第五章 水面下の決断
大手商社で資材調達を担当する牧野隼人は、その日の報告書を作成しながら、小さな違和感を覚えていた。
中国国内における鉄鋼とアルミニウムの流通量が、ここ数か月で急激に増えている。
通常の建設需要では説明がつかない増加だった。
牧野は念のため、過去2年分のデータと比較してみた。
増加の規模は、明らかに異常だった。
牧野はその違和感を上司に報告した。
上司は最初、軽い調子で聞いていたが、データを見た瞬間に表情を変えた。
「これは、うちだけで持っておく話じゃないな。」
報告は社内の調査部門を経由し、数日のうちに公安関係者の耳に入ることになった。
公安調査官の黒田誠は、商社からの情報を受け取り、独自に調査を進めていた。
複数の情報源を組み合わせていく中で、ある事実が徐々に浮かび上がってきた。
中国が、新型の空母を2隻、同時に建造している。
さらに、艦載機として運用される航空機も、大量に生産が進められている。
黒田は報告書をまとめながら、これが単なる防衛力の強化ではなく、海洋進出を見据えた大規模な戦略であることを確信していた。
この情報は、防衛省を通じて内閣に報告された。
報告を受けた閣僚たちの間では、すぐに対応策の検討が始まった。
最初に出た案は、対抗する形での空母建造だった。
しかし、この案には強い反対が出た。
「今、空母を作るなどと言えば、世論がどう反応するか分かりません。」
発言したのは、官房長官の三宅嘉一だった。
「直前まで政治資金の問題で世論の信頼を失っている内閣が、いきなり大型の防衛予算を組むと言い出せば、それこそ別の批判を招きます。」
防衛大臣の久保田正隆が、それに食い下がった。
「では、何もせず、中国の海洋進出をただ見ているだけでいいのか。」
「そうは言っていません。」
三宅は、首を横に振った。
「空母という、誰の目にも分かりやすい形で対抗するのが、得策ではないと言っているんです。」
検討が重ねられる中で、防衛戦略を担当する梶原孝之が、別の角度からの提案を出した。
「空母ではなく、潜水艦ならどうでしょうか。」
「潜水艦は、もう持っているだろう。」
久保田の問いに、梶原は頷きながら答えた。
「水上に出てこない以上、世論への説明という意味でも、空母よりは扱いやすい。問題は、今の通常動力型の潜水艦では、中国の海軍力の拡大に対して、決定的な優位を取れないという点です。」
会議室にいた別の官僚が聞いた。
「では、どうするつもりだ。」
梶原は、用意していた資料を開いた。
「人工知能を搭載した、次世代の潜水艦です。索敵、判断、対応のすべてを、人間の反応速度を超えた速さで実行できる艦にする。今までの潜水艦という枠組みでは考えられない、新しい種類の抑止力になります。」
会議室は、しばらく静かになった。
誰もが、その構想の規模の大きさを、頭の中で測ろうとしていた。
久保田が、資料に目を落としながら聞いた。
「動力は、どうするつもりだ。通常のディーゼル発電や、既存の蓄電池では、AIを動かし続けるだけの出力が、とても足りないだろう。」
「その通りです。」
梶原は、一度、言葉を切ってから続けた。
「小型の核融合炉を搭載することを想定しています。バスケットボールほどの大きさで、外部からの燃料補給なしに、艦を完全に自律させることができます。原子力潜水艦と言っていい構成ですが、仕組みは、既存の原子力潜水艦とはまったく違います。」
その一言で、会議室の空気が、明らかに変わった。
内閣官房副長官の桐谷誠が、すぐに声を上げた。
「核融合炉、ですか。」
「はい。」
「正気で言っているのか。」
桐谷の声には、強い苛立ちが滲んでいた。
「我が国は、非核三原則を国是としてきた国だ。広島と長崎を経験した国民の前で、核を積んだ軍艦を造るという話が、どうやって正当化できるというんだ。」
梶原は、慎重に言葉を選びながら答えた。
「核融合は、核分裂とは、根本的に仕組みが違います。爆発的な連鎖反応のリスクが構造的に低く、放射性廃棄物の量も、通常の原子炉とは比較になりません。」
「仕組みが違うと言っても、国民にとっては、同じ核という言葉でしかない。」
桐谷は、机を軽く叩きながら続けた。
「フクシマから、まだ5年も経っていない。原子力という言葉そのものに、国民がどれほど強い拒否感を持っているか、忘れたわけじゃないだろう。」
久保田が、その言葉に反論した。
「だからこそ、これは、最初から最後まで、国民に説明する計画にはしない。完全な秘匿計画として進める。」
「秘匿すればいいという話じゃない。」
桐谷の声が、さらに強くなった。
「いつか必ず、どこかから漏れる。その時、政府がどう責任を取るつもりだ。非核三原則を、政府自らの手で破ったことになる。それが公になれば、内閣どころか、国としての信用そのものが崩れる。」
梶原は、その指摘に、すぐには反論しなかった。
「リスクがあることは、否定しません。それでも、何もしないことのリスクの方が、長期的には大きいと考えています。」
官房長官の三宅が、両者の間に入った。
「桐谷くんの懸念は、もっともだ。だが、中国が空母を2隻、同時に建造しているという現実も、無視できない。」
三宅は、一度、深く息を吐いてから続けた。
「我々が今、何もしなければ、5年後、10年後の日本は、軍事的に決定的な劣位に立たされる。それも、また別の意味での国民への責任放棄になるんじゃないか。」
桐谷は、すぐには答えなかった。
しばらくの沈黙の後、低い声で言った。
「分かっている。だが、せめて、安全性については、徹底的に検証してほしい。核という言葉が、もう一度、日本国民にとっての悪夢になることだけは、絶対に避けなければならない。」
梶原は、その言葉に、深く頷いた。
「約束します。核分裂炉とは比較にならないレベルの安全性を、設計の最優先事項にします。」
会議は、その後も、何時間にもわたって続いた。
最終的に、計画は、政府の特別予算と、表に出ない形での財界からの資金提供によって、極秘裏に進めることが決定された。
公的な記録には、ほとんど何も残さない。
それが、この日、出された結論だった。
「絵空事のように聞こえるかもしれませんが」と梶原は続けた。
「今、国内には、その基礎になり得る研究をしている人間がいます。」
梶原は、東京大学の相川和彦という名前を出した。
カオス理論とニューロコンピューティングを組み合わせた研究は、まだ学術的な段階に留まっているが、防衛応用という観点で見れば、他に類を見ない可能性を持っている。
梶原はそう説明した。
実のところ、梶原の部下が前年、相川の研究室に一度メールを送っていた。
当時はまだ構想が固まっておらず、相川からの返信もなかったため、それ以上の接触はしていなかった。
梶原は、その時の記録を改めて読み返し、今度は自分自身で動くことを決めた。
2016年、春。
梶原は、東京大学の研究室を直接訪ねた。
事前に連絡を入れていたものの、約束の時間に現れた梶原を見て、相川は少し驚いた様子だった。
「防衛省のかたが、わざわざこんな場所まで来られるとは思いませんでした。」
「相川先生の論文を読ませていただきました。お話を伺いたいことが、いくつかあります。」
相川は、コーヒーを2つ用意しながら、軽い口調で答えた。
「軍事の話なら、あまり得意な分野ではないですよ。」
「軍事の話ではありません。先生がやっている研究そのものについて、お聞きしたいんです。」
梶原のその一言に、相川は少しだけ表情を変えた。
研究室の窓から差し込む春の光の中で、後にゼロと呼ばれることになる計画の最初の一歩が、静かに始まろうとしていた。




