① 荷物を受け取った人
これは、私が宅配の仕事をしていた頃の話です。
七、八年ほど前になるでしょうか。
当時の私は、夕方から夜にかけて個人宅を回っていました。担当していたのは、駅から少し離れた住宅地です。
古い一戸建ての間に新しいアパートが建っていて、道も入り組んでいました。夜になると番地が見つけづらく、慣れていない運転手はよく迷う地域です。
その日は荷物が多く、最後の一件に着いたのは午後九時を少し過ぎた頃でした。
配送記録を見れば正確な時刻は分かるのでしょうが、もう会社を辞めているため確認できません。
届け先は、古い二階建ての一軒家でした。
表札には「小宮」とあります。
荷物は小さな段ボール箱で、差出人は県外の個人名。品名には「衣類」とだけ書かれていました。
玄関脇の呼び鈴を押しました。
返事はありません。
ただ、留守には見えませんでした。二階の窓に明かりがついていたからです。
黄色っぽい光でした。
カーテンは閉まっていて、中の様子までは見えません。
もう一度、呼び鈴を押しました。
そのときです。
家の中で、何かを引きずるような音がしました。
音は二階から聞こえてきました。
ずる、という音のあとに、床板がきしむ。
少し間が空いて、また同じ音がする。
誰かが階段を一段ずつ下りてきているのだと思いました。
足の悪い人なのかもしれない。
そう考えて、私は玄関の前で待っていました。
やがて音が一階まで下りてきて、扉の向こうで止まりました。
ですが、なかなか開きません。
「お荷物をお持ちしました」
少し大きめの声で呼びかけると、扉の向こうから返事がありました。
「そこに置いてください」
女性の声でした。
若い人の声ではなかったと思います。
ただ、年齢までは分かりません。
当時は、今ほど置き配が一般的ではありませんでした。荷物を渡すには、受領印か署名が必要です。
そのことを説明すると、しばらく沈黙がありました。
家の中からは何の音もしません。
明かりがついていることだけが、妙に気になりました。
やがて、玄関の扉が十センチほど開きました。
隙間から、手だけが出てきました。
白くて、細い手でした。
病気の人なのだろうかと思ったのを覚えています。
私は伝票とボールペンを差し出しました。
女性は何も言わずに受け取りました。
ところが、なかなか返してきません。
待っている間、扉の隙間から家の中が少し見えました。
覗こうとしたわけではありません。
玄関の正面に、大きな鏡が置いてあったんです。
古い家によくある、縦長の姿見でした。
その鏡に、玄関に立っている女性の姿が映っていました。
黒い服を着ていました。
髪が長く、顔の半分ほどが隠れています。
扉から出ている手の位置を考えると、その女性が荷物を受け取っているので間違いないと思いました。
ただ、女性の後ろに、もう一人いました。
男性です。
玄関の奥に立ち、女性の肩越しにこちらを見ていました。
年齢は分かりません。
服装も、暗くてよく見えませんでした。
両手でスマートフォンを持っていたことだけは覚えています。
家族だろうと思いました。
それ以上、深く考えませんでした。
しばらくして、伝票とボールペンが返ってきました。
受取人の欄には、「小宮美佐子」と書かれていました。
少し震えたような字でしたが、読めないほどではありません。
私は荷物を差し出しました。
白い手が箱をつかみ、そのまま家の中へ引き込みました。
扉はすぐに閉まりました。
鍵のかかる音も聞こえました。
私は車に戻り、端末に配達完了の入力をしました。
その直後、営業所から電話がかかってきました。
今届けた小宮さんの荷物について、問い合わせが入っているというのです。
電話をかけてきたのは、受取人本人でした。
最初は、何の話をしているのか分かりませんでした。
「たった今、ご自宅でお渡ししましたよ」
そう答えると、電話の向こうで女性が黙り込みました。
少しして、震えた声で言いました。
「私、今、病院にいるんです」
小宮さんは数日前から入院していて、家には誰もいないはずだと話しました。
ご主人はすでに亡くなっており、子どもも遠方に住んでいる。
合鍵を持っている人もいないそうです。
私は住所をもう一度確認しました。
番地も、表札も間違っていません。
二階の窓に明かりがついていたこと。
女性が荷物を受け取ったこと。
受領欄に署名をもらったこと。
分かる範囲で説明しました。
電話の向こうで、小宮さんは何度も、
「そんなはずはない」
と繰り返していました。
空き巣かもしれないため、警察へ連絡するよう伝えました。
私からも営業所へ事情を説明し、その日の配達はそこで終了になりました。
警察が家を確認したのは、それから一時間ほどあとだったそうです。
玄関の鍵はかかっていました。
窓もすべて閉まっていて、壊された場所はない。
人が侵入した形跡も見つかりませんでした。
荷物は玄関の内側に置かれていたそうです。
私が渡した位置から、ほとんど動かされていなかったと聞きました。
家の中に人はいませんでした。
ここまでなら、私の見間違いで済ませることもできたと思います。
住所を間違えた。
別の家に届けた。
疲れていたので記憶が混乱した。
会社からも、最初はそう疑われました。
ですが、配達端末には小宮さんの住所で完了した記録が残っていました。
車両の位置情報も、その家の前で止まっています。
それに、伝票には確かに署名がありました。
後日、小宮さん本人に確認してもらったところ、筆跡も本人のものによく似ていたそうです。
まったく同じではない。
ただ、昔の自分が書いた字に似ている。
小宮さんは、そう話したと聞きました。
荷物についても、本人には心当たりがありませんでした。
差出人の名前も知らない人だったそうです。
小宮さんは気味悪がり、荷物を受け取りたくないと言いました。
警察立ち会いのもとで箱を開けたところ、中に入っていたのは黒い女性用のワンピースでした。
新品ではありません。
かなり古いもので、胸元に茶色い染みがついていたそうです。
それから、ワンピースのポケットに一枚の写真が入っていました。
古い家の玄関前で、若い女性が立っている写真です。
その隣には、男性が一人写っていました。
小宮さんは、女性を見て、自分の母親だと言ったそうです。
母親は二十年以上前に亡くなっていました。
一方、隣の男性には見覚えがない。
親戚でも、近所の人でもなかったそうです。
私は、その写真を直接見ていません。
警察の方から説明を受けただけです。
ただ、写真の男性は、両手に何かを持ち、少し下を向いていたと聞きました。
古い手帳か、小さな本のように見えたそうです。
それを聞いたとき、私はすぐに、あの男のことを思い出しました。
小宮さんの家の鏡に映っていた男です。
両手でスマートフォンを持ち、女性の後ろからこちらを見ていた。
同じ人物だとは断言できません。
写真を見ていない以上、確認のしようもありません。
ですが、なぜか私は、あの男だと思いました。
その後、担当区域を変えてもらいました。
小宮さんの家へ行くことは、二度とありませんでした。
あの件から半年ほど経った頃です。
仕事帰りに、駅のホームで電車を待っていました。
向かい側のホームに、一人の男性が立っていました。
その人は、ずっとスマートフォンを見ていました。
珍しいことではありません。
今なら、ほとんどの人がそうしているでしょう。
ただ、その男の立ち方に妙な覚えがありました。
両手でスマートフォンを持ち、顔を少し下に向けている。
周囲を気にする様子もなく、画面だけを見ていました。
しばらくすると、男が顔を上げました。
距離があったので、表情までは分かりません。
それでも、目が合った気がしました。
小宮さんの家で、鏡越しに見た男。
私はそう思いました。
男は数秒ほどこちらを見たあと、またスマートフォンに目を落としました。
まるで、画面の中に私のことが書かれているように見えました。
その直後、電車がホームに入ってきました。
車両が男の姿を遮りました。
電車が通り過ぎたあと、向かいのホームを確認しましたが、もう誰もいませんでした。
電車に乗ったのかもしれません。
階段を下りただけかもしれない。
それ以上のことは分かりません。
今でも、あの家にいた女性が誰だったのかは分かりません。
小宮さんの母親だったのか。
まったく別の誰かだったのか。
そもそも、本当に女性がいたのか。
私が直接見たのは、扉の隙間から出てきた手だけです。
女性の全身を見たのは、鏡の中だけでした。
そして、その後ろには男がいた。
荷物を受け取るでもなく、女性を助けるでもなく、ただスマートフォンを持って、こちらを見ていた男です。
あのときは、私が荷物を渡す様子を見ているのだと思いました。
ですが今は、少し違う気がしています。
あの男が確認していたのは荷物ではなく、
そこに私が来たことだったのではないか。
そんなふうに思うことがあります。




