② 隣の部屋
大学に入って、初めて一人暮らしをしたときの話です。
住んでいたのは、駅から十五分ほど歩いたところにある古いアパートでした。
外壁には細かいひびがあり、外階段を上るたびに金属の板が大きな音を立てます。見た目はあまり良くありませんでしたが、部屋の中だけはきれいに改装されていました。
何より、家賃が安かったんです。
私の部屋は二階の角にありました。
隣にも同じ広さの部屋が一つだけあります。
引っ越した日に挨拶へ行きましたが、呼び鈴を押しても誰も出ませんでした。留守なのだと思い、持ってきた菓子折りをドアノブにかけておきました。
翌朝にはなくなっていたので、受け取ってもらえたのだと思います。
隣の人を初めて見たのは、それから一週間ほど後でした。
大学から帰って階段を上ると、部屋の前に女の人が立っていました。
私より少し年上に見えました。長い髪に白いブラウス、黒いスカートという服装で、鞄の中から鍵を探しているようでした。
横を通ると、小さく頭を下げてくれました。
私も挨拶を返しました。
そのときは、それだけです。
隣が女性だと分かり、少し安心したのを覚えています。
一人暮らしを始めたばかりだったので、近くに同年代の女性がいるだけで心強く感じたんです。
それから、隣の生活音をよく聞くようになりました。
壁が薄いため、仕方のないことだと思っていました。
夜になるとテレビの音がする。
朝は六時半頃に目覚まし時計が鳴る。
何を見ているのか、どんな時計を使っているのかまでは分かりません。ただ、人が話している声や笑い声、同じ音を何度も繰り返すアラームが壁越しに聞こえてきました。
私が少し変だと感じ始めたのは、引っ越して一か月ほど経った頃です。
夜中になると、隣から壁を叩く音がするようになりました。
コン、コン、コン。
三回鳴って、止まる。
少し間が空くと、また三回。
大きな音ではありません。
最初は、家具でも壁にぶつけているのだろうと思いました。
けれど、ほとんど毎晩同じ時間に鳴るんです。
午前零時を過ぎた頃。
三回ずつ。
それが何度か続き、いつの間にか止まる。
一度気づいてしまうと、気になって眠れません。
ある晩、午前一時を過ぎても音が続いていました。
翌朝は一限から授業があり、私は早く眠りたかったので、かなり苛立っていました。
コン、コン、コン。
また三回。
私は枕元にあった本を手に取り、壁を一度だけ強く叩きました。
音はすぐに止まりました。
静かになったので、やはり隣の人が壁を叩いていたのだと思いました。
ところが、数秒後。
今度は玄関から音がしました。
コン、コン、コン。
誰かがドアを叩いていました。
時計を見ると、午前一時十八分でした。
私はベッドの上から動けませんでした。
隣の人が苦情を言いに来たのかもしれない。
そう思いましたが、こんな時間にドアを開けるのは怖くて、玄関へ近づくこともできません。
しばらくすると、もう一度ノックされました。
コン、コン、コン。
そのあと、女の人の声が聞こえました。
「起きていますか」
声は小さく、ドアに顔を近づけて話しているようでした。
隣の人だと思いました。
こちらから壁を叩いたのですから、怒っていても仕方ありません。
それでもドアを開ける勇気はなく、部屋の中から返事をしました。
「すみません。明日にしてもらえますか」
相手は何も答えませんでした。
足音も聞こえません。
しばらく待ちましたが、もうノックされることはありませんでした。
翌朝、大学へ行くために玄関を開けると、ドアの前に紙が一枚落ちていました。
大学ノートを破ったような、横線の入った紙です。
鉛筆で短い文章が書かれていました。
「昨日はごめんなさい」
それを見て、少し安心しました。
やはり隣の人だったんだと思います。
紙を拾い、鞄の中に入れて大学へ向かいました。
夕方、アパートに戻ると、隣の部屋の前にあの女の人が立っていました。
鍵を開けようとしているところでした。
私は昨夜のことを謝りました。
「昨日、壁を叩いちゃってすみませんでした」
女の人は手を止め、不思議そうにこちらを見ました。
「何のことですか?」
私は、夜中に何度も壁を叩く音がして、つい叩き返してしまったと説明しました。
そのあと部屋まで来てくれたのに、ドアを開けなかったことも話しました。
女の人は、だんだん顔色を悪くしていきました。
「私、昨日はここにいません」
そう言いました。
仕事の都合で二日前から実家に泊まっていて、その日の朝も実家から職場へ向かったそうです。
アパートへ戻ったのは、今が初めてだと言いました。
私は鞄から、朝見つけた紙を出しました。
女の人はしばらく黙って紙を見ていました。
「これ、私の字です」
冗談を言っているようには見えませんでした。
私も何を言えばいいのか分かりませんでした。
女の人は紙を何度も裏返し、文字を指でなぞっていました。
「昔から、こういう字を書くんです」
確かに本人の字なのだと言います。
ただ、自分は書いていない。
そもそも、アパートにはいなかった。
私たちはしばらく廊下に立ったまま、紙を見ていました。
やがて女の人が、思い出したように尋ねました。
「隣から、テレビの音が聞こえたことありますか?」
私は、ほぼ毎晩聞こえると答えました。
人が話す声や笑い声がしている。
朝には目覚ましも鳴っている。
そう話すと、女の人は首を横に振りました。
「私、テレビ持ってないです」
目覚まし時計も使っていないそうです。
朝はスマートフォンの振動だけで起きるようにしている、と言いました。
女の人はしばらく考えてから、部屋の鍵を開けました。
「中、見てもらってもいいですか」
正直、入りたくありませんでした。
ですが、その場で断ることもできませんでした。
一人にしておくほうが怖いような気もしました。
私たちは一緒に部屋へ入りました。
間取りは、私の部屋とほとんど同じでした。
玄関から短い廊下が続き、その奥に六畳ほどの部屋があります。
中はきれいに片づいていました。
確かに、テレビはありません。
目覚まし時計も見当たりませんでした。
ベッドと小さな机、衣装ケースが置かれているだけです。
私は壁の位置を確認しました。
夜中に音がしていたのは、ちょうどベッドの横にあたる部分です。
その壁の下に、何か白いものが落ちていました。
紙でした。
一枚ではありません。
壁際とベッドの隙間に、同じ大きさの紙が何枚も重なっていました。
女の人が最初の一枚を拾いました。
「聞こえていますか」
次の紙には、
「まだ起きていますか」
その次には、
「返事をしてください」
すべて鉛筆で書かれていました。
どれも、朝に私の部屋の前へ置かれていたものと同じ字でした。
女の人は一枚ずつ拾いながら、何度も、
「私じゃない」
と繰り返していました。
最後に、一番下にあった紙を拾いました。
それを読んだ瞬間、女の人は動かなくなりました。
紙には、
「そっちには誰がいますか」
と書かれていました。
私たちはすぐに部屋を出ました。
その日は、どちらも自分の部屋には泊まりませんでした。
私は大学の友人の家へ行き、隣の人は実家へ戻ったそうです。
翌日、管理会社の人が部屋を確認しました。
念のため警察にも来てもらったと聞いています。
玄関や窓に、誰かが侵入した形跡はありませんでした。
鍵を壊された跡もなく、合鍵が作られた形跡もない。
紙から出た指紋は、隣の女性のものだけだったそうです。
ただし、それは文字を書いたときについた指紋ではありませんでした。
紙の端にしか残っておらず、彼女が拾ったときについたものだろうという話でした。
結局、誰が紙を書いたのかは分かりませんでした。
私は、その週のうちに引っ越しました。
隣の女性も、少し遅れて部屋を出たそうです。
それから一度も会っていません。
引っ越す日の朝、最後の荷物を運び出しているときのことです。
部屋の中には、もう何も残っていませんでした。
壁についていたカレンダーも外し、床を簡単に掃除して、あとは鍵を返すだけになっていました。
忘れ物がないか確認するため、空になった部屋を一周しました。
そのとき、隣との間にある壁から音がしました。
コン、コン、コン。
私は動けませんでした。
隣の女性は、すでに実家へ戻っていると聞いていました。
管理会社の人も、まだ来ていません。
アパートの二階には、私しかいないはずでした。
しばらくすると、もう一度。
コン、コン、コン。
私は返事をしませんでした。
部屋を出て、鍵をかけました。
階段を下りようとしたとき、隣の部屋のドアが少しだけ開きました。
本当にわずかな隙間です。
中は暗く、何も見えませんでした。
ただ、開いたドアの向こうから、女性の声がしました。
「起きていますか」
私はそのまま階段を駆け下りました。
振り返ってはいません。
その後、あのアパートがどうなったのかは知りません。
隣の部屋に誰かが入ったのか。
今も空いたままなのか。
調べようと思ったこともありません。
ただ、今でも夜中に壁から音がすると、あの紙に書かれていた言葉を思い出します。
「そっちには誰がいますか」
あれは、隣の部屋にいた何かが、私たちに尋ねていたのでしょうか。
それとも、
私たちがいた側を、隣の部屋だと思っていたのでしょうか。




