第一章 研究室の午後
「小説家になろう」初投稿です、よろしくお願いします。不慣れなので何かマナー違反などあればご指摘お願いします。
東京大学工学部、情報棟の4階。
廊下の突き当たりにある研究室のドアには、少し古びたプレートが貼られていた。
「相川研究室 ニューロコンピューティング研究部門」
訪れる人間が少ないせいか、プレートの片側がうっすらと浮いていた。
室内は、外から想像するよりも広かった。
壁際にサーバーラックが3台並び、その冷却ファンが低く唸っている。
窓際の長机には論文の束と、カラになったコーヒーカップがいくつも置かれていて、どちらの数が多いか、すぐには判別できなかった。
午後の光が斜めに差し込み、埃がゆっくりと舞っているのが見えた。
相川和彦は、モニターを3台並べたデスクの前に座っていた。
40代前半。
東京大学の教授という肩書きは、本人の砕けた雰囲気にはあまり似合っていなかった。
シャツの裾はズボンから半分出ていて、髪も今朝整えたきり、もう乱れている。
「先生、また徹夜したんですか。」
声をかけたのは、大学院生の永田祐樹だった。
相川の研究室に所属して2年、今は博士課程の1年目になる。
「徹夜じゃないよ。ちゃんと2時間は寝た。」
「それ、徹夜の言い換えですよね。」
永田が呆れたように言うと、相川は悪びれずに笑った。
机の上に広がっているのは、カオス理論の数式と、ニューラルネットワークの構造図だった。
相川は2010年頃から、この2つの分野を組み合わせる研究を続けていた。
一般的な人工知能の学習モデルとは異なり、相川が目指していたのは、予測不可能性そのものを内包したシステムだった。
完全に決まった反応しか返さない人工知能は、結局のところ高性能な計算機に過ぎない。
相川が求めていたのは、そこから一歩先に踏み出した何かだった。
「先生がやろうとしてることって、結局、感情を作ろうとしてるんですよね。」
永田の言葉に、相川はマグカップを口元で止めた。
「感情、っていうと大袈裟だけどな。ただ、入力に対して常に同じ出力を返すシステムには、限界があると思ってる。人間の思考だって、完全に論理的じゃない。むしろ、論理から少しずれたところに、人間らしさがある。」
「それを、機械の中に再現するってことですか。」
「再現できるかどうかは分からない。でも、近づけることはできると思ってるよ。」
相川はそう言ってから、マグカップの中身を一気に飲み干した。
コーヒーはもう冷めていた。
それでも気にせず、相川は新しいコーヒーをポットから注ぎ直した。
永田は、その様子を見ながら小さく溜め息をついた。
「先生、それで何杯目ですか。」
「数えてない。数えると、やめなきゃいけない気がするから。」
夕方近くになって、相川のパソコンに1件のメールが届いた。
差出人は、防衛省所属の研究員を名乗る人物だった。
件名には、「貴研究室の発表論文について、一度お話を伺いたい」とだけ書かれていた。
相川はそのメールを数秒間見つめてから、特に深く考えずに既読のフォルダへ移した。
「先生、防衛省から何か来てるんですか。」
永田が画面を覗き込んで聞くと、相川は軽い口調で答えた。
「ただの問い合わせだろ。論文を読んで、興味を持ってくれる人がいるのは嬉しいことだよ。」
その時の相川には、このメール1本が、これから10年以上続く長い計画の最初の入り口になることなど、想像する手立てがなかった。
窓の外では、夕方の光が少しずつ赤みを帯びていく。
研究室の中では、サーバーラックの低い唸りだけが、変わらずに続いていた。
夜になり、永田が先に帰った後、相川は一人で研究室に残っていた。
届いたメールをもう一度開き、文面を読み返す。
「一度お話を」、その一文だけが、なぜか頭に残った。
しばらく眺めてから、相川はそのメールをそのままにして、パソコンを閉じた。
理由を言語化することはなかったし、する必要もないと思っていた。
廊下に出て、電気を消す。
研究室が暗くなった。
モニターのスタンバイランプだけが、静かに点滅している。
相川は鍵をかけ、プレートの浮いた端を指先で軽く押さえてから、エレベーターへ向かった。




