#1 ユメと構える今日
『あなたに人権はありません』
『つまり、あなたは院内における貴重な実験体というわけです』
『もっとざっくばらんにいうなら、我々の所有物です』
『あなたは人間ではありません』
僕は病室の天井を眺めながら、オーティーさんに言われたことを反芻していた。
時刻は夜、散歩もとっくに終わり、味の薄い食事を済ませて寝床についていた。
この病院についての説明や、過ごし方、規則や僕の容体、いろいろなことを説明してもらった覚えがあるけれど、のっけからの非人間宣言で僕の頭は埋め尽くされてしまった。記憶のない空っぽの脳みそとはいえ、入り口が広いというわけでもない。
とはいえ、そこまで非人道的な扱いは受けないだろう――――いやしかし、どうだろう? 人の手を挨拶がわりに丸めてしまうような人間が働いている病院で、正しい人道を通っている者が一体どれだけいる? おそらく皆どこか道を踏み外している者たちのはずだ。期待するだけ無駄なのかもしれない。
ともかく、今日はもう活動しないでおこう。なんだかんだでそれなりな距離歩いたわけだし、何より頭脳が軋む音がする。三代欲求の一角が自己主張を強めてきていることもある。素直に休息を取るのが賢明だろう。
そうして、僕は明日に怯えて瞼を閉じる。
静寂と闇の海に沈む。光の残穢だけが視界に映る。次第に意識もまどろんでいく。
心臓の鼓動が低迷し、呼吸も浅くなだらかになる。
そして――――
『あなたは人間ではありません』
直後、オーティーさんの言葉がフラッシュバックし、身体の全機能が活動を再開した。むしろ、眠りにつく前より覚醒している。あの朗らかな声から反響する冷徹な言葉。それが自分に向けられたものであることが何より身の毛をよだたせる。
不安は拭いきれない。自分がどれだけ異常な状況に置かれているか、今染みるように実感する。
「このまま起きていれば、明日は来ないんじゃないだろうか……」
脈動は落ち着いた。それに従って、眠気がぶり返す。
体をベッドに預け、枕の上に頭蓋を据える。今度は余計なことを考えない。落ち着いて呼吸して、頭の中は空っぽに。
そうすると、ほら、だんだん意識が霞掛かっていく。
あぁ、明日がやってくる。
その時、ガラスが割れた。
部屋の中にガラスが散らばる。外で吹いていた風が入り込み、シーツが意思を持ったように暴れ回る。
僕は驚いて声も出ない。目は完全に覚めた。眠気なんてものはまやかしだ。
部屋はほとんど暗闇だ。いくら夜目が利いていると言っても室内の様子は全く掴めない。だが、それでも人間がガラスの破片が転がっているであろう場所にうずくまっているのがわかる。
「な、なに? だ、だれ?」
「う、うぅ、お、おえぇぇぇ」
びちゃびちゃと液体の跳ねる音が聞こえる。何が床に打ち付けられているのかは知らないが、吐瀉物であることは想像に難くない。
「だ、大丈夫、とかじゃなくて、えっと、な、なんですか?」
混乱してうまく言葉が紡げない。
「いや――――大丈夫だ。なんの問題もない。お前が気にするようなことじゃない」
「そ、そうですか」
どうやらこの人間は男だったらしい。淡白でありながら重厚な喋り方は、イーさんを連想させる。最も、イーさんの場合はもっと気迫を削がれているが。
「馬鹿と鋏は使い用――――とはよく言ったものだな」
服が擦れるような地面から立ち上がる音聞こえる。どうやらもう状態を回復したらしい。
「えっと、どなたですか?」
「俺が誰かなんてのはお前にとってはどうでもいい――――あえて言及するなら、ただの犯罪者だ」
危険人物だ。僕の鳥肌がわずかに立つ。
「で、お前は誰だ。どうしてこんなところにいる」
暗闇の中、男は僕に話しかけているようだ。やけに落ち着いており、先ほど嘔吐していた様子は影も形もない。
しかし、どうしてこんなところにいる、か。
「それは、その、僕も預かり知らぬところなんです。僕記憶がなくて」
こんな異常な状況でまともに会話していることへおかしさを感じながらも僕は答える。
「記憶がない。ふん、俺の連れにもそんなのがいるが……なんだ、記憶喪失ってのは生活習慣病なのか」
連れ? どうやらこの人は孤立無縁の単独犯ではないらしい。
そもそもこの場合、どの犯罪を犯したことになるのだろう。候補が多いな。
「ところで、お前は自分の意思でこんな場所に住み着いているのか?」
男は割れたガラスを踏み砕きながら、おそらくはドアのある方向へ歩いていく。道すがら、僕にそんな質問を投げかけてきた。
「こんな場所、ですか? もしかして、いわくつきの病院だったりするんでしょうか?」
「ふん、お前……やけに冷静だな。普通こういう時は、一心不乱に泣け騒いだり、はたまた巌窟のようにダンマリを決め込むものだ」
そうなのか。いや、それは当たり前のことなんだけれど。
「しかし、そうか、病院か。なぁ、お前ここから出る気は無いか?」
男はドアの前に立っている。先ほどの男の吐瀉物の匂いが鼻をつんざき始めた。
「ここから出る? えっと、それはつまり?」
「ここで傀儡となり死ぬか、俺に利用されて死ぬか、二つに一つだ」
どちらも嫌だ! という選択肢はなさそうだ。二者択一の誤謬というやつである。
「あの、というかそもそもあなたは誰――――」
「もし俺に付く気があるなら、そこの窓から飛び降りてまっすぐ走れ。それが俺への最初の信頼だ」
言葉を遮られ、再度返そうと思った途端、男は僕の返事を待たずにドアを開け部屋を出て行った。
無茶苦茶だ。少なくとも僕の気持ちを無視している。しかし――――どうする?
あの男の言うことを信じるべきなのか。それとも現状を良しとするか。とりあえず、僕はガラス片に気を遣いながら窓際に寄る。そして夜に染まった森を浅広く見る。月は出ているようだが、雲がかかっていて森を照らしていない。何より普通に考えればここから飛び降りるのは自殺行為だ。
だが、最初の信頼、か。道理で言えば、あの男を信頼する理由はない。むしろ疑心の方が強いくらいだ。あの男の言った通りに行動したところで、身を滅ぼすことになるだろう。
けれど、それはこの場所に残っても同じことだ。僕はまともな死に方ができないだろう。
闇に向かって一歩を刻むか、あるいはただ闇に沈んでいくか。どちらが性に合っているかを僕は天秤にかける。
……おっと、そもそも自分自身の性というものが記憶にないんだった。
結局僕は窓枠に足を掛けることとした。あの男を信頼したわけではもちろんない。だが、はっきりとした理由があるのかと言えば、それもない。吐瀉物が放置されている部屋で眠りたくなかっただけかもしれないし、夜風に当たりたい気分だったのかもしれない。はたまた、この高さから飛び降りて、足の折れる痛みを知りたかったからなのかも。
ともかく理由はどうでもいい。外に出るか残るかで、わずかに外に出る気持ちが強かった程度だ。
窓の縁に残ったガラス片を取り除いてから、片足ずつ縁に乗せる。しゃがんだ状態で、かつて窓があった位置に全身が重なる。そこから僕は一息で飛び降りた。呼吸はしてなかったと思う。心臓が膨張したような錯覚に陥った。
思っていたより自由落下の時間は長かった。ほんの数コンマ秒で地面に叩きつけられるものだとばかり思っていたが、体感五、六秒はあった気がする。
足が地面につき、息が詰まるような痛みが――――来なかった。僕の体が生み出した衝撃は何か伸縮性のあるネットのようなものが完全に打ち消した。手触りはどことなく金属っぽいと思えば、しめ縄のような触感の部分がある。暗くてよく見えないが普通のネットではないようだ。
「信頼して正解、ってことを言いたいのか?」
男の言っていたことを思い返す。しかしそういえばあの男はどこかから飛ばされ、窓を突き破ってきたはずだ。いつこんなネットを張ったのだろう。
ネットから降りて、すぐに僕の足に泥が触れる。どうやら先日は雨が降ったらしい。ぬかるんでいた。まずいな、何も履かずに飛び出してしまった。裸足でこの森を抜けられるものなのだろうか。
雑多なことを憂いながらも、僕は闇夜に染まった森へ進むこととした。幸い、月が顔を出してくれたことで足元の不安は払拭された。
森は歪に生えた木が並んでおり、時折根が僕の足を絡め取った。方向感覚も狂いそうになり、月が出ていなかったら迷っていたことだろう。いつまでも歩いていてはしょうがないと、この森を走破することを試みたが、地面に露出した石が足を切り裂きかけたので断念せざるを得なかった。
何度か月が雲に隠れたり、足が攣りかけたけれど、どうにか数百メートルは森を進んでいた。どこまで行けばいいのか、キリのなさに憂鬱になりながらも僕はあの正体不明の男の言うなりになり続けた。そんな時だった。
「――――がっ」
顔面に何か固い物体がぶつかった。僕はその場に倒れて痛みにうずくまる。脳が揺れている気がする。視界はぼやけ定まらない。
「――――ら〜りるれろ♪」
男の歌声? 調子の不細工なメロディーが聞こえた。だが、耳鳴りですぐにかき消される。
「ラッキー」
「ぐっ」
腹を蹴られる。 鳩尾を皮鞋の先で正確に抉られたようだ。嘔吐感が込み上げる。冷や汗が全身から噴き上がるが、体はどんどん熱を持っていく。
「モうとっくに追えねえエリアまでいっちまったかと思ってたもんでな。ダからこそ俺はその逆を張ったわけなんだが、シかし上手くことが運んだな」
俺、超ラッキー! と高笑いする男。苦痛に喘いでいる僕は、それに対してなんのお構いもできない。
「デ、こっからは俺は生きたままのお前を連れ戻すってのがセオリーだな。ツーより命令なわけなんだが……」
男は僕を蹴り転がし始める。どこかへ運ばれているのだろうか? なんにせよ呼吸がままならない。全ての臓器が針で刺されているような錯覚に陥る。胃液が競り上がり、食堂を拡張していくのがわかる。
これで死を直感しないほど、僕は生物として欠落してはいなかった。
「ジゃあその逆を張って、殺すってことにするか!」
何度か蹴られ、どこか開けた場所まで運ばれたらしい。
「う、おえぇぇ」
少し落ち着いたところで僕はすぐさま嘔吐した。だが少しも気持ちは楽にならない。具合の良いところが身体の中で一つもない。
加えて、これ以上ない恐怖にも見舞われていた。
「ゲロ吐いてんじゃねーよ。キたねぇな。鎌にゲロつけたら殺すぞ。ア、殺した後に殺せねぇか」
「はぁ、はぁ、あ、あなたは誰なんですか……僕になんの恨みが……」
「俺はピー。オ前に恨みなんてあると思うか?」
必死の思いで声を捻り出す。むしろ悲鳴に近しい喘ぎだったかもしれない。相手が聞き取れたのはまさに奇跡だろう。
「はぁ、はぁ」
次の言葉が出てこない。何か言わなければ僕は死んでしまうと言うのに、なんと言えば良いのかがわからない。
「スげえ間抜け面だな。アぁ、そうだ。冥土の土産に教えてやるよ――――ト、この前読んだ小説の悪役は言ってたな。まさに今みたいな場面で」
ダが俺は違う。と男は続ける。
「俺はその逆を張る。ダからお前に何も教えないし、ただ殺す。悪あがきもさせねえ。一瞬で殺す」
男の顔が月明かりに照らされて、霞んだ僕の目にもはっきりと映る。
髪は長く美しく、手入れが行き届いているのがよくわかる。面構えは面妖で、穏やかさと優しさを着飾った断頭台のようだった。細く鋭い眼差しが、僕の首筋を捉えている。――――いや、違う、何を呑気に相手を観察している? そんなことをしている場合じゃない。僕はこれから死ぬんだぞ?
だけど、両手には鎌が握られていて、その形は人を狩ることに特化していて――――そうか、鎌を振りやすいようにこんな平地に僕を――――それで、格好は、白くて、正装で――――違う、そうじゃなくて、だから――――
右腕が、やけに強烈に痛む。
「動くなよ。俺は鎌が下手なんだ」
僕は――――振りかぶった鎌に――――右腕を――――
「あ?」
――――――――
閃光が空間を侵した。音が全て消え失せ、天地の境は失せる。
次第に土がパラパラと散る音が聞こえる。焼けこげた何かの匂い。目に入るのは闇だけだ。
耳鳴りがひどい。吐き気も。上手く呼吸ができない。
「――――っちです。――――どいで――――」
薄れていく意識の中で、僕が最後に見たのは、焼け爛れた自分の右腕だった。
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