何も言わずに帰っていったそうです。

防犯カメラには、その男が映っていました。

顔も、体格も、着ている服も私と同じ。

私の腕時計を着けていました。


ただ、男が保育園を出る直前、一度だけカメラへ顔を向けています。

表情は私には見えませんでした。

画面が乱れていたからです。

それでも娘は、映像を見て言いました。


「この人、押し入れにいたよ」


私は現在、娘と別の県に住んでいます。

保育園も変えました。

住所は、必要最低限の人にしか知らせていません。

娘は成長し、団地での出来事について話すこともなくなりました。

もう覚えていないのかもしれません。

私も、できるだけ考えないようにしています。


ただ、毎晩寝る前に、押し入れとクローゼットを確認する習慣だけは残りました。

誰もいないことを確かめてから扉を閉める。

閉めたあとは、朝まで開けない。

先週、押し入れを確認すると、奥に赤い靴が置かれていました。

古い、子ども用の靴です。

娘のものではありません。


私は触らず、扉を閉めました。

翌朝にはなくなっていました。

その代わり、私の枕元に腕時計が置かれていました。

名前が彫られています。

間違いなく私の名前です。


普段使っている時計は、左腕に着けたままでした。

二つの時計は、同じ時刻を示していました。


午前一時十八分。


電池を外しても、針は止まりませんでした。

今も二つとも動いています。

一つは現在の時刻。

もう一つは、ずっと午前一時十八分のままです。

娘には見せていません。

ただ昨日、娘が私の腕を見て言いました。

「そろそろ返したほうがいいよ」

何を返すのか尋ねると、

「向かいのお父さんの時計」

と答えました。


私たちが今住んでいる部屋は、廊下の突き当たりです。

向かい側に部屋はありません。

壁があるだけです。

けれど夜になると、ときどきその壁の向こうから、子どもの声が聞こえます。

「今度は、お父さんが隠れる番だよ」

私は返事をしません。

返事をしたら、壁の向こうにも部屋ができてしまう。

そんな気がするからです。


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