プロローグ 999人目
「起きろ」
腹を蹴られて脳が覚醒する。容赦のない蹴りに胃液がせり上がってくる。
が、日々蹴られ慣れた僕はその胃液を押し返す。
「がっ、ゲホッ、はぁ、ゲホッ」
「早くしろ」
男はそれだけ言ってこの家畜小屋を去る。藁の上で眠っていた僕はほどなくして立ち上がり、衣服についた藁を左手で払う。
僕は夢を見ていた。それがどんな夢だったかはもうおぼろげだけれど、夢を見ていたという事実だけは記憶していた。
僕の毎朝のルーティーンはまず体の痣を確認するところから始まる。今日までに付けられた痣がいくつ直ったのか、今日はいくつ増えるのか、を考えるという毒にも薬にもならない行為だ。そうして、昨日と大した変化がないことを確認し、僕は仕事に移るのだ。
僕の仕事は簡単で膨大。孤児だった僕はとある農家に引き取られ、どうとでも扱える労働源として雇われているのだ。しかし、僕に割り当てられている今の仕事は、家畜の餌や収穫物を運搬するだけである。
本来なら家畜の面倒を見るだとか収穫物を加工するだとかの複雑な作業をやらされるものだが、僕の場合は右手が使えないので、飽き飽きするような運搬作業を延々とやらされることとなったのだ。
人というのは大概が右手を利き手とするだろう。主人もそうだし、奥様、その子供たちに至るまで、皆利き手は右だ。
今の僕の右手は土埃で汚れた包帯で包まれ、首を支点として吊られている。骨折した人間を思い浮かべてもらえればそれで良い。
兎にも角にも、僕にはやらなねばならぬ奉公が山積みなのだ。習慣一つでいつまでものさばっているわけにはいかない。
人生は限りある割には短い。
そうして僕は家畜小屋を出る。外はまだ夜と朝の分別がつかない、薄明かりの空だった。
仕事を始めるにあたって、まず荷台が必要になる。車輪が三つの四人ほど乗れる大きさの荷台である。それを取りに行くために、僕の主人の家に向かわなければならない。幸い、主人の家族はまだ眠っているはずなので、鉢合わせて殴られたり、罵詈雑言を浴びせられる心配はない。
そういえば、主人は一度家に帰ったのだろうか。鉢合わせたら嫌だな。主人は僕にすぐ暴力を振るう、最悪な人間だ。
空を見ると、薄明かりが山の裏から滲んでいくのが見えた。美しい、綺麗だと思って、安堵する。まだ僕の心には、何かを綺麗だと思える感性が残っているらしい。
それは僕自身にまだ余裕があることの証左であると同時に、人間の頑強さを証明している。
そうして僕は数分の非労働時間を経て、主人の家の前までやってきた。主人の家はこの片田舎では珍しい豪邸で、少し年季が入ってはいるものの、確かな温もりと思い出の詰まった良い家だ。
《《しかしそこにあったのはただの瓦礫の山だった。》》
端的に言えば主人の家が潰されていた。
「え、あ、え?」
もっとも、ただ瓦礫が積み重なっていたわけではない。その山の頂上に立つ人影が、ことの異様さを際立たせている。
いや、訂正しよう。人影なんて言い方は似合わない。そこに立っているのは《《化け物》》だ。《《形容のしようが無い怪物》》だ。
腕が四本だか八本だか十六本だか生えていて、二足で立っているがそこに大した意味はないのだということを威風堂々と示していて、何より顔と表される部分にはただ必要だからという無機質さを伴って口だけが存在している。
手で掴み、貪っているのは肉だろうか。早朝で薄暗くとも、その鮮やかな赤と、血が滴り落ちていることがわかる。怪物はこちらに目もくれず、ただ肉を貪っている。
あれはなんの肉だろう。家畜の肉だろうか? 倉庫から拾ってきたのか? いや、だとすれば血は抜いているはずだから、えっと、だから、要するに――――
《《「人を、食ってるのか」》》
自分自身でもいいから人の存在を感じたかったのか、僕の口からそんな声が漏れた。しかし、誰を食っているのかはわからない。今朝方僕を蹴った主人だろうか? それともその妻? はたまた三人の子供のどれか一人だろうか。
怪物は僕に構わず肉を食い続けている。そして、僕は何もできずにただ突っ立っている。本当は逃げるべきなんだろうけれど、しかし僕の足は動かない。単純に慄いて動けないのもあるが、もっと別に、僕の苦境が今終わったという事実に安堵して言いようのない解放感に浸っていたのだ。
それから五分は経っただろうか。案外十分くらいはその場に留まっていたかも知れない。だが、まぁ、些細な問題だ。
怪物は肉を食い尽くしたようで、ようやく僕の方に体を向けた。もしくは背を向けたのかも知れない。
「ねえ、君は一体何者なんだい?」
僕は瓦礫の山の怪物に呼びかける。声は震えていた。怪物は声に反応せず、問いには答えない。だが、こちらを意識しているのはわかる。
「あぁ、そうか、じゃあそうだな」
「ありがとう」
僕は怪物に感謝を告げた。
――――――――――――
僕は夢を見ていた。それがどんな夢だったかというと言葉を濁すしかないが、あえて形容するなら適当な文字をランダムに並べたような……そんな夢だった。
喉の渇きと、頭痛に苛まれて僕は瞼を開く。すぐに知らない天井が見え、僕が綿の詰まったベッドの上で寝ていることに気づいた。
「ここ、は?」
「おはようございます。まったくよく眠っていましたね」
「誰?」
唐突に誰かから話しかけられた。白く格式高い服に身を包んだ女だ。僕の寝顔を覗くようにベッドの脇でこちらを見ている。
「私はイーと言います。そしてここは病院で、あなたは舎町に住んでいたケドケド夫妻宅の瓦礫の山で倒れていたんですよ」
病院ってあの、上流階級の人間が病気になったら行くというあの? いや、それ以前にケドケド夫妻宅の瓦礫の山? ケドケドっていうのが人の名前なのはわかるけど、それも誰だ? 僕は知らない人の家の瓦礫の山で倒れていたということか?
「全く災難ですねー。何か災害にでも遭ったんですか? 何か知っていることとかありますか?」
知っていること……知っていること?
僕は記憶を辿り始める。どうして瓦礫の山なんかで倒れていたのか、田舎町なんかに僕はいたのか、僕は何をしていたのか、僕はいったい誰なのか。
そこで僕は気づく。
僕の中に何一つ、記憶がないことに。
「何も、思い出せない」
捻り出すように僕は答える。そこで気づくが、自分の右腕が厳重に包帯で包まれており、指先は全く動かない。
この右腕はどうしたのだろう。何かの大怪我だろうか?
「そうですか……記憶喪失ってことなんですかねぇ? しかしまぁ喋れてますし、特に問題ないでしょう。人として活動できるなら幸運な方ですよ」
……病院ということだから、そういう患者を多く見るのだろう。反応から見るに、僕はかなりましな方らしい。
しかし、経歴だけがまるっきり思い出せないというのは、随分狙いをすました記憶喪失である。
イーさんがこちらを見ているが、差し当たって聞きたいこともないので、とりあえず僕はベットから降りる。ずっと寝てばっかりというわけにもいかないし、部屋の様子が少し気になったからだ。立ち上がったことによって薄く肌触りの良い衣服が僕の体から少し浮く。
「おぉ、足腰も健康そのものですね!」
イーさんが僕の方を見て言った。
僕はまず窓を観察してみることにした。朝日を浴びたい気持ちもあるが、外を見れば何か思い出せるのかも、という期待もあったからだ。
木枠の窓を目前に据え、まずはガラスの先を眺めてみる。どうやらこの部屋は二階か三階ほどの高さがあり、ここら一帯を一望できる。外は樹海が広がっていて、集落や村がある様子はない。陸の孤島というやつだろうか。
次に窓を開け放とうと画策したのだが、開け方がわからない。というより、そもそも開放することを想定した作りではないようだ。
その時、目下の森林で影が動いたのを視界の端で捉えた。
その影の正体は人間だった。おそらく男だ。実用性の高そうな服を着ている。その男はこの建物を見つけるや否や、訝しげに見渡し始めた。その視線の動きからは、若干の戸惑いも見受けられる。
と、そこで目が合った。
男はこちらを見つめている。僕も見つめ返す。しかし、特になんの行動を起こすことなく、男はまた森の中へ引き返していった。
なんだったのだろう。ただ迷っていただけなのか?
男のことはさして気にならず、他の調度品はどうだろう、と僕は目を部屋中に渡らせた。しかし、ここはベッド以外何も置いていない部屋だった。
「つまらない部屋ですが、ここがあなたの居室です」
「たしかに……つまらないですね」
本棚すらない病室だ。退屈になったらどうすれば良いのだろう。
「ところで、十分元気そうですね。どうです? 色々説明し損ねていることもあるようですし、私と散歩でもしませんか?」
「散歩ですか?」
「そうです。私と散歩しましょう。ええ、ぜひ散歩しましょう」
まぁ……特に断る理由もない。僕は二つ返事で要求を受け入れた。
「うんうん。ありがとうございます。じゃあ早速赴きましょう! 凱旋しましょう!」
部屋を出てすぐ見えたのは、大理石の床が輝く廊下だった。壁面は無機質で取り立てて特徴がなく、清潔な印象を無理やり押し付けてくるようなデザインだ。
「さて、まずは一番重要なことを伝えておきましょうか」
「一番重要なこと?」
「あなたに人権はありません」
**********
『あなたに人権はありません』
『つまり、あなたは院内における貴重な実験体というわけです』
『もっとざっくばらんにいうなら、我々の所有物です』
『あなたは人間ではありません』
僕は病室の天井を眺めながら、イーさんに言われたことを反芻していた。
時刻は夜、散歩もとっくに終わり、味の薄い食事を済ませて寝床についていた。
この病院についての説明や、過ごし方、規則や僕の容体、いろいろなことを説明してもらった覚えがあるけれど、のっけからの非人間宣言で僕の頭は埋め尽くされてしまった。記憶のない空っぽの脳みそとはいえ、何でも受け入れられるわけではない。
とはいえ、そこまで非人道的な扱いは受けないだろう――――いやしかし、どうだろう?
考えてみれば、怪しさ全開のこの病院で、どれだけの待遇が期待できる? 僕はもしかしたら、何らかの実験に使われるための存在かもしれないじゃないか。
人権がないっていうのは、つまりそういうことだろう。
ともかく、今日はもう活動しないでおこう。なんだかんだでそれなりな距離歩いたわけだし、何より頭脳が軋む音がする。三代欲求の一角が自己主張を強めてきていることもある。素直に休息を取るのが賢明だろう。
そうして、僕は明日に怯えて瞼を閉じる。
静寂と闇の海に沈む。光の残穢だけが視界に映る。次第に意識もまどろんでいく。
心臓の鼓動が低迷し、呼吸も浅くなだらかになる。
そして――――
『あなたは人間ではありません』
直後、オーティーさんの言葉がフラッシュバックし、身体の全機能が活動を再開した。むしろ、眠りにつく前より覚醒している。あの朗らかな声から反響する冷徹な言葉。それが自分に向けられたものであることが何より身の毛をよだたせる。
不安は拭いきれない。自分がどれだけ異常な状況に置かれているか、今染みるように実感する。
「このまま起きていれば、明日は来ないんじゃないだろうか……」
脈動は落ち着いた。それに従って、眠気がぶり返す。
体をベッドに預け、枕の上に頭蓋を据える。今度は余計なことを考えない。落ち着いて呼吸して、頭の中は空っぽに。
そうすると、ほら、だんだん意識が霞掛かっていく。
あぁ、明日がやってくる。
――――その時、ガラスが割れた。
部屋の中にガラスが散らばる。外で吹いていた風が入り込み、シーツが意思を持ったように暴れ回る。
僕は驚いて声も出ない。目は完全に覚めた。眠気なんてものはまやかしだ。
部屋はほとんど暗闇だ。いくら夜目が利いていると言っても室内の様子は全く掴めない。だが、それでも人間がガラスの破片が転がっているであろう場所にうずくまっているのがわかる。
「な、なに? だ、だれ?」
「う、うぅ、お、おえぇぇぇ」
びちゃびちゃと液体の跳ねる音が聞こえる。何が床に打ち付けられているのかは知らないが、吐瀉物であることは想像に難くない。
「だ、大丈夫、とかじゃなくて、えっと、な、なんですか?」
混乱してうまく言葉が紡げない。
「いや――――大丈夫だ。なんの問題もない。お前が気にするようなことじゃない」
「そ、そうですか」
どうやらこの人間は男だったらしい。淡白ながらに重厚な喋り方に、圧倒される。
「馬鹿と鋏は使い用――――とはよく言ったものだな」
服が擦れるような地面から立ち上がる音聞こえる。どうやらもう状態を回復したらしい。
「えっと、どなたですか?」
「ふん……俺が誰かなんてのはお前にとってはどうでもいい――――あえて言及するなら、ただの犯罪者だ」
それは果てしなく正確で、何より的確な、言い得て妙な自己紹介だった。
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