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2/13

② 隣の部屋

大学に入って、初めて一人暮らしをしたときの話です。

住んでいたのは、駅から十五分ほど歩いたところにある古いアパートでした。


外壁には細かいひびがあり、外階段を上るたびに金属の板が大きな音を立てます。見た目はあまり良くありませんでしたが、部屋の中だけはきれいに改装されていました。


何より、家賃が安かったんです。

私の部屋は二階の角にありました。

隣にも同じ広さの部屋が一つだけあります。

引っ越した日に挨拶へ行きましたが、呼び鈴を押しても誰も出ませんでした。留守なのだと思い、持ってきた菓子折りをドアノブにかけておきました。

翌朝にはなくなっていたので、受け取ってもらえたのだと思います。

隣の人を初めて見たのは、それから一週間ほど後でした。


大学から帰って階段を上ると、部屋の前に女の人が立っていました。

私より少し年上に見えました。長い髪に白いブラウス、黒いスカートという服装で、鞄の中から鍵を探しているようでした。

横を通ると、小さく頭を下げてくれました。


私も挨拶を返しました。

そのときは、それだけです。

隣が女性だと分かり、少し安心したのを覚えています。

一人暮らしを始めたばかりだったので、近くに同年代の女性がいるだけで心強く感じたんです。

それから、隣の生活音をよく聞くようになりました。

壁が薄いため、仕方のないことだと思っていました。


夜になるとテレビの音がする。

朝は六時半頃に目覚まし時計が鳴る。

何を見ているのか、どんな時計を使っているのかまでは分かりません。ただ、人が話している声や笑い声、同じ音を何度も繰り返すアラームが壁越しに聞こえてきました。

私が少し変だと感じ始めたのは、引っ越して一か月ほど経った頃です。

夜中になると、隣から壁を叩く音がするようになりました。


コン、コン、コン。


三回鳴って、止まる。

少し間が空くと、また三回。

大きな音ではありません。

最初は、家具でも壁にぶつけているのだろうと思いました。

けれど、ほとんど毎晩同じ時間に鳴るんです。


午前零時を過ぎた頃。

三回ずつ。

それが何度か続き、いつの間にか止まる。

一度気づいてしまうと、気になって眠れません。

ある晩、午前一時を過ぎても音が続いていました。

翌朝は一限から授業があり、私は早く眠りたかったので、かなり苛立っていました。


コン、コン、コン。


また三回。

私は枕元にあった本を手に取り、壁を一度だけ強く叩きました。

音はすぐに止まりました。

静かになったので、やはり隣の人が壁を叩いていたのだと思いました。

ところが、数秒後。

今度は玄関から音がしました。


コン、コン、コン。


誰かがドアを叩いていました。

時計を見ると、午前一時十八分でした。

私はベッドの上から動けませんでした。

隣の人が苦情を言いに来たのかもしれない。

そう思いましたが、こんな時間にドアを開けるのは怖くて、玄関へ近づくこともできません。

しばらくすると、もう一度ノックされました。


コン、コン、コン。


そのあと、女の人の声が聞こえました。


「起きていますか」


声は小さく、ドアに顔を近づけて話しているようでした。

隣の人だと思いました。

こちらから壁を叩いたのですから、怒っていても仕方ありません。

それでもドアを開ける勇気はなく、部屋の中から返事をしました。

「すみません。明日にしてもらえますか」

相手は何も答えませんでした。


足音も聞こえません。

しばらく待ちましたが、もうノックされることはありませんでした。

翌朝、大学へ行くために玄関を開けると、ドアの前に紙が一枚落ちていました。

大学ノートを破ったような、横線の入った紙です。

鉛筆で短い文章が書かれていました。


「昨日はごめんなさい」

それを見て、少し安心しました。

やはり隣の人だったんだと思います。

紙を拾い、鞄の中に入れて大学へ向かいました。

夕方、アパートに戻ると、隣の部屋の前にあの女の人が立っていました。

鍵を開けようとしているところでした。


私は昨夜のことを謝りました。

「昨日、壁を叩いちゃってすみませんでした」

女の人は手を止め、不思議そうにこちらを見ました。

「何のことですか?」

私は、夜中に何度も壁を叩く音がして、つい叩き返してしまったと説明しました。

そのあと部屋まで来てくれたのに、ドアを開けなかったことも話しました。

女の人は、だんだん顔色を悪くしていきました。


「私、昨日はここにいません」


そう言いました。

仕事の都合で二日前から実家に泊まっていて、その日の朝も実家から職場へ向かったそうです。

アパートへ戻ったのは、今が初めてだと言いました。

私は鞄から、朝見つけた紙を出しました。


女の人はしばらく黙って紙を見ていました。

「これ、私の字です」

冗談を言っているようには見えませんでした。

私も何を言えばいいのか分かりませんでした。

女の人は紙を何度も裏返し、文字を指でなぞっていました。

「昔から、こういう字を書くんです」

確かに本人の字なのだと言います。


ただ、自分は書いていない。

そもそも、アパートにはいなかった。

私たちはしばらく廊下に立ったまま、紙を見ていました。

やがて女の人が、思い出したように尋ねました。

「隣から、テレビの音が聞こえたことありますか?」

私は、ほぼ毎晩聞こえると答えました。


人が話す声や笑い声がしている。

朝には目覚ましも鳴っている。

そう話すと、女の人は首を横に振りました。

「私、テレビ持ってないです」

目覚まし時計も使っていないそうです。

朝はスマートフォンの振動だけで起きるようにしている、と言いました。


女の人はしばらく考えてから、部屋の鍵を開けました。

「中、見てもらってもいいですか」

正直、入りたくありませんでした。

ですが、その場で断ることもできませんでした。

一人にしておくほうが怖いような気もしました。


私たちは一緒に部屋へ入りました。

間取りは、私の部屋とほとんど同じでした。

玄関から短い廊下が続き、その奥に六畳ほどの部屋があります。

中はきれいに片づいていました。

確かに、テレビはありません。

目覚まし時計も見当たりませんでした。


ベッドと小さな机、衣装ケースが置かれているだけです。

私は壁の位置を確認しました。

夜中に音がしていたのは、ちょうどベッドの横にあたる部分です。

その壁の下に、何か白いものが落ちていました。

紙でした。

一枚ではありません。

壁際とベッドの隙間に、同じ大きさの紙が何枚も重なっていました。


女の人が最初の一枚を拾いました。

「聞こえていますか」

次の紙には、

「まだ起きていますか」

その次には、

「返事をしてください」

すべて鉛筆で書かれていました。


どれも、朝に私の部屋の前へ置かれていたものと同じ字でした。

女の人は一枚ずつ拾いながら、何度も、

「私じゃない」

と繰り返していました。

最後に、一番下にあった紙を拾いました。

それを読んだ瞬間、女の人は動かなくなりました。

紙には、


「そっちには誰がいますか」


と書かれていました。

私たちはすぐに部屋を出ました。

その日は、どちらも自分の部屋には泊まりませんでした。

私は大学の友人の家へ行き、隣の人は実家へ戻ったそうです。


翌日、管理会社の人が部屋を確認しました。

念のため警察にも来てもらったと聞いています。

玄関や窓に、誰かが侵入した形跡はありませんでした。

鍵を壊された跡もなく、合鍵が作られた形跡もない。

紙から出た指紋は、隣の女性のものだけだったそうです。


ただし、それは文字を書いたときについた指紋ではありませんでした。

紙の端にしか残っておらず、彼女が拾ったときについたものだろうという話でした。

結局、誰が紙を書いたのかは分かりませんでした。


私は、その週のうちに引っ越しました。

隣の女性も、少し遅れて部屋を出たそうです。

それから一度も会っていません。

引っ越す日の朝、最後の荷物を運び出しているときのことです。

部屋の中には、もう何も残っていませんでした。

壁についていたカレンダーも外し、床を簡単に掃除して、あとは鍵を返すだけになっていました。


忘れ物がないか確認するため、空になった部屋を一周しました。

そのとき、隣との間にある壁から音がしました。


コン、コン、コン。


私は動けませんでした。

隣の女性は、すでに実家へ戻っていると聞いていました。

管理会社の人も、まだ来ていません。

アパートの二階には、私しかいないはずでした。

しばらくすると、もう一度。


コン、コン、コン。


私は返事をしませんでした。

部屋を出て、鍵をかけました。

階段を下りようとしたとき、隣の部屋のドアが少しだけ開きました。

本当にわずかな隙間です。

中は暗く、何も見えませんでした。

ただ、開いたドアの向こうから、女性の声がしました。


「起きていますか」


私はそのまま階段を駆け下りました。

振り返ってはいません。

その後、あのアパートがどうなったのかは知りません。

隣の部屋に誰かが入ったのか。

今も空いたままなのか。

調べようと思ったこともありません。


ただ、今でも夜中に壁から音がすると、あの紙に書かれていた言葉を思い出します。

「そっちには誰がいますか」

あれは、隣の部屋にいた何かが、私たちに尋ねていたのでしょうか。

それとも、

私たちがいた側を、隣の部屋だと思っていたのでしょうか。


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