#8 そして風呂場へと至る
前回のあらすじ
黒い液体に襲われ、部屋に逃げ込むも、八方塞がり。ソシテとともに風呂場に逃げ、排水溝の中へ進めば、その先は談話室だった。
ゆめゆめ思うな。
とりあえず先行してやるべき事項はまずトコロデとナドを見つけることだろう。特にトコロデが心配だ。彼女の容体はわからないが、元気ピンピンってわけはないだろうし。
「魔獣がどの程度の感覚器官を有しているかは知らんが、音はあまり立てない方がいいだろうな」
ソシテは周囲を警戒しながらそう言った。
僕たちは談話室の扉を開いて、またも廊下に出ていた。
また廊下か……もしかすると、この無秩序そうに見えるこの空間も、ある一定のルールがあるのかも知れない。えっと、最初が廊下で、扉を開けば居室。それから排水溝に入れば暖炉で、談話室。
ルールがあるとすれば何だろう? 部屋を移動する時にはかならず、通路となるような、例えば廊下だったり排水溝だったりの、道を挟んでいるとか、だろうか?
現に今、僕たちはまた廊下に戻っているわけで。
その時、僕は足元に妙な踏み心地を感じた。水気を含んだ布を踏んだような、カーペットの柔らかさが殺されている感触だ。
「ん?」
僕は屈んで当該のカーペットに触れる。指先には、赤い液体がついていた。
血……だろうな。よく見ると、赤いカーペットに暗い赤みが増していた。そして、かなり広い範囲に血が広がっていることに気づく。この血液の持ち主はおそらく、相当な深傷を負っているのだろう。
「ソシテさん、血が、ここに……」
「そうだな……こっちを見てみろ」
ソシテは曲がり角の先にいた。僕はソシテの方まで歩いて行き、角を曲がる。そして、ソシテが見せたかったものがすぐにわかった。
そこには、僕から見て左側、その壁面に血の線が走っていた。それは六、七メートル先まで伸びており、その出血量、傷の深さを物語っていた。
「この扉で途切れてますね」
血の線はある扉の前で途切れている。その扉のノブには血液がベッタリとついていた。
「まだ大して乾いていないな。ということは、ナドかトコロデ……二人の血かも知れんな」
そこで初めて、ソシテの表情が険しくなったのを僕は見た。常に冷静で表情を崩さなかったソシテがだ。
二人のことを相当大事に思っているということなのだろうか。それとも、単に仲間の怪我が心配だという感情なのだろうか。
「だったら、急がないといけませんね……」
「あぁ」
ソシテは、いつもの表情に戻った。
僕は扉の前に立ちノブに手を掛ける。
「待て。先に中を調べよう」しかし、ソシテにそう制されてしまった。
ソシテはあの錆びたナイフを取り出して、いつものようにナイフからナイフが生えてくるという奇妙な現象を起こしていた。そうやってできたナイフのロープが扉の下の隙間へ入っていく。
「あの……前から思っていたんですけれど、そのナイフっていったい何なんですか?」
「これか。これは無限増殖するナイフ……というものらしい。見て通り錆びているせいで、大した武器にはならんがな。この通り魔力を込めるだけで元のナイフと全く同じナイフができる。その魔力の加え方を工夫すれば、こんな風にロープのような扱い方もできる」
「へぇ……」
「よし、何もない」
それを合図に、僕は扉を開く。右手にねっとりとした血液の感触があったが、特に気にすることもなく、僕は扉を開いた。
扉の先はうって変わって、水色タイル張りでいくつか便器も置いてあった。
一見しただけだと、血のようなものは見当たらない。廊下とこの部屋が完全に区切られているようだった。
「血の主が通ったのはこの部屋ではないみたいだな。となると、目印も意味を成さないわけだ」
扉の先が常に同じ部屋ではない、ということなのだろうか。
僕は便所にあるいくつかの個室の一つに入る。やはりいつも通り、便器もタイルまるで新品のようだ。
と、おや。
僕はそこで、一つの手帳を見つけた。ボロボロでシミのついた、皮の手帳だ。それをペラペラとめくると、数枚の紙が落ちた。それらは空気の流れに沿うように舞いながら落ちていき、すぐに床へと到達した。
僕はそれらの紙を拾い上げ、何の気なしに内容を確認する。
そこにはいくつかの線があった。その線はある規則性を持って交差しており、図形を形作っていた。その紙に描かれた図形は繋がっており、そこから浮かび上がる図柄は迷路のようでさえある。
これ、地図じゃないか? もっとも、地図というよりは案内図、室内図といった方が的を得ているだろうが。
「ソシテさん、地図……みたいなのがありましたよ」
僕はソシテに声をかけ、すぐに僕のもとへやって来たソシテに地図を渡した。
「地図か……どこにあったんだ。これは」
「そこの個室の中に、この手帳があったんです。それに挟まってました」
僕は手帳をソシテに見せる。
「もしかしたら、あの二人のどちらかが書いたものかもしれませんね」
「ふむ……ナドがそんな趣味の悪い手帳を持っていた記憶はないが……その手帳はこの場所にかつてやって来た別の誰かの物かもしれんな」
あれ? トコロデさんは?
「しかし、血の跡に次いで今度は手帳か……人間の痕跡があるだけ気が楽だな」
ソシテはそんなことを言った。ソシテも精神的に参っているのかもしれない。
そんなソシテを横目に、僕は手帳の中身を検めることにした。最初の数十ページは空白。手帳の終わりに差し掛かったところでようやく文字を見ることができた。
文字といっても、ほとんどが塗りつぶされていて読むことが叶わなかった。しかし、唯一読める部分にはこう書かれている。
『むいみ』
むいみ……? 無意味という解釈でいいだろうか? だとすれば、いったい何が無意味だというのだろう。
考えてもその真意には至れそうになかったので、僕は次のページをめくってみる。しかしそこもご丁寧に、何かが書かれている上から塗りつぶされていた。
だが……しかし、これは……人のようにも見える、ような?
そこから先は全てのページが完全に塗りつぶされており、これ以上の情報獲得は見込めなさそうだった。
そこでふと、ソシテの方を見てみると、地図を注視して何か吟味しているようだった。
「何か気づきましたか?」
「地図には特に……だが、少し疑問がある」
「疑問?」
「いや……後で話す。些細なことかも知れん」
ソシテはそういうと、地図を自分のポケットにしまった。
その疑問の内容が気にならないというわけでもなかったが、しかし追及するのもおかしな話だと思い、僕は口をつぐむ。
「ここにはもうめぼしい手がかり……というか、扉みたいなものはないみたいですね。となると、入ってきた扉を戻るしかないわけですが……」
「そうとも限らん。ほら、そこの鏡」
ソシテがそう言った瞬間、彼は増殖するナイフを洗面台と一組みになっている鏡へと突き立てた。鏡はすぐに網目状に崩壊して、破片となり散っていく。
そして、鏡の奥には別の部屋があった。
「な……し、知ってたんですか?」
「まさか、本当にあるとはな」
また勘か?! また勘で動いたのか?!
「破片には気をつけた方がいいぞ。鏡は鋭いからな」
ソシテは鏡の奥の部屋へ、何の躊躇もなく進み出していた。
あの人は、ソシテは、いったい何者なのだろう。
何を知っているのだろう。何を求めているのだろう。何を……何を原動力として行動しているのだろう。
知りたい。ソシテのことを知りたい。
勇気や好奇心とは違うソシテの心持ちに、僕は惹かれていた。
その背を、追いたいと思った。
僕が抱いたそんな気持ちにこそ、失われた僕の記憶があるのかも知れない。僕はそう思った。
鏡の奥の部屋は、便所とは相対する場所である、食堂のような大部屋だった。白いテーブルクロスが敷かれた長机に、等間隔に並べられた椅子、そして灯台とセットで置かれたいくつもの皿。奥には暖炉があり、今度は火がついていた。
「ここは、食堂なんですかね?」
「見たところはな」
扉は左右に一枚ずつある。きっとどちらも意味不明な場所に繋がっているのだろう。
「どっちに行きますか? 多分、どっちに行っても大差ないとは思いますけど」
「ふむ……」ソシテは僕の問いに答えることなく、何か考え込んでいる様子だ。
いったい何を疑問がっているのだろうと、益体のないことを考えながら、僕は暖炉の方へ近づいた。火が本物かどうか確かめたかったのだ。
どうもこの空間、この場所にある全てのものが偽物臭い。単純に、ダンジョンの下にある遥か古代の世界であるという話を信じるのであれば、目に映るもの全てが新品のように輝いているのが疑わしいのだ。
僕が見ているもの全てが幻覚なのではないかという疑惑が、拭いきれずにどんどん強さをましていく。
そう思っているからこそ、存在を感じやすい火に僕は近づいたのだ。
だが、暖炉に近づく途中、何かが僕の右足を掴んだ。
「……っひ」息を呑む。長机の下から、手が伸びて僕の右足首を捕まえている。
「ソシテ……さんですか?」
その声は聞いたことがある声だった。よく見ると、僕の足を掴む手は鎧の手だった。しかも、兵士の着用しているそれではなく、確実に見たことがある籠手。そう、ナド。ナドの籠手が僕を掴んでいたのだ。
「ナドさん……ですか?」
「ソシテ……さんですか?」
ナドの声だ。これはナドの声だ。少しこもっているが、おそらく兜のせいだろう。
「いや……僕は――――」
「ソシテ……サン……デスカ?」
しかし、おかしくなった声の調子に慄いて、僕は右足を咄嗟に引く。すると、僕の右足首を掴んでいたその手が、粘着質に引き伸ばされたのだ。
それは、あの黒い液体によく似た腕だった。だが、あいつよりはずっと形を保っている。そんな異形の腕が、僕の足を確実に掴んでいる。
こいつはナドではない。魔獣だ。
ナドの声を真似ている、ナドのフリをしている、魔獣。
一瞬にして、脳が恐ろしい妄想に支配された。
「う、うわっ、うわぁぁあっ!」
「デスカ……デス……デス」
魔獣は長机に意も介さず立ち上がる。長机に乗っていたものが全てなだれ落ち、形が崩壊する音が響いた。
魔獣は僕の足を掴んだまま、その全貌を明らかにした。
人の形を模してはいるが、その表面はほとんど流動体。身長は三メートルほど。右手にはナドの籠手を着けており、僕はそれに掴まれて宙吊りになっていた。
「人の……魔獣?!」
ソシテの方を見る。だが、ソシテは何処にもいない。
まさか、見捨てられたのか?
だとすれば、もしそうならば、僕は、死ぬ?
死ぬのか?
しかし次の瞬間、周囲から連結して伸びてくる錆びたナイフが魔獣を捕らえた。錆びたナイフのロープは何本もあり、魔獣の四肢を捕まえている。そして、僕にもナイフのロープはまとわりついてきた。
何処にいるかはわからないが、ソシテは僕を助けようとしてくれている。
だが、ナイフ程度の抵抗は虚しく、魔獣が体を少し捻った程度でナイフは振り払われてしまった。
とにかく、この状況は非常にまずい。吊られている状態じゃ手も足もでない。
右手……は、相変わらず何の反応も示さない。あの時、ピーに襲われた際の右腕の爆発は、一体どうやって起こすのだろう。
力を込めても、強く念じても、うんともすんとも言わないのだ。腕のできる、腕らしい筋肉と関節の動きしかできない。
「こっちだ!」
ソシテの声だ。隠れていたソシテが姿を現したのだ。それを見つけた魔獣が、ソシテの方へ猪突猛進する。
「ソシテ……デス……」
魔獣はそう言葉を発しながら、道を阻む障害物を破壊しソシテに襲いかかる。ソシテは魔獣に背を向け扉の先へと逃げていった。
それを追う魔獣は扉の働きなどいざ知らず、その体で壁もろとも破壊して突き進む。
「ぐぇっ」その拍子に顔面が破壊された壁の一部とぶつかり、鼻血が栓を抜いたように溢れ出した。
扉の先は図書室のような場所だった。本棚がいくつも並び、それにぎっしりと本が詰められている。しかし、その美しさすらある整頓された本棚を軒並み倒壊させて魔獣は進み続けている。
ソシテは魔獣に背を向け逃げ続け、またも扉に行き着いた。ソシテは迷いなく扉を開き、先へ進む。魔獣もソシテの背だけを追う。わざわざノブを捻って扉を開くなどという礼儀正しさはもちろんない。
次の空間は廊下だった。しかし今度は地平線までほぼ一直線の廊下である。曲がり角などはない。
「ぐぅっ……」
目を離した隙に――――いや、僕は一瞬だって目を離したりはしていなかったのだけれど、かなり余裕を持って逃げているソシテがいつの間にか怪我を負っていた。左脇腹を押さえており、そこから血が垂れ落ちているのがわかる。
一体いつ、どの瞬間でこの魔獣はソシテに傷を負わせた?
ふと、魔獣の空いている方の腕を僕は見た。僕を掴んでいるのが右手だから、左手に当たる部分だ。その左手からは、血が滴り落ちている。
「がぁっ……」
ソシテの声だ。今度は右足を怪我したらしい。血がズボンにシミを作っている。
一体……どうやって? いつどの瞬間にソシテを傷つけた? 決して追いついているというわけではない。むしろ逃げるだけならかなりの余裕を持っていると言えるソシテに、この魔獣はどうして攻撃ができるのだろう?
『そして、形を持った魔獣には、どれだけ手を尽くそうとも、いくつも知恵を絞ろうとも、何度も策を弄そうとも――――』
絶対に敵わない。
ソシテの言葉が再生された。
この魔獣は、人の形を持っている。
だとすれば、僕たちは……
「ソシテさん!」
何処からか、ナドの声がした。この魔獣の声ではない。
「こっち! こっちです!」
奥の方だ。ソシテの逃げている方向からその声はする。見ると、扉が一つ空いているらしかった。
ソシテはそこまで何とか到達し、扉の中へと入る。魔獣はもちろんそれを追う。
壁を吹き飛ばしてやってきたその場所は、風呂場だった。
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