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第三章 政界の混乱

2015年、初夏。

永田町は、まだ夜の匂いを残していた。


衆議院議員、戸田誠一郎の秘書を務める中野(まなぶ)は、午前5時前に鳴った電話で目を覚ました。

発信元は同じ事務所の先輩秘書だった。

「中野、すぐテレビをつけろ。」

それだけ言って、電話は切れた。


中野はリモコンを乱暴に操作し、ニュース番組に画面を合わせた。

映っていたのは、見慣れた永田町の議員会館だった。

キャスターの声は、いつもより明らかに早口になっていた。

「複数の国会議員の政治資金に関する内部文書とみられるデータが、今朝未明、インターネット上に一斉に公開されました。」


中野は布団から飛び出し、シャツに袖を通しながらパソコンを立ち上げた。

画面に表示された文書の量は、想像していたよりも遥かに多かった。

政治資金収支報告書の虚偽記載とみられる比較表。

業者との会食記録とパーティー券の裏金とされる金額の一覧。

そして、戸田誠一郎の名前も、その中に確かにあった。


中野は事務所へ向かう車の中で、戸田に電話をかけた。

3回目の呼び出しで、戸田が出た。

声はいつもの落ち着いた調子だったが、その奥に隠しきれない緊張が滲んでいた。

「中野か。見たか。」

「はい、先生。今、車の中です。」

「すぐ来てくれ。それと、誰にも何も話すな。まだ何も分かっていない。」


戸田は電話を切った後、リビングのソファに座り直し、もう一度テレビを見た。

画面には、自分の選挙区の名前と、過去5年分の政治資金の流れがグラフ化されて表示されていた。

記憶にある金額と、ほぼ一致していた。

誰がこれを集めたのか、戸田には見当がつかなかった。

自分の事務所の内部からなのか、それとも業者側からなのか、その判断さえできないまま、戸田は次にかけるべき相手の名前を頭の中で並べていた。


党本部のある建物では、すでに数十人の党職員が出勤していた。

通常であれば始業時間まで誰もいないはずの幹事長室にも、明かりがついていた。

幹事長の坂上謙一は、机に並べられた数枚の紙を順番に読みながら、眉間の皺を深くしていた。

紙には、今回の流出で名前が挙がった議員のリストが記されていた。

その数は、12名に達していた。


坂上は秘書官を呼び、短く指示を出した。

「対象者全員に、今日中に事務所へ集まるよう連絡してくれ。記者には、まだ何も発表するな。」

秘書官が部屋を出ていくと、坂上は一人になった部屋で、リストの一番上に書かれた名前をもう一度見つめた。

戸田誠一郎。

党内でも長く重きをなしてきた人物の名前が、こんな形で並ぶことになるとは、坂上自身も予想していなかった。

これが財務分野だけの話で済むのか、それとも他の名前にまで波及するのか、坂上にはまだ判断がつかなかった。


参議院議員、桑原美智子の事務所にも、同じ朝、別の種類の動揺が走っていた。

流出した文書の中には、政治資金とは別に、桑原の私的な異性との交友関係に関する動画や写真とメールのやり取りも含まれていた。

相手は、桑原の選挙を支援していた経済団体の関係者だった。

公にされていなかった関係が、文書と画像という形で、誰の目にも触れる場所に置かれてしまった。


桑原本人は、報道が始まった直後から事務所の電話に出ることを止め、自宅の鍵を閉めて動かなかった。

事務所のスタッフは、外に集まり始めた報道関係者の対応に追われ、桑原本人への確認すら取れない状態が、午前中いっぱい続いた。

桑原の名前が出たことで、与党内には別の動揺も広がっていた。

財政的な不正よりも、私的な醸聞の方が有権者の感情を強く刺激することを、誰もが経験から知っていたからだった。


野党第一党の幹部、富永隆司は、その朝の報道を見て、最初に浮かんだ感情を顔に出さないよう努めた。

富永の事務所には、与党議員の名前が並んだリストが、すでにファクスで何枚も届いていた。

「これは、向こうにとっては地獄だろうな。」

富永は秘書にそう漏らしてから、すぐに表情を引き締めた。

「うちから不用意な発言は出すな。今は、向こうが自滅していく様子を、黙って見ていればいい。下手に騒げば、こっちまで一緒に火の粉を被ることになる。」

富永の言葉には、政治家としての冷静さと、同時に他人の不幸を計算に組み込む冷たさが、同じだけの重さで含まれていた。


午前8時を過ぎる頃には、議員会館の前に報道各社の中継車が並び始めていた。

カメラを構えた記者たちは、誰かが建物から出てくるたびに一斉にレンズを向けた。

中には、名前の挙がった議員と直接関係のない議員までが、無関係を装うために早足で建物に入っていく姿もあった。


戸田誠一郎が議員会館に到着したのは、午前9時を少し回った頃だった。

出迎えた中野は、戸田の顔から、いつもの落ち着きが完全に消えていることに気づいた。

「先生。」

中野が声をかけると、戸田は一瞬だけ足を止め、低い声で答えた。

「もう少しだけ、時間が欲しいな。辞めるにしても、続けるにしても、今この瞬間に決められることじゃない。」

それきり、戸田は何も言わずにエレベーターへ向かった。


その日の午後、坂上は緊急の幹部会を開いた。

出席した誰もが、今回の流出の規模が過去の不祥事とは比較にならないことを理解していた。

個人の問題ではなく、党全体の体質そのものが問われる事態になっている、というのが共通の認識だった。

「誰がこれをやったのか、まだ分からないのか。」

坂上の問いに、情報担当の職員が答えた。

「アノニマスを名乗る集団による犯行声明が出ています。ただ、データの一部は別の出所からのものではないかという指摘も、すでにネット上で出ています。」

坂上は黙ったまま、その答えを頭の中で何度も繰り返した。


その日のうちに、流出したデータの全容を把握できた者は、永田町に一人もいなかった。

分かっていたのは、これが単発の暴露ではなく、組織的に集められ、計算された形で公開されたものだということだけだった。

誰が、何のために、これほどの量の情報を集めたのか。

その答えを知る者は、永田町には、まだ誰もいなかった。


夕方になっても、議員会館の前から報道各社の中継車は減らなかった。

むしろ、夜のニュースに向けて、その数はさらに増えていた。

永田町の長い一日は、まだ終わっていなかった。

そして、この一日が日本中の世論をどこまで揺るがすことになるのか、この時点ではまだ誰も知らなかった。

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