閑話 相模蓮《さがみれん》
(……危なすぎる。今の兄貴は、あまりにも、あまりにも無防備すぎるんだ……っ!)
湊の前を歩きながら、蓮は内心で血を吐くような危機感を抱いていた。
蓮の前世は、ブラック企業の荒波に揉まれ、孤独なまま擦り切れて死んだしがない社畜である。そんな男にとって、今世で得た『家族』という名の絆は、何物にも代えがたい至宝だった。
特に、兄である湊は別格だ。
あんなに優しく、飯が上手く、綻びた服を繕う姿がまるで聖母のように後光が差しているおっとりした兄が、この血生臭い弱肉強食のダンジョン時代に放り出されている。その事実だけで、蓮の『オタク知識』が警鐘を乱打していた。
(兄貴は、いじめられっ子属性の数え役満なんだよ!隙だらけのステータスに、あの人を疑わない性格。いつか現れるかもしれない『傲慢なエリート探索者』や『噛ませ犬気質のチンピラ』に絡まれる未来が、俺にはHD画質で視えてるんだ……!)
だからこそ蓮は決意した。
前世で読み漁ったネット小説やゲームの知識を総動員し、この世界の『攻略法』を独占する。すべては、兄が誰にも傷つけられず、キッチンで鼻歌を歌っていられる平和な日常を守り抜くため。
(見てろよ兄貴。俺がこの世界の理をハックしてでも、あんたを最強のサブメンバーに、いや、絶対に手を出してはいけない『聖域』にまで仕立て上げてやる。――あんたの幸せは、この俺が死守する!)
鼻息を荒くする蓮。その瞳には、弟としての情愛を超え、もはや推しを神格化する狂信的なオタクの光が宿っていた。
◆
地下4層、ボス部屋を目前にした休憩地点。蓮は入念に愛剣の手入れを行いながら、脳内で数パターンの戦術を再確認していた。
目の前に広がるのは、ドーム状に広がるボス部屋のホール。床には魔力伝導路が幾何学模様を描き、その中心に鎮座する巨大な伝導石が、挑戦者の魔力を今か今かと待ち構えている。
「よし、兄貴。作戦Bで行こう。まずは俺が召喚陣を起動させて、出現と同時に『煙幕弾』を投下する。視界を遮った隙に、兄貴はいつもの『剛力』と『迅速』の重ねがけを頼む。……いい?モンスターが出た瞬間から、ここは戦場だ。絶対に俺から離れないで」
蓮が熱を帯びた口調で振り返った、その時だ。
隣にいたはずの兄・湊が、あらぬ方向を向いて動きを止めていた。
「……?兄貴、どうしたんだよ。そっちはただの壁だぞ」
いぶかしげに声をかけるが、湊は心ここにあらずといった様子で、吸い寄せられるように部屋の隅へと歩いていく。
この世界において、ダンジョンは厳重な管理下に置かれている。自衛隊や警察が定期的に巡回し、イレギュラーな魔物や悪質な探索者の介入は排除されている。事故や事件の発生率は極めて低い。
(まさか、隠しギミックか?……いや、事前に集めた中にそんな事例はなかった。もしかして、緊張で兄貴の精神がバグった?)
蓮が慌てて追いかけると、湊は呆然と壁を見つめて立ち尽くしていた。蓮の視界には「何の変哲もない岩壁」しか映らない。だが、湊の瞳は、壁の向こう側にある「何か」を慈しむように、一瞬だけ細められた。
――直後、湊は何事もなかったかのように「ボスをどう攻めようか考えてただけだよ」と、ふんわり微笑んだ。
(……考えすぎか。兄貴なりに気合が入ってるんだな。よし、兄貴のやる気を無駄にはしない!)
蓮は気を取り直し、中心の伝導石へ魔力を流し込んだ。
◇
直後、召喚陣が朱く明滅し、空間からモンスターが這い出した。
中央に鎮座するのは、大剣を担いだ巨漢の『コボルトチーフ』。その周囲を、弓を番える『コボルトアーチャー』2体と、前衛を固める『コボルトファイター』3体が固める。
「作戦開始!」
蓮の叫びと同時に、湊から放たれた支援魔術が蓮の身体を包む。
その瞬間、蓮は目を見開いた。
(……!?なんだ、この魔力の『密度』は!)
いつも受けている強化術とは次元が違った。身体が羽根のように軽く、それでいて全身に力が満ち溢れる感覚。背後から誰かがそっと背中を押しているような、絶対的な全能感。
蓮の鼓動が、暴力的なまでの魔力供給に跳ねる。血管を流れるのは血液ではなく、高純度の光そのものであるかのような錯覚。視界の端で舞う埃の動きすら、止まって見えた。
「――遅い!」
蓮の姿が消えた。
正確には、あまりの加速にコボルトたちの動体視力が追いつかなかったのだ。
蓮は一切の無駄なく踏み込み、ファイターたちの喉笛を瞬く間に斬り裂く。狙撃を試みたアーチャーが弦を引き絞るより早く、蓮の投じたクナイがその眉間を射抜いた。
「ガ、アァッ!?」
残るはボスのみ。コボルトチーフが大剣を振り上げるが、蓮の目には止まっているも同然だった。
蓮は事前の情報収集に基づき、チーフの攻撃モーションの隙を完璧に把握していた。重厚な一撃が地面を叩き割る寸前、蓮は風のようにその懐へ潜り込む。
「終わりだ!」
湊の神がかり的なバフによって増幅された一撃が、コボルトチーフの魔石を正確に貫いた。
断末魔すら上げられず、ボスは光の粒子となって霧散する。
◆
「ふぅ……。圧勝だね兄貴!それにしても、さっきのバフ凄かったよ。タイミングが完璧だった!……ていうか、ちょっと凄すぎない?魔力の出力がいつもの1.5倍はあったっていうか……」
「そうかな?蓮くんの教え方が良かったからだよ、きっと」
はにかむ湊。その穏やかな横顔は、数分前に数多の魔物を殲滅した戦場の中心にいたとは思えないほど、日常の温かさに満ちていた。
蓮は確信した。
自分たちの連携は、もはや地元の中学・高校レベルを遥かに超越している。
このままいけば、兄を「安全な場所」へ押し上げることができるはずだ――。
前世で遊び倒したRPG『最後の幻想』の勝利ジングルを鼻歌で奏でながら、上機嫌でドロップアイテムを回収する弟。――しかし、彼はまだ気づいていない。
兄が「安全な場所」に行くどころか、この数時間後に、全人類が平伏しかねない「破壊と美の化身」へと変貌し、自分自身の理性を粉々に粉砕しに来るという未来に。
◆
ボス戦を終えた興奮も冷めやらぬまま、二人はダンジョンに併設された換金窓口へと向かった。
この世界ではダンジョン運営が公的に管理されており、換金所は銀行のように清潔で、警備員も常駐している。蓮は手慣れた様子でカウンターに戦利品を並べた。
数個の魔石と、魔鉄製の武具。そして今回の目玉は、コボルトチーフが落とした「ドラゴンが彫り込まれた黄金のお守り」だ。
「……お守りには希少金属が含まれていますね。ギルド規定により、合計でこちらの金額になります」
提示されたモニターの数字を見て、蓮は内心でガッツポーズを作った。一回の探索としては破格の収入だ。中学生が手にするにはあまりに重い財布を手に、蓮は満面の笑みで隣を振り返る。
「よしよし、かなりの額になったぞ。……ほら兄貴、今日の分け前だ。これで新しいエプロンでも買いなよ」
「えっ、こんなに?僕はただ後ろにいただけなのに……」
「何言ってんだよ。兄貴の神支援がなきゃ、あんなに楽には勝てなかったんだから。これは正当な報酬!拒否権なし!」
なかば強引に報酬を握らせ、二人はダンジョンを後にした。
次なる目的地は、徒歩10分。駅前にある地元で人気の洋菓子店『パティスリー・ソレイユ』だ。
◇
店内に足を踏み入れると、焼きたての生地と甘いクリームの香りが二人を包み込んだ。
ショーケースには宝石のように輝くケーキたちが並んでいる。蓮の視線は、期間限定の「太陽のオレンジムース」に釘付けになった。
(……太陽、か)
ふと、蓮の脳裏に前世の嫌な記憶がフラッシュバックする。
冷え切った食卓。コンビニ弁当を一人で食べる夜。会社では「代わりはいくらでもいる」と罵倒され、誰からも必要とされていないと感じていた、あの乾いた日々。
あの頃の自分にとって、オレンジ色に光る太陽は、ただ「明日もまた仕事だ」と絶望を運んでくるだけの無機質な球体だった。
少しだけ、胸がしんみりと疼く。
だが、その冷たい記憶を溶かしたのは、隣に立つ兄の柔らかな声だった。
「蓮くんは何にする?チョコケーキかな?」
「僕は……そうだな、その期間限定の『太陽のオレンジムース』にしようかな。なんか今日の兄貴の魔法みたいで、縁起が良そうだし」
蓮は笑った。前世でどれだけ孤独だったとしても、今はこうして自分の背中を預けられる、世界で一番優しい兄が隣にいる。
(……ああ、幸せだな。本当に)
しんみりした気分は甘い香りと共に消えていった。今はただ、この幸福を壊さないために強くなる。それだけで十分だった。
◆
「二人ともおかえりなさい。今日も怪我は無さそうね。無事で何より!あら、今日は二人でケーキのお土産?」
「うん。お母さん、夕飯の準備手伝うね」
帰宅後の相模家は、いつも通り賑やかだった。
湊と母が台所で楽しそうに包丁の音を響かせ、父・健一が「おっ、いい匂いだな」と仕事から戻ってくる。
食卓に並ぶのは、湊特製の肉じゃがと母のハンバーグ。
家族全員で囲む食卓。箸を動かしながら、今日の探索がいかに楽で安全だったかと、蓮が盛りに盛ったを披露し、みんなで笑う。
(この温かさだ。これを守るために、俺は転生してきたんだ)
食後のデザートに買ったタルトを頬張り、蓮は幸福の絶頂にいた。
(ああ、平和だ。兄貴も今日も無事だった。明日も、明後日も、ずっとこの穏やかな時間が続くんだ……)
そう。続くはずだったのだ。
◇
――異変は、湊が一番風呂に向かった後に起きた。
リビングでテレビを眺めていた蓮の視界に、廊下の隙間から凄まじいまでの朱金の閃光が飛び込んできたのだ。
「な、なんだ!?爆発か!?」
両親に続いて、蓮も脱衣所へなだれ込む。
湯気と光の粒子が舞う中、そこに立ち尽くしていた人影を見て、蓮の思考回路は一瞬で焼き切れた。
「…………は?」
そこにいたのは、兄ではない。
滑らかな褐色の肌。極薄のシルクから覗く、暴力的なまでに美しい肉体の曲線。首元や手首でジャラリと鳴る重厚な黄金の宝飾品。
それは、蓮が前世から今日に至るまで、古今東西のあらゆるゲーム、漫画、アニメを漁っても一度として拝んだことのない、人類の想像力の限界を超越した「絶世の美女」だった。
(な、なんだ……?誰だ……?既存のどの作品のキャラとも被ってない……。なのに、俺の魂が「これこそが理想だ」って絶叫してやがる……!)
未知の美しさに蓮の全細胞が凍りつき、直後に沸騰する。しかし、その「美女」が湊特有の困り顔で首を傾げた瞬間、さらなる衝撃が蓮を襲った。
「あ、あの……みんな、お騒がせしてごめんなさい……?」
その声、その仕草、その温かな魔力。
視界が捉えているのは「創作物の歴史にすら存在しない究極の女神」なのに、脳が「中身は大好きな兄貴だ」と正解を突きつけてくる。
【未踏の神秘(外見) × 聖母のような兄(中身) = 宇宙破壊】
脳内の計算式が存在しない解を求めて暴走し、前世からの全知識と、今世の兄への敬愛が火花を散らして激突した。
(待て。ダメだ。俺が守るべき『聖域』が、どんな物語のラスボスより手に負えない『破壊神』に変わったのか……?創作の枠すら超えた美貌で中身は兄貴?どんな特効薬も効かない猛毒じゃねーか!でも兄貴なんだ、兄貴なんだぞ!?)
葛藤。混乱。そして、爆発。
蓮の鼻から、一筋の鮮血がツーーッと垂れ落ちた。
「兄貴、……兄、貴……(既存のジャンルが全滅した……尊い……でも兄貴……)」
ぶつぶつと呪文のように呟きながら、蓮は白目を剥いて直立不動のまま後ろへと倒れていく。
彼が夢見ていた「兄を平和に守る日々」は、この瞬間、二次元にも三次元にも解決策が存在しない「全宇宙初、未曾有の難問」へと強制アップデートされたのである。




