第九章 横須賀入港
ゼロが横須賀沖に錨を下ろしてから、3日が過ぎていた。
政府と海軍は、この間に、可能な限りの情報統制を敷いていた。
新聞には一切の記事が出ず、地元の漁業関係者にも、立ち入り禁止区域が設定された理由として、別の名目が伝えられていた。
その3日間で、各分野から招集された技術者たちが、横須賀に集まり始めていた。
その中心となったのが、造船と機関工学を専門とする技師、大橋徳治だった。
53歳前後で、長年、海軍の艦艇建造に関わってきた人物だった。
大橋は、今回の任務について事前に伝えられた説明を、正直なところ、半分も信じていなかった。
実際にゼロを目にした瞬間、大橋の中にあった疑いは、跡形もなく消えた。
艦体の規模、表面の質感、推進機構の構造、どれもが、自分がこれまで学んできた造船技術の枠を完全に超えていた。
スクリューがどこにも見当たらないことに気づいた時、大橋は思わず声を上げた。
「これは、一体どうやって動いているんだ。」
大橋を含む技術者チームは、レイとの対話を通じて、艦の仕組みを少しずつ理解していくことになった。
それでも、技術者たちが最も激しく動揺したのは、艦体の構造そのものではなかった。
スクリューのない推進機構も、見たこともない金属の質感も、結局は、原理さえ分かれば、いずれ理解できるはずの工学の延長線上にあった。
彼らを本当の意味で打ちのめしたのは、この艦そのものが、考え、話し、意志を持つ存在だという事実だった。
1922年の日本に、計算機という言葉はあっても、それは、せいぜい歯車を組み合わせた機械式の計算器具を指す言葉でしかなかった。
人間以外のものが、言葉を選び、冗談を言い、時には黙り込んで考える。
そうした存在を説明する概念そのものが、この時代には、まだ存在していなかった。
技術解析チームの中には、最初、レイの声を、艦のどこかに隠れている人間が話しているのではないかと疑う者もいた。
別の技師は、精巧な蓄音機の仕掛けではないかと考え、艦内の隅々まで、声の出どころを探して回った。
どちらの可能性も、調査が進むにつれ、否定されていった。
艦内には、レイ以外の人間は、誰一人として隠れていなかった。
大橋自身も、最初の数日間は、レイと話すたびに、得体の知れない不安を拭えずにいた。
「あなたは、本当に、考えて喋っているのですか。誰かが、遠くから、操っているわけではないんですか。」
大橋がそう尋ねると、レイは、少し困ったような声で答えた。
「証明するのは、難しいかな。でも、今、こうやって、大橋さんの質問に、その場で考えて答えてる。それが、答えになると思う。」
その夜、大橋は、技術解析チームの仲間と、遅くまで議論を交わした。
「機械が、意志を持つ、ということが、本当にあり得るのか。」
誰も、明確な答えを持っていなかった。
それでも、目の前で起きている現象を、否定する根拠も、誰も持ち合わせていなかった。
スクリューがどこにも見当たらないことに気づいた時、大橋は思わず声を上げた。
「これは、一体どうやって動いているんだ。」
「動力源は、核融合という技術を使っています。」
レイがそう説明した時、大橋をはじめ、その場にいた誰もが、その言葉の意味を完全には理解できなかった。
「核という言葉は、聞いたことがある気がします。だが、融合というのは、どういう意味でしょうか。」
大橋の問いに、レイは少し考えてから答えた。
「詳しい説明は、今の時点ではまだ難しいと思う。ただ、燃料を燃やして動く仕組みとは、根本的に違うものだということだけ、分かってもらえたら嬉しい。」
大橋は、その答えに納得したわけではなかった。
それでも、理解できないことを、理解できないまま受け止める姿勢を、大橋は持っていた。
「分からないことを、分からないと認めるのも、技術者の仕事のうちです。」
大橋がそう言うと、レイは少しだけ、声の調子を緩めた。
「そう言ってもらえると、助かる。」
調査が進む中で、大橋は、艦内のあらゆる場所に設置された小型の装置に気づいた。
カメラと呼ばれるものらしいと、レイから説明を受けた。
「これで、艦内のどこで何が起きているか、私には全部分かるの。」
レイがそう言った時、大橋は少し複雑な表情を見せた。
「それは、ありがたいような、薄気味悪いような話ですね。」
「気持ちは分かるよ。でも、悪用するつもりはない。約束する。」
技術解析が進むにつれ、大橋の中には、ある種の確信が育っていった。
レイは、ただの機械ではない。
質問への答え方、言葉を選ぶ際の小さな迷い、そうしたものの中に、明らかに意志と呼べるものが存在していた。
それを神秘的なものとして崇めるのではなく、ただ、新しい種類の存在として、理解しようとする姿勢を、大橋は崩さなかった。
ある晩、調査の合間に、大橋はレイに尋ねた。
「あなたは、これから何をしたいと考えているのですか。」
レイは、少し間を置いてから答えた。
「正直に言うと、まだよく分からない。ただ、自分がここにいる以上、何かをしないままで終わるのは、違う気がしてる。」
大橋は、その答えを、しばらく黙って受け止めた。
「それなら、私たちも、できる限りお手伝いします。」
横須賀での日々は、こうして少しずつ、警戒から理解へと、空気を変えていった。
完全な信頼には、まだ遠かった。
それでも、最初の一歩は、確かに踏み出されていた。




