9.婚約破棄
「……ッ」
フレデリカは息を呑んだ。
ネリガン公爵に婚約者を紹介すると言いながらエイベルと姿を消した時点で、予想はしていた。けれど、まだ信じたくないというのが本音だった。
セルシオだけは理解してくれていると、思っていたかった。
「……どうして……」
「どうしてだって? それは君が一番わかっているはずだ、フレデリカ。君は婚約者のぼくを顧みず、晩餐会のたびに男を誘うことに忙しい。こんな令嬢と結婚できるかい?」
「それは……エイベルの結婚相手をさがすためだって……」
「そんなわけがない!」
フレデリカの弁明を、セルシオはこぶしを振りあげて遮った。
「妹の結婚相手をさがすのに、そんなふしだらな格好をする女がどこにいる!」
(……そうよねー!?!?!?!?)
思わず素に戻ったフレデリカは、心の中で盛大に叫びをあげた。
義姉を悪女に仕立てて注目を集めたところでいい縁談など見つかるわけがない。常々フレデリカが思っていたことを、はからずもセルシオが肯定してくれた。
それは義妹エイベルの欲求が、フレデリカを貶めることと、フレデリカよりも良い結婚相手を見つけることの二つあるせいで、これまでその二つは重ならないと思っていたのだが――。
エイベルは、二つの欲求を同時に満たす方法を思いついたらしい。
フレデリカを悪女として婚約破棄させ、セルシオを奪えばいいのだ。
フレデリカが視線を向けると、セルシオの腕の中で、エイベルはにんまりと笑い返した。フレデリカよりもずっと悪女の称号の似合う笑顔だ。
その笑顔はすぐに、はらはらとこぼれる涙によって上書きされる。
「お姉様は、ご自分がヴェルチェ家の跡継ぎであるという立場を利用し、あたしやお母様を酷く扱って……子爵家が自分のものになれば身ぐるみ剥い身ぐるみ剥いで追いだしてやると脅してくるのです」
「社交界の方々にも確認した。皆そうだと言っている!」
(それは、エイベルにそう吹き込まれた方々ですよね。……ああ、でも、私が迂闊だったわ)
エイベルに押しつけられた悪女の役割から早く抜けだしたくて、言いなりになってしまった。セルシオだけは味方だと信じ込んで、それ以外の味方を作ろうともしなかった。エイベルが満足してくれれば幸せになれると――。
冷静になればそんなわけはないとわかるのに、見ないふりをしていたのだ。
急に、フレデリカは自分が少女に戻ったような気がした。
悪女を装い、流し目が板についたとしても、心は怖がりで引っ込み思案なあのときのまま。
ぐっと眉根をひそめ、黙り込んだフレデリカに、セルシオは優位を確信したようだ。
「そうですよね、皆さん!」
芝居がかった仕草で周囲を見まわし、セルシオはまたこぶしを振りあげる。
「お集まりの皆さんにも証人になっていただきたい! ぼくはここにフレデリカとの婚約を破棄し――……あれ? 皆さん?」
「……?」
慌てた様子のセルシオに、うつむいていたフレデリカも顔をあげ、広間を見まわした。
婚約破棄という大騒動に注目していたはずの招待客たちは、いつのまにかバルコニーにつながる扉のほうを向いている。
「ねえ……見て……! あの方がリーランド様かしら!?」
「ネリガン公爵家にご滞在中とおっしゃっていたものね」
「素敵……」
令嬢たちはため息と囁きを交わす。令嬢だけでなく、貴族やその夫人、令息まで、広間にいるありとあらゆる人々が一点を見つめていた。
フレデリカも振り向くと、人だかりの中に輝く金髪がちらりと見えた。
どうやらリイトが眼鏡を外し、バルコニーから広間へ入ってきたらしい。
「えっ、リーランド様!?」
エイベルが涙を引っ込め、ぱっと顔をあげたかと思うとセルシオを残して人だかりのほうへと駆けよっていく。
「……セルシオ」
「なんだい、フレデリカ……」
なんとも言えない顔になったフレデリカが呼びかけると、セルシオもトーンダウンした応えを返した。
「エイベルはああいう子よ。あなたよりいい人がいれば乗り換えるわ」
呆れのまじるフレデリカの言葉に、セルシオはムッと唇を尖らせた。
「それは君のことだろう。エイベルのためと言いながら自分の結婚相手をさがし、ぼくを捨てるつもりだったんだろう?」
(なるほど、エイベルはそう言ってセルシオをそそのかしたのね)
フレデリカはため息をついた。
黙って見守ってくれていると思っていたセルシオは、その実たくさんの男から誘いをかけられるフレデリカに密かな焦燥を抱いていたのだ。
そこへ、エイベルが「ずっと前から好きでした」とでも言ったのだろう。
もう関係の修復は不可能だ。
そう悟ったフレデリカは、釘を差しておくことにした。
「……もう一つ。エイベルはサラ夫人の連れ子で、お父様と血のつながりはない。ヴェルチェ子爵家は継げないわよ」
義妹と次男では、貴族社会に行く当てはない。二人で手を取りあい、真面目に働くというのならそれでいい。
けれど、セルシオの表情によぎったのは勝ち誇ったような笑みだ。
「それはどうかな」
「え?」
目を瞬かせるフレデリカに、セルシオはさらに笑みを深くした。
「ぼくはネリガン公爵に目をかけられている。言っただろ、婚約者を紹介したいって。ぼくはエイベルを閣下に会わせた。お願いすれば、閣下はエイベルを養女にしてくださるだろう」
「な……そんなこと」
「公爵令嬢なら、子爵家の当主となってもおかしくない。もちろんヴェルチェ家の名は断絶するが、それは
本来の跡取りである君がその名にふさわしくない真似をしたからだ」
「……っ!」
思わずフレデリカは身を翻し、広間から逃げだしていた。
案内の者が開けるのを待たずに自分の手で大扉を押し開け、廊下に出る。
廊下を走りながら、ずっとこらえていた涙があふれだした。
(全部私が悪かったの?)
父が帰らぬ人となり、やさしかったサラとエイベルが豹変して、訳もわからないうちに使用人たちも冷たくなった。少しでもフレデリカの味方をする者は解雇され、残ったのは着たくもないドレスを押しつけるような者たちばかり。
こうするしかないのだと、信じ込まされていた。
「ッ!」
突然、廊下の真ん中に人影が現れて、フレデリカは足を止めた。
「フレデリカ・ヴェルチェ様ですね」
癖のある栗色の髪で目元を隠した、変わった髪型の少年だ。着ているものを見るに、誰かの従者であるらしい。
「私、リーランド・アッシュベリ様の従者、レイト・ブラウノと申します。どうぞレイトとお呼びください」
フレデリカの困惑に答えるかのように少年は名乗った。
しかし疑問は増すばかりだ。
「レイト、さん……?」
「はい。主人リーランドはフレデリカ様とのご夕食を希望されております。お受けいただけますか」
目元を隠す厚い前髪に、リーランドの従者という身分、〝レイト〟の名。
(リイト様に似ているような……)
どういうことなのかと思いながらも、リーランド・アッシュベリの誘いと言うのなら、フレデリカは断るすべを持たない。
心はまだ混乱している。婚約破棄のショックからも覚めきっていない。
それでも、答えは決まっているとばかりに先に立って屋敷の奥へ歩きだすレイトに、ついていくしかなかった。




