第二章 ダークウェブの夜
平壌から少し離れた建物の一室で、キム・ドファンはモニターの前に座っていた。
時刻は深夜だったが、室内に時計を気にする人間はいなかった。
キムが所属するラザルスは、北朝鮮の対外工作機関と深く結びついた集団として知られていた。
過去には、イーサリウムをはじめとする仮想通貨の取引所から、巨額の資金を繰り返し奪い取ってきた実績があり、その資金が北朝鮮の軍備拡張に使われているというのが、国際社会で広く共有されている見方だった。
今夜の標的は、日本国内のある地方銀行だった。
2005年頃から続けてきた仕事の延長で、キムにとってはもう新鮮さのない作業になっていた。
侵入経路はすでに確保していた。
キムは内部のサーバーへゆっくりとアクセス範囲を広げながら、価値のあるデータを探していった。
途中、ある地方議員の関連団体への不審な資金移動の記録が目に入った。
本来の目的とは関係のない情報だったが、キムはとりあえずそれもまとめてコピーした。
何が後で役に立つかは分からない。
データを抜き終えると、キムは画面を閉じ、報告書を上に提出した。
今夜の成果は、外貨に換えられそうな情報がいくつかと、用途不明の政治資金データだった。
後者については、特に指示もなく、サーバーの片隅にそのまま保管された。
キムにそのつもりはなかったが、後にこのデータが思いがけない形で別の場所へ流れていくことを、この時のキムは知らなかった。
別の場所、モスクワ近郊では、ニキータ・ヴォルコフが同じ夜を過ごしていた。
ヴォルコフが所属するファンシーベアは、ロシアの軍事情報機関との関わりが指摘される、国家主導型のハッキング集団だった。
金銭目的ではなく、各国政府や軍の内部情報を盗み出し、ロシアの対外戦略に役立てることを目的としている、というのが、各国の分析機関に共通する見方だった。
2014年頃から、日本の防衛省と外務省への侵入を強めていた。
今夜の作業は、防衛関連の予算配分記録の収集だった。
ヴォルコフは表示された数字の列を眺めながら、特に変わった点を探していた。
「ニキータ、こっち見てください。」
若い分析官が声をかけた。
モニターには、人工知能関連の基礎研究に対する予算が、近年わずかに増えている様子が表示されていた。
具体的な研究内容までは特定できなかったが、傾向としては明らかだった。
「日本は、この分野に少しずつ金を割き始めているな。」
ヴォルコフはそう言って、その傾向をメモに残した。
分からないものは、必ず記録しておく。
別の日、場所は特定できない。
ランサムウェア集団ロックビットには、固定の拠点がなかった。
メンバーはロシア語圏を中心にヨーロッパ、アジア各地に散らばっていて、ダークウェブ上の専用フォーラムで連絡を取り合っていた。
国家との直接的な繋がりはなく、サーバーを乗っ取り脅迫し、暗号化したシステムの復旧と引き換えに金銭を要求する、純粋に金のための犯罪集団だった。
コールサインD9として知られているオペレーターは、今夜も日本の医療機関のシステムを暗号化していた。
大阪にある総合病院だった。
古い大型の総合病院はシステムがツギハギでセキュリティが弱い。
2週間前に侵入経路を確保し、今夜が実行日だった。
タイマーがゼロになった瞬間、病院の電子カルテシステムと予約管理システムが同時にロックされた。
身代金要求のメッセージが、病院の全端末に表示された。
金額はビットコインで700万ドル相当、日本円にして約1億2千万円、支払い期限は72時間だった。
D9はこの仕事を、いつもと同じ手順で処理していった。
病院という場所への特別な感情はなかった。
システムを暗号化し、要求を出し、支払われれば解除する。
払われなければ、次の標的に移るだけのことだった。
日本への攻撃は2012年頃から続けていて、最近になって医療と公共インフラへの対象を広げていた。
日本のサイバー保険の普及で、支払い能力があると判断したことが理由だった。
時刻は、東京で午前4時になろうとしていた。
永田町の議員会館は静まり返っている。
しかし、ダークウェブの匿名掲示板では、まったく別のことが起きていた。
アノニマスの日本支部に関わるメンバーたちが、数週間前から準備を進めてきた作戦の最終確認を行っていた。
アノニマスに組織図はなく、本部もない。
世界中の有志が、同じ理念のもとに自発的に動く分散型の集団だった。
誰かが「これをやろう」と呼びかけ、賛同した者が動く。
今回呼びかけたのは、日本国内の政治腐敗に怒りを持つ複数のメンバーだった。
集めたデータの量は膨大だった。
議員の政治資金収支報告書の虚偽記載、業者との癒着を示すメールのやり取り、パーティー券の裏金の流れ。
これらに加え、何人かの議員が交際相手の女性と密会する様子を映した動画も、データの中に含まれていた。
これらを整理し、ダークウェブ経由で一斉に公開する。
それが今夜の計画だった。
データの一部は、別の経路を通じて流れてきたものだった。
かつてラザルスが偶然手に入れ、用途も決めずに保管していた政治資金のデータが、巡り巡ってアノニマスのメンバーの手元に届いていた。
ラザルスにそのつもりはなかったが、盗まれたデータが意図しない形で別の組織の作戦に使われることは、ダークウェブの世界ではよくあることだった。
午前4時23分。
公開ボタンが押された。
データは複数の暗号化されたサーバーを経由しながらミラーサイトに同時展開され、ダークウェブと一部の海外サーバーに拡散し始めた。
アノニマスのメンバーたちは、それぞれの場所でモニターを見つめながら、永田町が目覚める時間を待った。
4つの組織が、それぞれ別の目的で、同じ時期に日本を標的にしていた。
完全な偶然ではなく、日本のサイバー防衛の脆弱性が、それぞれの組織にとって好機と判断された結果だった。
ただし、4つの組織の間に、直接の連携は一切なかった。
それぞれの思惑が、たまたま同じ臨界点へ向かって積み重なっていただけだった。
夜明けまで、あと少しだった。
永田町はまだ眠っていた。
しかし数時間後、その眠りは激しく破られることになる。
それを知っているのは、今この瞬間、ダークウェブの画面を見つめている人間たちだけだった。




