#10 立ち向かう者と、立ち竦むモノ
前回のあらすじ
風呂場に魔獣を追い込み逃れることに成功した。そこでトコロデとナドに再会し、情報交換をする。そうして探索を続けるが、進んだ先にはボロボロのソレユエ。そして広間の中央に、完璧な魔獣が立っているのだった。
夢がなんだとか適当なことを言っていられる状況では無いことは、火を見るよりも明らかだった。
そこにいたのは魔獣だった。服を着ていて人の形をしているが、その体に宿っているであろう純粋な破壊衝動は、僕の全身が感じ取っていた。
「あれ? ここぉどこ?」半ば寝ぼけた声のトコロデ。
魔獣はこちらの様子を伺っている。ように見えるが、いつ動き出してもおかしくないと、僕は思った。
つまりは、かの魔獣の動向を、あるいは行動を、全く予測できないという意味だった。
「問題はどうやってやり過ごすか、だが……」
「あれを」
状況を察したのか、すっかり覚醒した声でトコロデが喋り出した。
「倒せばいいの、かな」
ナドの上から降りたトコロデが、ロッドをしっかり握りしめた。
寝起きで即刻戦闘モードに頭を切り替えられる頭には尊敬を覚えるが、しかしあれに対して威勢よく出られるというのは単に命知らずだという風でもあった。
「あれに手出しは――――」ソシテがそのトコロデを制止しようとした瞬間にはもう、トコロデは飛び出していた。
驚異的な跳躍力でナドの上から飛び降りて、そのままの勢いで魔獣に殴りかかったのだ。
と思ったのが……
「あれ?」
トコロデの攻撃はあっさりと空振りに終わっていた。しかしおかしい、トコロデの射程範囲には入っていたはずだ。だから、空振るというのはおかしい。魔獣が避けたのだというのならまだしも、なんのリアクションもないというのは奇妙だ。
もちろん体が前へ行こうとする勢いを利用した攻撃が空ぶったということなので、空中で止まることのできないトコロデは魔獣とぶつかることになる。
しかし、空ぶった勢いのまま、トコロデはうまく体を回転させ、魔獣の頭を踏みつけたのだ。そしてそのまま、再度飛び上がり、魔獣との距離をとった。
いや、どんな身体能力だよ。
「まずいな。あいつ死ぬぞ」人間の限界に感動している僕を横目に、ソシテは冷静だった。しかし、いかに強力無比さが予想される完璧な魔獣と言えど、トコロデなら匹敵できそうな気もするが……
「うっ……」
トコロデの方から呻き声が聞こえたかと思うと、全身に切り傷が浮かび上がり、そこから血が吹き出した。そうして膝をつき、トコロデは魔獣の前に屈してしまっていた。
いつの間に……? 常に見張っていたと言うわけではないにしろ、切り込むような動作があればわかったはずだ。しかしどうしてか、かの魔獣にはそういった動きは見られなかった。
いつの間にか切られた。皮膚の方が、自発的に切り傷に成った、と言った方が正しいと感じるほど何の予備動作もなくトコロデは切られていた。
思えば、この状況は初めてではなかった。僕が流動体の魔獣に掴まれた状態で、ソシテを追いかけていた時、ソシテの左脇腹と右足はいつの間にか切られていた。
いつの間にか。
「ナド!」「はい!」
ソシテの掛け声と共に、ナドとソシテが魔獣の立つ広間へと降りる。ナドが先陣を切り、すぐさま魔獣に組みついて拘束する。その状態で、ソシテの無限増殖するナイフが無数にロープを作って魔獣の四肢を縛りつけた。
ナイフのロープは広間の壁や天井、突起と言えるもの全てに絡みついており、そうやって作られたこの拘束の堅固さは相当なものだろう。
「な、んで…… 」
しかし、次に倒れたのはナドだった。鎧が紙細工のように切り裂かれ、隙間から彼の肉体が見えた。同時に、魔獣の拘束も解けていた。
また、いつの間にか、だ。しかし今度は、切り裂かれた原因がはっきりしている。
魔獣の両手、黒く輝く金属質のその両手が、刃物のような形状に大きく変容していたのだ。
形状の変化も可能なのか……。
「さすがに苛烈だな。人間相手じゃあっさり惨殺するのもつまらんという感覚なのかな」
そう言うソシテは冷静を保っているが、声に僅かな震えがあるのを、僕は聞き逃さなかった。
「待ってください、ソシテさん」こんな状況でただ傍観だけする僕ではない。僕にだってできることはあるはずだ。
魔獣に施したナイフの拘束は解けている。ナドを切るついでにナイフも切られたようだ。しかしまぁ、切ることが唯一の役目であるナイフを切るなんて、そんな皮肉な話もそうそう無い。
魔獣は僕たちに背を向けていた。もっとも、表情もなければ顔もないこの魔獣において、正面も背面も区別はないと思うが。
「うっ……まだ、だよ。わたし、まだ死んでない!」
トコロデが立ち上がる。体を動かした拍子に、傷口からは相当な量の血液が流れ落ちていく。たしかに現在いまだに死んではいないが、いつ死んでもおかしくない。
「アレに近接戦闘はしない方が賢明だろうな。ナドとトコロデが切り刻まれたトリックがわからん以上、迂闊に近付かん方がいい」
今殴り込みをかけても、二人の二の舞になることは明らかだ。
「俺がもっと厳重に拘束をかけるしか無い。その隙に逃げるぞ」
ソシテはそう言って、再度無限増殖するナイフを連結させロープのようにし、魔獣の元へ伸ばした。
あ。
いや、なんだ。これ。
突如として、頭の中を支配した、直感。
僕は考えるよりずっと先、どの思考よりも先行して、ソシテの方へ両手を伸ばして飛びかかっていた。
庇っていた。
「な」
次の瞬間、右腕から強大な衝撃を感じた。ソシテと重なっていたために、僕とソシテは背後へ吹き飛ばされる。
そして理解した。
何か珍妙な技を用いて、目に見ることなく二人を切ったのだと思っていたが、あの魔獣はただ単純に、人間の目では捉えられないほどの高速で切っていただけなのだ。
単純で、暴力的。
馬鹿らしい。力技もいいところだ。
それゆえに、絶対に覆せない運命じみた絶望がそこにはあった。
「うぅ……」
背後にはカウンターテーブルがあったらしい。それらを突き破り、棚を破壊してガラスの破片を被りながら、衝撃の重みを感じていた。
右腕は、無事だった。切り落とされてしまったかと不安になったが、事実そんなことはなく、包帯が断たれて弛んだ程度で済んでいた。
「こっちを見ろ! 怪物!」
トコロデの張り上げる声だ。状況はよくわからない。もしかすると、魔獣がこちらに向かってきているのだろうか。
「私も……忘れてもらっては困ります……よ」
捻り出すようなナドの声だ。
だが、二人の声が聞こえた次の瞬間には、液体の飛び散る音と、腹から空気が抜けただけのような力無い声が響いて、無機質な足音だけが聞こえる。
二人がどうなったかは、想像に難くない。
ソシテは気絶していた。左脇腹と右足から血が流れ出していた。
僕はなんとか立ち上がろうとする。しかし、吹き飛ばされた衝撃が思いのほか体に響いているようで、膝の震えが止まらない。
こんなことしている時では無いのだ。立って立ち向かわなければならないのだ。でなければ……でなければ……
ただ、死ぬだけなんだ。
死ぬ。
それは、いなくなるということ。
誰の記憶からも消えるということ。
「ま……待て、まだ、ワタシ……がいる!」
力の抜けた突きが、魔獣の左脇腹を刺した。ソレユエがなんとか立ち上がり、一矢報いようと握られた一本の金属棒を魔獣に向けたのだ。
一本の金属棒。
ソレユエはそんなものを己の得物としていただろうか。確か、僕の記憶ではかの副隊長は暴力という言葉の語源になりそうな槌を振るっていたはずだ。
しかし今は棒一本。それに、武器として誂えられた棒ではなく、切り口があり、まるで棒の先に元々何かしらがついていたかのようである。
切られた……? まさか、あれはソレユエの振るっていた槌の柄の部分だとでもいうのか?
だとすれば、もしそうなのだとすれば、トコロデの攻撃が当たらなかったのは、ロッドが当たるその瞬間に――――
ロッドの先端を粉微塵にした、から?
「ぐあっ!」
ソレユエは魔獣が左手で薙ぎ払われ、またも壁まで吹き飛ばされる。その軌道上を、彼女のものであろう血飛沫が追従する。
しかし、もし本当に槌を切り刻み、ロッドを斬って消滅させたのであれば、魔獣の切れ味は想像を絶する。
だが、もし魔獣がそこまでの力を持っているのだとするなら、トコロデやナド、それに僕とソシテだってここまで形を保ててはいないだろう。
とっくのとうに赤い血飛沫になっている。
その時、僕は心の底から理解した。
要は、そういう意味だったのだ。
僕たちは、これに、こんなものに立ち向かうのも、こんな場所に挑むのも――――
「ここにいるの、は、ワタシ……の獲物だ……ワタシ……の手柄だ」
ソレユエが立ち上がる。その拍子に血がぼたぼたと床に激突する。
「ソレユエ……さん、ソレユエさん! 立ち向かったらダメだ!」
僕は喉が張り裂けそうなほど叫んで、彼女に伝えた。
「ワタシ……は、使命があるんだ! 国を守るという、使命が! 敵に立ち向かい打ち砕くという、使命が! 悪人に裁きを下すという、使命が!」
力なく踏みしめられる床。足音と共に、血の落ちる音がする。
「ワタシ、は……中央王国騎士団第一隊副隊長、ソレユエだぁぁぁぁ!」
そう、彼女は叫んだ。
絶叫というに相応しい。
鎧はすっかりひしゃげ、破れ砕かれ、身を守る能力を失っていた。
傷口と血液で赤い魔人のような形相になったソレユエは、手に握り拳を作って魔獣に殴りかかった。
「は、」
――――
しかし、残ったのは静寂だった。
拳が当たった音もせず、誰かが壁に激突する音も、切り刻まれる音もしない。ソレユエの声もしなければ、血液が辺り一面舞い散る音もしない。
僕は見ていたはずだ。立ち上がりこそできないが、それでも両目は生きていた。
その両目で終始眺めていたはずなのだ。傍観していたのだ。
だから、僕がソレユエを見失うことなどあるはずがない。
見失うことなど、見紛うことなど、ない、のだが……。
「ソレ……ユエ、さん?」
ソレユエはどこにもいなかった。
あるのは二本足で直立している魔獣と、血飛沫。床に臥しているナドとトコロデだけだ。
なん……で?
消えた?
想像を超える距離を、あるいは予想外の場所へ突き刺さってでもいるのかと、部屋中を見渡すが、やはりどこに姿はない。
消えた。
姿が、消えた。
それがどういう意味なのか、どういう理由で消えたのか、それを考える余裕は、もはや僕にはなかった。
だって、魔獣は次に、僕の方へと歩んできたのだから。
「はっ……はぁ……来るな」
血溜まりを踏みつける音。
「来るな……、来るなって……」
魔獣の着ている衣服の擦れる音。
「いやだ……いやだ!」
僕の心臓の音。
僕は逃げようと、もがく。魔獣に背を向けるように逃げようとする。
だけれど、後ろは壁だった。投げられた際に破壊されてしまった戸棚のガラス片が左手を、あるいは右手を、はたまた左足や右足を切り刻む。
包帯の解かれた右腕は、激しい激痛を伴ってその姿を現している。
おぞましい、肉の中身だ。
魔獣は一歩ずつ、確実に近づいてきていた。
「おまえ、お前は誰なんだ! なんなんだ! 何がしたいんだ! わざと僕たちを生かすような真似をして! ソレユエさんはどこにいったんだ!」
きっと、僕たちの言葉を理解していて喋れるもするはずだ。僕たちが立てた成形されていればされているほど強力という仮説が有効ならば、流動体時点でできていたこと以上の能力はあるはずなのだから。
だけれど、理解していながら何一つ応えないというのはつまり、僕たちのことを侮っているということだ。
会話なんかする価値すらないと、そう思われているのだ。
命が軽いと、どうとでもできる物を、急いで処理しようと躍起になる人間もそうはいない。
魔獣は目の前に佇んでいた。
僕の事を、存在しない眼で見つめている。
魔獣は腕を刃物状に変形させ、僕の服の首元に引っ掛けるようにして、僕は魔獣の顔の前に掲げられた。
「お前は、一体、何なんだよ……」
『むいみ』
たぶん、あの手帳を残した人はこいつに出会ったんだ。
地図を書いて、きっといろいろな法則を記録したはずだ。
ここから出るために。生きて帰るために。
だけど、こいつに出会って、魔獣と邂逅して、この場所に揉まれて、この旧世界を知って、わかってしまったんだろう。
これに、こんなものに立ち向かうのも、こんな場所に挑むのも、『むいみ』で無意義だってことに。
「こんな……ところで……」
こんなところで、死にたくない。
腕を、腹を、腰を、足を、血液が這っていくのを感じる。
血液は靴底まで辿り着き、靴から滲み出て、床に落ちる。
「ぼくが誰かも、知らないのに……!」
僕はもがく。暴れる。魔獣の体を、これでもかと蹴り続ける。
刃の腕を握る。腕を振る。攻撃する。抗う。
意味もなく、幼稚に、泣き叫ぶ赤子のように両手足を稚拙に動かして。
「ひっ……うぐっ、うっ、ひっ」
両頬を何か温かいものが伝った。
ついに眼球からも出血したのかと思ったが、しかしそうではないようだ。
「くそっ……なんで、うぐっ、どうしてっ、ひっ」
泣いていた。僕は泣いていた。
魔獣を目の前にして臆面もなく泣いていた。
恥じらいもなく、抵抗もなく。
ただ赤子のように泣いていた。
「くそっ、くそっ、くそっうぐっ、ひっ、う」
人生で初めて泣いたんじゃないかと思うほど、僕は大粒の涙を、壊れた蛇口のように流し続けていた。
感情の終着点と言える泣くという行為を、しかし僕はよく知らなかった。
涙を流すとは、涙を流すほどの強烈な感情というのは――――
こんなにも怖いなんて。
「う、うぅう」
右腕が痛い。
全身痛くないところなどない。しかしそれを打ち消してしまうほどに右腕が猛烈に痛む。
張り裂けそうだ。
恐怖で溢れる涙と、痛みで流れる涙。
傷を彩る血液。
「う、ううあああぁあああぁあ!」
――――そういえば一つ。思い出したことがあった。
夢の話だ。あの病院で、あの僕が囚われていた、ソシテが窓を突き破って現れたあの病院で目覚める前に見ていた夢のことだ。
黒い女だ。黒くて黒くて黒々しい。美しく長い黒い髪と、麗しくたなびく黒いドレスを身に纏った、黒い女。
そいつが笑ってこう言った。
『世界はやっぱりつまらない。そう思うだろ?』
次の瞬間、閃光が空間を侵した。音が全て消え失せ、天地の境は失せる。
――――
耳鳴りがする。
――――
吐き気もだ。
――――
目が痛い。
――――
いや、腕が、右腕が痛い。
――――
痛い。痛い痛い痛い痛い痛い!
裂けるように痛い! 割れるように痛い! 切れたように痛い! 噛まれたように痛い! 煮えるように痛い! 折れたように痛い! 千切れるように痛い! 潰れるように痛い! 焼けるように痛い! 捻れたように痛い! 剥がれたように痛い! 刺されたように痛い!
痛い痛い痛い痛い!
「あっ……がぁ……はぁはぁはぁ……」
感覚を取り戻した。右腕が猛烈に痛む。その様子を恐る恐る伺うと、見るも無惨に焼けこげていた。
肉は飛び散り、骨が少しみえ、肌は炭となり、指先はひしゃげている。
あたりを見渡すと、変わらずあの広間だった、が、しかし僕を中心に大きなクレーターが出来上がっていた。
魔獣は、いない。
敵は、いない。
みんなを探すと、すぐに見つかった。ソシテは同じく戸棚の前で気絶しているし、ナドとトコロデは……多分吹き飛ばされたのだろう。壁際まであらぬ姿で転がっていた。
僕も、全身の力を振りしぼって立ち上がる。足がガクガクと震えて上手く立てなかったが、ゆっくり、慎重に落ち着きながら僕は立ち上がった。
「…………」
僕は右腕から流れ落ちる体液に構わず、壁まで吹き飛んだ二人の元へ行く。そうして二人を僕の服で一繋ぎにして引きずれるようにした。
次に、ソシテの元へ行き、同じようにする。服が足りなかったので、ソシテの服を借りた。
そうしてできた一本の人間ロープの尻尾を肩に担ぎ、魔獣が立ち塞がっていた両開きの扉へと進む。
その先は廊下だった。長い上に壁には扉もない。廊下だった。
その廊下を進んだ。一歩一歩を踏み締めるように進んだ。
終着点には扉があった。広間にあったのと同様に両開きだった。それを開けて進む。
「…………」
そのさきは廊下だった。長い上に壁には扉もない。廊下だった。
その廊下を進んだ。一歩いっぽを踏みしめるように進んだ。
終着点には扉があった。広間にあったのとどうように両びらきだった。それを開けて進む。
「…………」
そのさきはろうかだった。ながいうえにかべにはとびらもない。ろうかだった。
そのろうかをすすんだ。いっぽいっぽをふみしめるようにすすんだ。
しゅうちゃくてんにはとびらがあった。ひろまにあったのとどうようにりょうびらきだった。それをあけてすすむ。
「…………」
そのさきは。
「…………」
そのさきは。
「…………」
その、さきは。
「あっ」
いつの間にか階段が現れていたことに気づかず、僕は一段目を踏み外してしまった。
そこから先は、もう覚えていない。
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