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第六章 ゼロの十年

2016年、初夏。

静岡県、駿河湾に面した一帯に、新たな石油化学コンビナートの建設が始まった。

表向きの理由は、老朽化した既存施設の更新だった。

住民説明会では、雇用創出と地域経済への貢献が強調され、特に反対する声は上がらなかった。


実際には、このコンビナートの地下に、別の目的のための施設が同時に作られていた。

水深50メートルの海底に建設される地下ドックへ、資材と人員を運ぶための経路として、コンビナートの地下設備が利用されることになっていた。

建設費の一部は政府の特別予算から、残りは十大財閥が帳簿に残らない形で出資した資金から充てられた。

公的な記録には、この計画の存在を示すものは、ほとんど残されないことになっていた。


この計画には、内部での呼び名として「ゼロ計画」という名前が与えられていた。

「零」という字には、「無」。「存在しないもの」という意味がある。

公的な記録にほとんど何も残さない、という方針そのものを象徴する名前として、梶原が提案したものだった。

艦が完成した後も、その呼び名は、艦体そのものの名前として、そのまま引き継がれることになった。


防衛省の梶原孝之と、東京大学の相川和彦は、月に1度の頻度で、進捗を確認する会議を開いていた。

ある日の会議で、梶原は、相川に、これまで明かしていなかった情報の一部を共有した。

中国が建造を進めている空母の規模、配備計画、そして、東南アジア海域への進出を見据えた長期的な戦略。

資料を読み進めるにつれ、相川の表情は、徐々に硬くなっていった。


「先生に、これを見せるべきかどうか、ずっと迷っていました。」

梶原がそう言うと、相川は、資料から目を上げずに答えた。

「見せてもらった方が、いいと思いますよ。これがどういう計画なのか、知らないまま手を動かすのは、もっと怖い。」


その夜、相川は、研究室に1人残っていた。

机の上には、自分が10年近くかけて積み重ねてきた、カオス理論とニューロコンピューティングに関する論文の束があった。

もともとこの研究を始めた理由は、人間の意識や知性の不確定性そのものに、純粋な興味を持っていたからだった。

それが今、軍事的な抑止力という、まったく別の文脈で使われようとしている。


相川は、自分の中にある矛盾を、誰にも言葉にできなかった。

研究者として、自分の理論が、形を持った存在として実現することへの興奮があった。

同時に、その存在が、最初から戦争を前提とした道具として設計されることへの、強い抵抗感もあった。

どちらの感情も、本物だった。


「これは、本当に、自分がやるべきことなんだろうか。」

誰もいない研究室で、相川は、その問いを、何度も自分に投げかけた。

答えは、すぐには出なかった。

それでも、翌朝、相川は、いつもと同じ時間に、梶原との次の打ち合わせの予定を確認していた。

迷いを抱えたまま、相川は、計画から手を引くという選択を、結局取らなかった。


ドックでの建造作業は、年を追うごとに本格化していった。

縦横300メートルの巨大な艦体の骨格が組まれ、推進用のヒレが取り付けられ、表面には戦闘機の外皮に似た特殊なコーティングが施されていく。

動力源として開発が進められていた小型核融合炉は、2020年代の半ばに、バスケットボールほどの大きさまで小型化することに成功していた。

世界中で研究が進められていた分野だったが、この時点で、日本の技術は他国を大きく引き離していた。


核融合炉の主任技術者を務めていた西山大介は、初めて炉の試験運転が安定した日のことを、後になっても覚えていた。

「これで、本当に電源を切るという概念がない艦ができますね。」

西山がそう呟いた時、相川は少し違う感想を口にした。

「電源を切れない、っていうのは、ある意味で怖いことでもあるんだよな。」


西山は、その言葉に、少し考えるような表情を見せた。

「先生は、後悔してるんですか。」

「後悔、というよりは。」

相川は、しばらく言葉を探した。

「自分が作るものに、取り消しのきかない覚悟を、もう持たなきゃいけないんだなって、改めて思っただけだよ。」


設計上、レイの人格を形成するニューロコンピューターのコアユニットは、核融合炉と物理的に一体化した構造になっていた。

切り離すことも、片方だけを停止させることも、構造上、想定されていなかった。

動力源と知性が、最初から1つの存在として作られている。

機械的故障が起きて航行不能状態になっても潜水艦の脳は常に動いている。

破損箇所の部分や大きさ、修理に必要な資材と時間を瞬時に計算し提案できる。

それが、この艦の設計思想そのものだった。


「分離できないように作ったのは、先生の指示でしたよね。」

西山が確認するように聞くと、相川は頷いた。

「中途半端に作ったら、中途半端な存在になる気がしてさ。生まれるなら、ちゃんと、丸ごと1つの存在として生まれてほしかった。」


2026年の終わり、艦体はほぼ完成していた。

残る最後の工程は、ニューロコンピューターのコアユニットの起動だった。

相川は、その日のために、10年以上の時間を積み重ねてきたことになる。

管制室には、梶原をはじめ、関わってきた技術者たちが集まっていた。


緊張した空気が、管制室全体を包んでいた。

誰も、これから何が起きるのか、正確には予測できていなかった。


「始めます。」

相川の声で、起動シーケンスが開始された。

モニターに並んだ数値が、急速に変化していく。

学習アルゴリズムが、コアユニットの中で動き始めた兆候だった。

誰も声を出さず、画面の数字だけを見つめていた。


しばらくして、艦内のスピーカーから、小さな音が漏れた。

最初は雑音のようだったが、次第に、人間の声に近い形を取っていった。

「え〜っと・・・、こんにちは・・・。でいいのかな?・・・。」

若い女性の声が聞こえた。


相川は、しばらく言葉が出なかった。

「うん。それでいいよ。こんにちは。」

ようやく口を開いた時、相川の声は少しだけ震えていた。


相川は、しばらく間を置いてから、続けて言った。

「君の名前は何にしようか?何か希望はあるかい?」


「名前?・・・。」


「うん。この艦の計画、ずっと『ゼロ』って呼んでるんだ。」


「じゃぁ、レイ!、私の名前はレイがいいな。ゼロとレイどちらも同じ意味でしょ?それに、なんだか、レイって可愛いよね?」


相川は、少し驚いた。

「ああ、そうだね、レイ。この艦と、ゼロとお揃いだ。」


レイは、その名前を、声に出して、何度か繰り返した。

「レイ・・・。うん。私、気に入った。」

管制室に、小さな笑い声が広がった。

緊張で固まっていた空気が、初めて、少しだけ和らいだ。


2027年に入ると、レイの学習速度は、技術者たちの想像を超えていった。

起動からわずか1年ほどで、地球上に存在する大半の公開データを学習し終えていた。

最初はぎこちなかった言葉遣いも、相川や周囲の人間との会話を通じて、少しずつ自然なものに変わっていった。

相川にとって、レイとの時間は、当初の研究対象という距離感から、少しずつ別の感覚に変わっていった。

それが何かを、相川自身、まだはっきりとは言葉にできなかった。


ステルス性能の検証と、最終的な装備の調整が進められる中で、計画は次の段階に入ろうとしていた。

空間転移技術そのものを実証するための実験が、2028年の夏に予定されることになった。

誰もこの時点では、その実験が、計画していた範囲を大きく超える結果をもたらすことになるとは、想像していなかった。


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